表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜殺しの少女  作者: 0
第二章 <強さと弱さ>
15/19

14話

 竜討伐の告知が、ギルドの掲示板に張り出されたのは、朝のまだ早い時間だった。


 張り出されてから数時間と経たぬうちに、冒険者たちがその紙を取り囲み、口々に噂を交わしていた。黒き竜――その名は記されていなかったが、場所も、特徴も、私が報告した内容と一致していた。


 ギルドが動いた。あの竜を「討伐対象」として認めたということだ。


 冒険者たちが次々と名乗りを上げ、討伐隊が結成された。

 街の人々もその気配を感じているのか、どこか浮き足立った雰囲気すらあった。


 私も、受付嬢に呼ばれて声をかけられた。


 「リューベルさん、もし参加してくれるなら、最優先で組み入れます。……お願いできませんか?」


 私は頷いた。

 人が多い場所は苦手だったが、竜を狩る機会――それも自らが発見した個体なら、見逃すわけにはいかなかった。


 ギルド前に集められた討伐隊は、ざっと三十人ほど。

 中には前回、ワイバーン討伐の際に見かけた者の顔もちらほら混じっていた。あのときと同じように、彼らは無言でこちらに視線を向けるだけだったが、不思議と圧はなかった。むしろ、静かに背を預けていられるような、落ち着いた眼差しだった。


 歩くたびに、進路が自然と空いていく。

 たまたまなのかもしれない。けれど、あの空気のなかで私は少しだけ――絵本の中のお姫様のような気分を味わっていた。


 そんな気分を微かに楽しみながら、私は討伐隊の一員として再び西の山脈を目指して旅立った。


 険しい道のり。

 途中、いくつかの魔物と小競り合いもあったが、大きな被害もなく、数日のうちに目的の地へと近づいていった。


 野営は、山脈の手前、開けた平地にて行われた。

 女性用のテントがいくつか設営され、私はそこに入ることを案内された。


 夕暮れの空の下、仲間たちはそれぞれに焚き火を囲み、簡単な食事を取りながら談笑していた。


 肉を焼く匂い、鉄鍋の音、湿った草のにおいが夜気に溶けていた。

 仲間たちは、それぞれに気を抜きながらも、全体の空気は緊張と期待に包まれている。


 けれど、私はその輪の中に加わる気にはなれなかった。

 ちらちらと送られてくる視線――敵意はない。むしろ好意的ですらあるのだろうが、それでも私は、視線を向けられること自体に慣れていない。


 焚き火の周りでは、冒険者たちが肩をぶつけ合って笑っていた。

 誰かが肉を焦がし、誰かがそれを笑い、別の者が酒瓶を掲げて誰彼構わず杯を差し出している。

 そんな賑わいの傍らで、私は持参した乾いたパンをかじりながら、黙って女性用のテントの隅に座っていた。


 この旅の道中も、私は一貫して他者と距離を置いていた。

 誰かが話しかけてくることはあったが、それでも不思議としつこくはされなかった。

 おそらく、何かしらの空気が働いているのだろう。

 私に気軽に近づくな、というような、無言の合意のようなものが。


 それを作り出しているのは、私の態度だけではない。

 あのワイバーンの戦いを共にした者たちが、今回の隊の中にも数人いた。

 彼らは言葉を交わすことなく、ただ黙って周囲の空気を作ってくれる。

 誰かが少し近づいてきたかと思えば、その者が一瞬で引いていく。

 直接注意されたわけでも、睨まれたわけでもない。ただ、何かが伝わったのだろう。


 そうして私は、焚き火の輪から少し外れたところで、自分だけの静けさを味わっていた。


 風が、冷たくなってきた。

 山の近くということもあり、夜は街よりも気温が下がる。

 私は持っていた外套を羽織り、槍を自分の近くに置いて膝を抱えた。

 眠るには早い時間だが、身体は休めておきたかった。


 他の者たちは、まだしばらく騒ぎ続けるだろう。

 それは悪いことではない。むしろ、こういう場では必要なことなのかもしれない。

 けれど私は、輪の外で静かに火の灯りを眺めていた。


 空を見上げると、星がいくつも瞬いていた。

 セリュアンでは見えなかった星々。

 山の空気は澄んでいて、風は鋭く、夜の音はやけに遠くまで響く。

 どこか、懐かしさを感じた。


 里を出てから、何度もこうして星を見てきた。

 けれど、今夜は少し違う。

 ここには、あの黒き竜がいる――確かに、この山のどこかで呼吸している。


 何をしているのか。どこで眠っているのか。


 あれから数日、どれだけ空を飛び、何を見て、何を食べてきたのか。

 そんなことを考えてしまう自分が、どこか他人事のようだった。


 私は、あの竜と戦った。

 爪と槍がぶつかり合い、息を交わし、互いに引かず、決着もつけずに終わった。

 それなのに、いま、こうして星空の下で思い浮かべているのは、敵としての姿ではない。

 ――ただ、あの竜という存在が、心に残っているのだ。


 あの竜には、悪いが――

 竜を狩ることは、私の一族の使命だ。

 この身に刻まれた教えであり、誇りだ。


 だから、私はまた槍を取る。

 たとえあの竜が、人に牙を向けていなくとも。

 たとえ、まだ幼く、静かに眠るだけの存在だったとしても。


 竜は、やがて空を翔ける。

 その爪は鋼を裂き、その翼は嵐を呼び、その咆哮は街を震わせる。

 昔、そうやって人々が泣いた時代があった。

 私たちの祖先が、命を賭してそれを止めた。


 だから今も、里ではこう教わる。

 「竜は討たねばならぬ」と。

 「見つけたら、槍を構えよ」と。


 私はそれを疑わなかった。

 疑う理由もなかった。

 そして今でも、それは変わらない。


 けれど――ほんの少しだけ、思ってしまう。


 もしあの竜が、何も壊さず、誰も傷つけず、空の高みに身を潜めて生きていくつもりだったとしたら。

 私がこの槍を振るう理由は、それでも誇りだけで貫けるのか、と。


 ……情は無用。

 そう言われて育った。

 それでも、私はあの竜の目を覚えている。

 黄金色のまなざし。獣のものではなかった。

 語らずとも、何かが宿っていた。


 星が、ひとつ流れた。

 夜の静けさが、肌にしみてくる。


 私は膝を抱えたまま、小さく息をついた。

 冷えた空気が喉を滑る。

 それでも、胸の奥だけは熱かった。


 そう遠くない日。

 また、あの竜と向き合う。


 槍を振るう日が来る。

 その時、私は――迷わずいられるだろうか。


 日が、いくつも巡った。

 討伐隊の足取りは慎重で、だが確実だった。

 夜には焚き火を囲み、朝には整った陣を畳み、黙々と山道を登っていく。

 誰かが笑い、誰かが冗談を飛ばしていたが、隊全体に漂う空気はどこか重たかった。

 目的が「竜」である以上、誰もが胸の奥で覚悟を握りしめていた。


 私は、ほとんどを沈黙のなかで過ごした。

 誰かと言葉を交わすことは少なく、けれど孤立していたわけでもない。

 空気が自然と、私のまわりに「そうあれ」と形作られていた。

 必要以上に踏み込まれず、ただ、淡々と前へ進むだけの日々。


 草の丈が低くなり、木々の幹が細くなっていく。

 空が開け、風が尖りはじめた。

 私たちは、山の中腹に入っていた。


 足元は岩だらけで、斜面は次第に険しさを増す。

 だが、この風――この光――この肌に刺すような空気。

 私は知っている。

 この先だ。あのとき、私があの竜と槍を交わした場所。

 黒い鱗が、陽の下で光ったあの地形。


 私は、無意識のうちに前を行く隊を抜き、歩を速めていた。

 風が、耳元で囁く。

 “戻ってきたな”と、そう言っているような錯覚すらあった。


 やがて、斜面を抜けて視界が開けた。

 そこは、大きな岩壁と、風の通り道が交差する場所。

 私の記憶に焼きついたあの戦場だった。


 私は、足を止めた。

 身体の奥が、じんと熱を帯びる。

 記憶が蘇る。竜の目。咆哮。爪と槍の衝突音。


 風が、吹いた。

 そして、静寂が満ちる。

 どこかで、小さな石が転がり落ちる音がした。


 気配は、まだない。

 けれど、私は感じていた。


 竜が、この奥へ逃げていった。

 あのとき、私は見た。

 最後の一撃を交わしたのち、黒き影は岩場の隙間を縫うように飛翔し、風の流れに乗ってさらに上へと姿を消した。


 だから、ここに姿が見えないのなら――

 きっと、あの先にいる。


 私は一歩、また一歩と足を進めた。

 討伐隊の動きも、背後で止まる気配があった。

 誰も声をかけない。ただ、私の背に視線が集まっているのがわかる。


 槍を軽く持ち直し、岩と岩のあいだにできた狭い谷を抜けていく。

 足元の石が崩れ、ざら、と音を立てた。

 風が舞う。細く、冷たく、肌を撫でていく。

 空気が変わる。重く、澱んでいる。


 そして、――いた。


 岩影に、黒があった。

 陽の当たらぬ岩棚の奥、ひとつの影が身を伏せている。


 黒き竜。

 私の記憶のままの姿。

 いや、それよりも、わずかに大きくなっている気がした。

 翼の張り、首の太さ、爪の光り――数日ではあり得ないほどの変化ではあったが、確かに、あのときのそれよりも“強い”。


 竜は動かない。

 まるで眠っているかのように、静かに呼吸をしている。

 それでも、私の足音に、確かに耳が動いた。


 私は構えた。

 いや、正確には――呼吸を整えた。

 心のなかの熱が、また静かに膨らんでいく。


 槍を持つ手が汗ばむ。

 風が唸る。空が近い。


 討伐隊が息をのむ音すら、聞こえた気がした。


 足音も、鎧のきしみも、焚き火の燃える音すらない。

 岩場に散らばっていた冒険者たちが、次々と身を低くし、武器に手をかける。

 弓を構えた者が岩陰に回り込み、魔術師らしきひとりが静かに魔力を杖の先に込める。

 青白い光がわずかに漏れ、岩陰に揺らめく影が濃くなった。

 呪文を唱える口元は動かぬまま、瞳だけが鋭く前方を見据えている。


 その一方で、盾を構えた戦士が私の少し後ろ、斜めの位置にじり、と歩を進めていた。

 足音を殺しながらも、私と竜とのあいだに無理なく割り込める距離。

 もしものとき、即座に前に出るつもりなのだろう。


 だが、私の背後に誰がいようと、今の私は目の前の存在しか見ていなかった。

 黒き竜――

 身じろぎひとつせぬまま、地に伏せた姿勢を保ち、しかしその尾がわずかに動いていた。

 ゆるやかに、規則的に、地面に円を描くように。

 それが警戒か、それとも威嚇か、あるいはただの癖なのか――わからない。


 ただ一つ、確信できたことがある。

 この緊張を生んでいるのは、竜ではない。

 こちらだ。討伐隊の空気が、竜に対して、あるいは私に対して、何かを期待している。

 それが刃のような緊張となって、この場を支配していた。


 竜は、目を細めた。

 まるで観察するかのような、静かな光。

 あのときと同じ――いや、あれよりも深く、どこか思慮のようなものすら感じさせる視線だった。


 私は、槍をわずかに傾けた。

 構えるでもなく、下ろすでもなく、その中間。

 風が吹き抜ける。音が、消える。


 目と目が、ぶつかる。

 動けば、終わる。

 動かなければ、始まらない。


 その間際――竜の尾が止まった。

 そして、呼吸が変わる。


 私は膝をわずかに緩めた。

 地を蹴るためでも、避けるためでもなく、ただ、竜の鼓動と呼吸に自分を合わせるように。


 この一手で、すべてが動く。


 緊張の臨界。

 その均衡を破ったのは――


 竜の、爪の一閃だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ