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竜殺しの少女  作者: 0
第二章 <強さと弱さ>
17/19

16話

 帰ってきて、まず最初にしたのは――ビールをがぶ飲みすることだった。

 通い慣れたあの居酒屋の、いつもの席。

 あの日、竜を倒して街に戻った私は、泥と血の染みた上着のままカウンターに腰を下ろし、無言でジョッキを差し出した。女将は何も訊かず、ただ一杯目を注ぎ、二杯目を注ぎ、三杯目には小さくため息をついていた。


 酔うために飲んだわけではない。

 ただ、喉の奥が焼けるような感覚で何かを押し流したかったのだ。

 泡のきめ細かさや、苦みの具合なんて、何もわからなかった。

 空いたジョッキを数杯重ねたあと、私は席を立ち、そのまま宿へ戻った。


 それから、部屋にこもった。

 数日、誰にも会わず、扉の外の気配にも反応せず、寝ては起き、起きてはぼんやりと天井を見上げるだけの時間が続いた。


 あれが正解だったのかは、わからない。


 魔物――それはたいてい、迷いなく手を下せる存在だ。

 害を成す。人を喰らう。集落を襲う。

 だから、狩る。

 そこに迷いはない。


 ワイバーンもそうだった。

 実害が出ていた。

 交易路で襲われ、物資が届かなくなった。

 誰かが困っていたし、誰かが泣いていた。

 だから、私が手を下す意味は明確だった。

 正義とか名誉とか、そんな立派な言葉じゃない。ただ、そうするべきだと自分に言い聞かせられた。


 だけど――あの竜は、違った。

 あの黒き竜は、まだ何もしていなかった。

 山の奥に、ただ一頭で生きていた。

 私の報告がなければ、ギルドが討伐を決めることもなかったかもしれない。

 いや、いずれは誰かの目に留まり、いずれは「危険」と判断されたかもしれないけれど――でも、それが“今”でなければならなかったかは、わからない。


 子供だった。

 竜の齢は読みにくいが、私の目で見て、あれはまだ十歳そこら――人間で言えば、少年か少女か、そんな年頃に見えた。

 咆哮も、爪も、火も、確かに命を奪える力を持っていた。

 だが、それは本能の範疇だったように思う。


 もし、あと二十年――いや、四十年。

 あの竜が生き延びていれば、きっと言語こそ話さずとも、言葉を持たない知恵で人を理解し、住処を選び、衝突を避けるような存在になっていたかもしれない。


 そう思うのは甘いか?

 獣に過ぎないと断じるべきなのか?

 竜を人間に近づけて考えることが、そもそも間違いなのか?


 私は、あの目を知っている。

 あの戦いの中で見た、黄金のまなざし。

 恐れも怒りも、ただの殺意でもなかった。

 確かに、なにかを見ていた。

 私という存在を。


 あの目に宿るのは、どういう感情だったのだろうか。


 痛みか、怒りか。

 それとも、なにか別の、もっと穏やかな、言葉にならない何かだったのか。


 あの一瞬の、黄金色のまなざしを思い出すたび、胸の奥がじんわりと痛んだ。

 竜は叫んだ。暴れた。火を吐いた。けれどそれは、命を守ろうとする誰かと、果たしてどこが違ったのだろう。

 ただ生きていたのだ。ただ、そこにいただけだった。


 私はベッドの上で、横たわったまま右手を伸ばした。

 天井の木目を背景に、自分の手を見つめる。

 何度も槍を握ってきた手。

 無数の命を奪ってきた手。

 そしてあの竜に、最後の一撃を突き立てた手。


 指先が、わずかに震えていた。

 外から鳥の声がかすかに聞こえる。

 風が窓辺を通りすぎていく。

 もう朝なのか、それとも昼なのか。わからなかった。


 それでも私は、目を閉じなかった。

 天井を見つめながら、ただ、じっと手を見ていた。


 この手で、何を守り、何を奪ったのか。

 答えはまだ出ない。


 けれど――

 いつかまた槍を握る日が来るのなら、せめてそのときは、迷いのない眼をしていたい。


 私は静かに、手を下ろした。

 部屋の中に、ただ風の音だけが満ちていた。





episode 17


 久しく外に出た。

 窓の向こうで鳥が鳴き、風に揺れる洗濯物の音が、妙に遠く感じられた朝だった。

 体を起こし、簡単に身なりを整えて、私はセリュアンの街路を歩きはじめた。


 向かった先は、ギルド。

 用があったわけではない。ただ、そろそろ顔を出しておかねばと思っただけだった。


 ギルドの扉を押して中に入る。

 途端に目に入ったのは、見知った顔ぶれ――討伐隊の面々だ。

 あの山を共に登り、竜を前にして武器を構えた者たち。

 こちらに気づくと、いくつかの視線が向けられた。

 それは敵意でも好奇でもなく、静かな確認のような眼差し。


 ――ああ、帰ってきたのか。


 言葉にせずとも、そう告げるようなまなざしだった。


 そのとき、受付の奥から声がした。


 「リューベルさん……!」


 受付嬢だった。

 いつもの柔らかな声より、ほんの少しだけ張りがある。

 私はそれに軽く頷き、受付カウンターのほうへと歩を向けた。


 近づくと、彼女は何かを言いかけて、けれど言葉を飲み込んだ。

 代わりに、微かに目を細めて、静かにこちらを見つめていた。


 その間――ほんの数秒。


 けれど、ギルドの空気が、静かに変わった。


 ひとりが、ゆっくりと手を打った。

 それに呼応するように、またひとり、またひとりと――


 やがて、ギルドの中に拍手が満ちた。


 力強くも、どこか節度あるその音が、木の天井に反響する。


 私は立ち尽くしていた。

 頭を下げるでもなく、胸を張るでもなく、ただその音を受け止めていた。


 討伐されたのは、あの黒き竜。

 私が報告し、私が戦い、私が――とどめを刺した存在。


 その功績に対する、拍手だったのだろう。

 それが当然の評価であることはわかっていた。

 けれど私は、それをただ静かに受け止めるしかなかった。


 受付嬢が小さく微笑み、囁くように言った。


 「……おかえりなさい」


 拍手は次第に止み、けれど余韻のように温かな視線だけが残った。


 「英雄って、ああいう顔をしてるんだな……」


 誰かがぽつりと呟くのが聞こえた。


 「いやぁ、あの竜を仕留めたのがこの子だってんだからな、たいしたもんだよ」


 「まさか同じ隊にいたなんてな。こっちはついて行くだけで精一杯だったぜ……」


 そんな声が、あちこちから飛び交っていた。

 訝しむでも、皮肉でもなく、本気で持ち上げてくれているのが伝わってくる。


 誇らしげにこちらを見る年配の冒険者がいて、手を振ってくれる者もいた。

 受付嬢が机の奥から布袋を取り出し、そっと差し出してきた。


 「これ、討伐の分け前です。本当はもう少し前に渡す予定だったんですが……しばらく、いらっしゃらなかったので」


 私の手のひらに、ずしりとした重みが乗った。

 中身は見なくてもわかる。金と銀。たぶん、それなりに高額。


 ――感謝されることは、普通なら嬉しいことだ。

 手柄を讃えられ、報酬を受け取り、仲間たちに称賛される。

 冒険者として、いや、人として、それは確かに「望まれる形」だった。


 ……なのに、どこか素直に喜べない自分がいた。


 このまま、ここにいてはいけない――

 そんな気持ちが、じわじわと胸を満たしていく。

 逃げたい、と思った。理由はわからなかった。

 ただ、この場に立ち続けていたら、自分のなにかが壊れてしまう気がした。


 「……ありがとう」


 声になっていたのが、自分でも不思議だった。

 そう言って、私は受付嬢から袋を受け取り、一歩だけ、後ろへ下がった。


 その一歩が、まるで見えないスイッチだった。


 次の瞬間、私はくるりと背を向けていた。


 「……じゃあ、また」


 誰に向けた言葉だったのかもわからない。

 ただ、それだけを残して、私はギルドの扉へと歩き出した。


 足早に。けれど走らないように。

 逃げ出すと思われたくなかったのか。

 自分自身が逃げていると認めたくなかったのか。

 そのどちらだったのかすら、わからなかった。


 ――けれど、実際、あれは逃げだった。


 胸の内に何かが溜まっていく感覚があった。

 名を呼ばれたときから。拍手が鳴り始めたときから。

 功績と称賛が積もるたびに、それと同じ速さで、何かが私の中で崩れていくのがわかった。


 扉を押し、外の空気が肌を打つ。


 そして外に出た瞬間――


 私は、走った。


 何かに追われているわけでもない。

 誰かに呼び止められたわけでもない。

 けれど、足が勝手に動いた。


 逃げなきゃ――と、頭のどこかが叫んでいた。

 このままでは、何かが壊れる。

 それが何なのかは言えないけれど、胸の奥で音を立てていたそれは、きっと私の中でいちばん大事にしていた何かだ。


 石畳を蹴る音が、やけに大きく響く。

 昼の陽射しが、視界の端でぐにゃりと揺れる。

 肩で息をしながら、人混みを避け、建物の隙間を縫うようにして駆けていく。


 誰かがこちらを振り返った気がした。

 それでも止まれなかった。


 走って、走って、走って――


 気づけば、街の喧騒から遠ざかっていた。

 城塞の外縁部、人の少ない並木道のあたり。

 風が吹く。夏草の匂いが、呼吸の隙間に入り込んでくる。


 私はそこにへたり込み、ようやく息をついた。

 膝に手をつき、肩を上下させながら、空を見上げる。


 ――まぶしい。


 ただ、それだけを思った。


 いったい私は、何から逃げたのだろう。

 拍手から?

 称賛から?

 ……それとも、自分が竜を殺したという事実から?


 けれど今は、考えられなかった。

 何かを言葉にするには、胸の中が、あまりに煩くて。


 私はただ、息をしていた。風を感じていた。

 逃げるように走ったこの身体が、ようやく落ち着くのを、じっと待ちながら。

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