15話
黒き竜の爪が閃いた。
地を裂くような咆哮とともに、前脚が大地を抉る。その動きと同時に、私は身を沈めて地を蹴った。竜の爪が掠めた空気が、頬を焼く。槍を逆手に取り、体勢を低くして脇をすり抜けると、すぐに次の攻撃に備えた。
後方から、魔法の光が飛んだ。弓矢よりも鋭い速度で、竜の脇腹に突き刺さる。光と衝撃が岩場を照らし、細かな鱗が一瞬だけ舞い上がった。
「いまだ、押し込め!」
盾を構えた冒険者が前に出て、竜の注意を引く。巨体に比べれば小さな存在だが、その勇気と決意が場の空気を変える。竜は一瞬、そちらへ目を向けた――その隙を逃すものか。
私は跳ねるように岩を蹴り、懐へと飛び込む。槍の穂先が風を裂き、狙うは首と胸の接合部。呼吸と動きの綾が重なる。竜がすぐにこちらへ振り向いた。風が巻き上がる。槍の軌道を変え、竜の肩口へ突き立てた。
硬い。だが、通らないわけじゃない。
手応えに反して、私は槍を引かず、そのまま竜の身体に張り付くように移動する。すぐさま爪が振るわれた。私は槍を抜いて身をひねり、斜面を転がって間合いを取った。
竜は低く唸る。その黄金の目が、はっきりと私を捉えていた。
あの目――やはり、獣だけのものではない。
何かを見極めるような、揺らぎのない意思。
――なら、こっちも本気で応えなきゃならない。
再び踏み込む。
後方では魔法が詠唱され、氷の槍が竜の右の翼を凍らせた。竜がわずかに体勢を崩す。私はそこを狙って駆けた。
槍を両手で構え、滑るように間合いを詰める。
竜が吠え、爪が振るわれる。だが、遅い――私はそれを読んでいた。滑り込むように前脚の下を抜け、槍の石突きで竜の脚の関節を叩いた。バランスを崩す。すかさず穂先を振り上げ、喉元を狙う。
が――竜は翼で風を起こし、その一撃を押し返してきた。
槍が空を切る。風に弾かれ、私は後方へ転がった。岩肌に背中を打ちつけ、息が詰まる。
咆哮が、空気を裂いた。
竜が身を反らし、大きく口を開く。喉奥で蠢く炎の気配に、私は直感的に理解した――来る、と。
次の瞬間、火球が放たれた。
空気が一気に焼ける。光と熱が爆発し、赤く灼けた奔流が一直線に後衛へと飛んだ。
「――っ、伏せろッ!」
誰かの叫び。けれど、遅かった。
轟音とともに爆ぜた火球が、魔術師たちの陣の端を吹き飛ばす。岩が砕け、煙と炎が舞い上がる。悲鳴が重なり、数人が倒れるのが見えた。
「くそっ、回復を! 生きてるやつだけでも!」
騎士らしき者が盾を掲げ、立ちはだかるように前へ出る。
その背で、治癒の術を使う者が急ぎ駆け寄るのが見えた。
だが、竜は止まらない。翼を広げ、体勢を低く構える――次の飛翔だ。
私は斜面を蹴って駆け出す。飛ばせてなるか。あの火球をもう一度受けたら、戦列は崩壊する。
私は斜面を駆け上がりながら、竜の動きに集中した。
その巨体が地を蹴るよりも早く、口を開いて喉奥を晒す――
見えた。灼熱が生まれる場所。炎の核。
口内、そこは竜の身体のなかでも唯一、硬質な鱗に覆われていない領域。
槍が通る。届けば――。
竜の喉が膨らみはじめた。
空気が震え、熱の前触れが肌を焼く。
私は槍を構え、踏み込む。
「はあぁっ――!」
跳躍。
槍の穂先が一直線に喉奥を穿つ。
竜が咄嗟に顎を閉じようとしたのがわかった。だが遅い。
金属と肉の軋む音。
突き立てた手ごたえは、今までで最も柔らかかった。
灼熱の風が吹きつけるなか、私は身をよじりながら、槍を竜の口腔から引き抜いた。
その瞬間、竜が大きくのけぞった。
吐き出しかけていた火球が、制御を失って喉奥で爆ぜる。
「――ッ!」
竜の咆哮とも、悲鳴ともつかぬ声が空へと響く。
口元から炎が漏れ、煙が噴き出す。
だが、それで終わらなかった。
竜は翼を広げ、猛然と身体をひねって私を振り払おうとした。
私は岩場へ転がり、咄嗟に身を低くした。爪が頭上を掠め、岩肌がえぐれる。
風が逆巻く。竜が暴れている。
喉を傷めたせいで、火球はもう放てまい。
だが、怒りは抑えきれていない。
竜の黄金の目が、先ほどよりもはっきりと私だけを見据えていた。
まるで、すべてを忘れ、私だけを相手に選んだかのように。
――そうだ、それでいい。
私は地を蹴り、再び竜へ向かって駆けた。
この刹那、この緊張。
それこそが私の戦場。
槍が、熱を帯びるように手に馴染んでいた。
私は跳び、竜は這った。
斬るでもなく、突くでもなく、ただ互いの存在をぶつけ合うように、空間が軋んでいく。
竜の爪が地を裂き、岩が砕ける。
それをすり抜け、槍が竜の喉元を狙って閃く――だが、竜もまた、応えるように翼を広げて跳躍した。
山の風が一瞬止まり、私たちの間に張り詰めた空気が鋭く揺れる。
――そして、決着の時が訪れた。
竜が前脚を大きく振りかぶる。
私は同時に地を蹴った。
槍の穂先が、風を切って閃く。
爪と槍、鋼と鋭角の意志が、正面からぶつかり合った。
激しい衝撃が骨まで響いた。
竜の咆哮が耳を裂くように鳴り響き、私は歯を食いしばってそのまま押し返した。
どちらが倒れてもおかしくなかった。
だが――
竜の爪がわずかにぶれた。
そのわずかな狂いが、均衡を崩す。
私は槍を半身で滑らせながら再び突く。
狙ったのは、傷跡の残る肩口。
穂先が鱗を裂き、肉を抉った。
竜の巨体がよろめいた。
地鳴りのような音を立てて、その身が崩れ落ちる。
私は構えたまま距離を取る。
竜は、地に伏せて動かない。
けれど――まだ、息はある。
荒い呼吸。揺れる肩。
黄金の目だけが、なおもこちらを見ている。
私は槍を構えたまま、しばらく動けずにいた。
殺せ、と言われれば、今がそのときだ。
息の根を止めるのは容易い。
だが、足が動かなかった。
その目に、恐怖はなかった。
怒りも、痛みも、なかった。
ただ――静かな、光だけがあった。
私は、息を吐いた。
槍を、わずかに下ろした。
「……今は、それでいい」
ひとりごとのように、呟いた。
討伐隊がゆっくりとこちらへ駆け寄ってくる気配があった。
けれど、私はまだ目を離せなかった。
竜は、薄く瞼を閉じるようにして、呼吸を続けていた。
眠るように、まるで夢のなかの生きもののように。
私の手には、まだ槍の重みが残っていた。
風が、吹いた。
山の尾根を越えて、冷たく澄んだ空気が私の頬を撫でた。
私は、そのまましばらく立ち尽くしていた。
ざっ、と岩場を駆け上がる足音。
すぐに数人の冒険者たちが私のもとへ駆け寄ってきた。
その顔には安堵と驚愕、そして何よりも畏敬が混じっていた。
「無事か……!? あんた、今の……一人で……!」
誰かが言葉をかけたが、私は首を振った。
無言で肩越しに岩陰を指さす。
そこに、まだ黒き竜がいる。
倒れてはいるが、息はある。殺してはいない。
冒険者たちはその姿を見て、一様に息をのんだ。
すぐさま数人が周囲の警戒にあたり、別の者は魔法の残り香が漂う岩場を確かめ始める。
誰もが、私の決着に口出ししようとはしなかった。
それがどういう意味か、みな理解していたのだろう。
私はようやく、槍を地面に突いて身体を預けた。
足が、少しだけ震えていた。
肩も、背も、まだ緊張が抜けていなかった。
ふと、手の甲に熱さを感じた。
見ると、左手に赤みがさしている。
さっきの火球――後衛に爆ぜたあの瞬間、飛んだ熱波を手で遮ったせいだ。
小さなやけど。痛みは軽いが、じんと熱が残っている。
「ちょっと、手……火傷してるじゃないか……!」
駆けつけた魔術師が慌てて薬瓶を取り出そうとする。
「……だいじょうぶ」
私はそれを制して、外套の端でそっと手を覆った。
痛みは、確かにある。けれど、それよりも――
心のほうが、もっと熱を帯びていた。
空を仰ぐ。
雲が流れ、陽が差し込む。
戦いの終わった空に、風だけが残されていた。
私はひとつ、深く息をついた。
目の前に倒れる竜の姿を見て、
私はただ、静かに槍を握り直した。
この命を奪わずに終えたことが、誇りなのか、甘さなのか。
それはまだ、わからなかった。
黒き竜は、動かなかった。
岩陰に横たわったまま、かすかに胸だけが上下していた。
倒したとは言えても、まだ生きている。
爪も牙も折れてはいない。
その息づかいに、微かに残る闘志の影。
けれど、もう立ち上がってはこなかった。
クエストが「討伐」である以上――
この先、どうなるかは明白だった。
竜の命は、ここで終わる。
それは私のしたことだ。
けれど、私が望んだ結末だったかと訊かれれば……答えには詰まる。
誰かが私の名を呼んだ。
けれど私は応えず、背を向けた。
そのまま、槍を肩に担いで歩き出す。
岩と風の狭間を抜けると、後方から命じる声が響いた。
「竜の後処理に入れ! 素材は損傷させるな、慎重にやれ!」
誰かが鱗を剥ぐ音、魔術師が魔力の残滓を読み取る気配。
討伐隊は粛々と後始末に移っていた。
その空気を背に、私は一人、帰路に着いた。
誰も止めなかった。
おそらく止める者もいなかった。
私の背に何かを言いかけた者はいたかもしれないが、それも風の中にかき消えた。
踏みしめる山の道。
空にはまだ雲が流れている。
風が吹くたび、さっきの熱が、焼けた掌にふっとよみがえる。
けれどそれ以上に、胸の内側に残っているものがあった。
――私が、狩った。
誇りと呼ぶには、何かが刺さっていた。
情と呼ぶには、何かが足りなかった。
足を止めずに、ただ前を向いて歩いた。
風の都――セリュアンは、まだ遠い。




