表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜殺しの少女  作者: 0
第二章 <強さと弱さ>
16/19

15話

 黒き竜の爪が閃いた。

 地を裂くような咆哮とともに、前脚が大地を抉る。その動きと同時に、私は身を沈めて地を蹴った。竜の爪が掠めた空気が、頬を焼く。槍を逆手に取り、体勢を低くして脇をすり抜けると、すぐに次の攻撃に備えた。


 後方から、魔法の光が飛んだ。弓矢よりも鋭い速度で、竜の脇腹に突き刺さる。光と衝撃が岩場を照らし、細かな鱗が一瞬だけ舞い上がった。


 「いまだ、押し込め!」


 盾を構えた冒険者が前に出て、竜の注意を引く。巨体に比べれば小さな存在だが、その勇気と決意が場の空気を変える。竜は一瞬、そちらへ目を向けた――その隙を逃すものか。


 私は跳ねるように岩を蹴り、懐へと飛び込む。槍の穂先が風を裂き、狙うは首と胸の接合部。呼吸と動きの綾が重なる。竜がすぐにこちらへ振り向いた。風が巻き上がる。槍の軌道を変え、竜の肩口へ突き立てた。


 硬い。だが、通らないわけじゃない。

 手応えに反して、私は槍を引かず、そのまま竜の身体に張り付くように移動する。すぐさま爪が振るわれた。私は槍を抜いて身をひねり、斜面を転がって間合いを取った。


 竜は低く唸る。その黄金の目が、はっきりと私を捉えていた。

 あの目――やはり、獣だけのものではない。

 何かを見極めるような、揺らぎのない意思。


 ――なら、こっちも本気で応えなきゃならない。


 再び踏み込む。

 後方では魔法が詠唱され、氷の槍が竜の右の翼を凍らせた。竜がわずかに体勢を崩す。私はそこを狙って駆けた。


 槍を両手で構え、滑るように間合いを詰める。

 竜が吠え、爪が振るわれる。だが、遅い――私はそれを読んでいた。滑り込むように前脚の下を抜け、槍の石突きで竜の脚の関節を叩いた。バランスを崩す。すかさず穂先を振り上げ、喉元を狙う。


 が――竜は翼で風を起こし、その一撃を押し返してきた。

 槍が空を切る。風に弾かれ、私は後方へ転がった。岩肌に背中を打ちつけ、息が詰まる。


 咆哮が、空気を裂いた。

 竜が身を反らし、大きく口を開く。喉奥で蠢く炎の気配に、私は直感的に理解した――来る、と。


 次の瞬間、火球が放たれた。

 空気が一気に焼ける。光と熱が爆発し、赤く灼けた奔流が一直線に後衛へと飛んだ。


 「――っ、伏せろッ!」


 誰かの叫び。けれど、遅かった。

 轟音とともに爆ぜた火球が、魔術師たちの陣の端を吹き飛ばす。岩が砕け、煙と炎が舞い上がる。悲鳴が重なり、数人が倒れるのが見えた。


 「くそっ、回復を! 生きてるやつだけでも!」


 騎士らしき者が盾を掲げ、立ちはだかるように前へ出る。

 その背で、治癒の術を使う者が急ぎ駆け寄るのが見えた。


 だが、竜は止まらない。翼を広げ、体勢を低く構える――次の飛翔だ。


 私は斜面を蹴って駆け出す。飛ばせてなるか。あの火球をもう一度受けたら、戦列は崩壊する。


 私は斜面を駆け上がりながら、竜の動きに集中した。

 その巨体が地を蹴るよりも早く、口を開いて喉奥を晒す――

 見えた。灼熱が生まれる場所。炎の核。


 口内、そこは竜の身体のなかでも唯一、硬質な鱗に覆われていない領域。

 槍が通る。届けば――。


 竜の喉が膨らみはじめた。

 空気が震え、熱の前触れが肌を焼く。


 私は槍を構え、踏み込む。


 「はあぁっ――!」


 跳躍。

 槍の穂先が一直線に喉奥を穿つ。

 竜が咄嗟に顎を閉じようとしたのがわかった。だが遅い。


 金属と肉の軋む音。

 突き立てた手ごたえは、今までで最も柔らかかった。

 灼熱の風が吹きつけるなか、私は身をよじりながら、槍を竜の口腔から引き抜いた。


 その瞬間、竜が大きくのけぞった。

 吐き出しかけていた火球が、制御を失って喉奥で爆ぜる。


 「――ッ!」


 竜の咆哮とも、悲鳴ともつかぬ声が空へと響く。

 口元から炎が漏れ、煙が噴き出す。

 だが、それで終わらなかった。


 竜は翼を広げ、猛然と身体をひねって私を振り払おうとした。

 私は岩場へ転がり、咄嗟に身を低くした。爪が頭上を掠め、岩肌がえぐれる。


 風が逆巻く。竜が暴れている。

 喉を傷めたせいで、火球はもう放てまい。

 だが、怒りは抑えきれていない。


 竜の黄金の目が、先ほどよりもはっきりと私だけを見据えていた。

 まるで、すべてを忘れ、私だけを相手に選んだかのように。


 ――そうだ、それでいい。


 私は地を蹴り、再び竜へ向かって駆けた。

 この刹那、この緊張。

 それこそが私の戦場。

 槍が、熱を帯びるように手に馴染んでいた。


 私は跳び、竜は這った。

 斬るでもなく、突くでもなく、ただ互いの存在をぶつけ合うように、空間が軋んでいく。


 竜の爪が地を裂き、岩が砕ける。

 それをすり抜け、槍が竜の喉元を狙って閃く――だが、竜もまた、応えるように翼を広げて跳躍した。


 山の風が一瞬止まり、私たちの間に張り詰めた空気が鋭く揺れる。


 ――そして、決着の時が訪れた。


 竜が前脚を大きく振りかぶる。

 私は同時に地を蹴った。

 槍の穂先が、風を切って閃く。

 爪と槍、鋼と鋭角の意志が、正面からぶつかり合った。


 激しい衝撃が骨まで響いた。

 竜の咆哮が耳を裂くように鳴り響き、私は歯を食いしばってそのまま押し返した。


 どちらが倒れてもおかしくなかった。

 だが――


 竜の爪がわずかにぶれた。

 そのわずかな狂いが、均衡を崩す。


 私は槍を半身で滑らせながら再び突く。

 狙ったのは、傷跡の残る肩口。

 穂先が鱗を裂き、肉を抉った。


 竜の巨体がよろめいた。


 地鳴りのような音を立てて、その身が崩れ落ちる。

 私は構えたまま距離を取る。


 竜は、地に伏せて動かない。

 けれど――まだ、息はある。


 荒い呼吸。揺れる肩。

 黄金の目だけが、なおもこちらを見ている。


 私は槍を構えたまま、しばらく動けずにいた。

 殺せ、と言われれば、今がそのときだ。

 息の根を止めるのは容易い。

 だが、足が動かなかった。


 その目に、恐怖はなかった。

 怒りも、痛みも、なかった。

 ただ――静かな、光だけがあった。


 私は、息を吐いた。

 槍を、わずかに下ろした。


 「……今は、それでいい」


 ひとりごとのように、呟いた。


 討伐隊がゆっくりとこちらへ駆け寄ってくる気配があった。

 けれど、私はまだ目を離せなかった。


 竜は、薄く瞼を閉じるようにして、呼吸を続けていた。

 眠るように、まるで夢のなかの生きもののように。


 私の手には、まだ槍の重みが残っていた。

 風が、吹いた。

 山の尾根を越えて、冷たく澄んだ空気が私の頬を撫でた。


 私は、そのまましばらく立ち尽くしていた。


 ざっ、と岩場を駆け上がる足音。

 すぐに数人の冒険者たちが私のもとへ駆け寄ってきた。

 その顔には安堵と驚愕、そして何よりも畏敬が混じっていた。


 「無事か……!? あんた、今の……一人で……!」


 誰かが言葉をかけたが、私は首を振った。

 無言で肩越しに岩陰を指さす。

 そこに、まだ黒き竜がいる。

 倒れてはいるが、息はある。殺してはいない。


 冒険者たちはその姿を見て、一様に息をのんだ。

 すぐさま数人が周囲の警戒にあたり、別の者は魔法の残り香が漂う岩場を確かめ始める。


 誰もが、私の決着に口出ししようとはしなかった。

 それがどういう意味か、みな理解していたのだろう。


 私はようやく、槍を地面に突いて身体を預けた。

 足が、少しだけ震えていた。

 肩も、背も、まだ緊張が抜けていなかった。


 ふと、手の甲に熱さを感じた。

 見ると、左手に赤みがさしている。

 さっきの火球――後衛に爆ぜたあの瞬間、飛んだ熱波を手で遮ったせいだ。

 小さなやけど。痛みは軽いが、じんと熱が残っている。


 「ちょっと、手……火傷してるじゃないか……!」

 駆けつけた魔術師が慌てて薬瓶を取り出そうとする。


 「……だいじょうぶ」

 私はそれを制して、外套の端でそっと手を覆った。


 痛みは、確かにある。けれど、それよりも――

 心のほうが、もっと熱を帯びていた。


 空を仰ぐ。

 雲が流れ、陽が差し込む。

 戦いの終わった空に、風だけが残されていた。


 私はひとつ、深く息をついた。


 目の前に倒れる竜の姿を見て、

 私はただ、静かに槍を握り直した。


 この命を奪わずに終えたことが、誇りなのか、甘さなのか。

 それはまだ、わからなかった。


 黒き竜は、動かなかった。

 岩陰に横たわったまま、かすかに胸だけが上下していた。


 倒したとは言えても、まだ生きている。

 爪も牙も折れてはいない。

 その息づかいに、微かに残る闘志の影。

 けれど、もう立ち上がってはこなかった。


 クエストが「討伐」である以上――

 この先、どうなるかは明白だった。


 竜の命は、ここで終わる。


 それは私のしたことだ。

 けれど、私が望んだ結末だったかと訊かれれば……答えには詰まる。


 誰かが私の名を呼んだ。

 けれど私は応えず、背を向けた。


 そのまま、槍を肩に担いで歩き出す。

 岩と風の狭間を抜けると、後方から命じる声が響いた。


 「竜の後処理に入れ! 素材は損傷させるな、慎重にやれ!」


 誰かが鱗を剥ぐ音、魔術師が魔力の残滓を読み取る気配。

 討伐隊は粛々と後始末に移っていた。


 その空気を背に、私は一人、帰路に着いた。


 誰も止めなかった。

 おそらく止める者もいなかった。

 私の背に何かを言いかけた者はいたかもしれないが、それも風の中にかき消えた。


 踏みしめる山の道。

 空にはまだ雲が流れている。

 風が吹くたび、さっきの熱が、焼けた掌にふっとよみがえる。

 けれどそれ以上に、胸の内側に残っているものがあった。


 ――私が、狩った。


 誇りと呼ぶには、何かが刺さっていた。

 情と呼ぶには、何かが足りなかった。


 足を止めずに、ただ前を向いて歩いた。

 風の都――セリュアンは、まだ遠い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ