14話
竜討伐の告知が、ギルドの掲示板に張り出されたのは、朝のまだ早い時間だった。
張り出されてから数時間と経たぬうちに、冒険者たちがその紙を取り囲み、口々に噂を交わしていた。黒き竜――その名は記されていなかったが、場所も、特徴も、私が報告した内容と一致していた。
ギルドが動いた。あの竜を「討伐対象」として認めたということだ。
冒険者たちが次々と名乗りを上げ、討伐隊が結成された。
街の人々もその気配を感じているのか、どこか浮き足立った雰囲気すらあった。
私も、受付嬢に呼ばれて声をかけられた。
「リューベルさん、もし参加してくれるなら、最優先で組み入れます。……お願いできませんか?」
私は頷いた。
人が多い場所は苦手だったが、竜を狩る機会――それも自らが発見した個体なら、見逃すわけにはいかなかった。
ギルド前に集められた討伐隊は、ざっと三十人ほど。
中には前回、ワイバーン討伐の際に見かけた者の顔もちらほら混じっていた。あのときと同じように、彼らは無言でこちらに視線を向けるだけだったが、不思議と圧はなかった。むしろ、静かに背を預けていられるような、落ち着いた眼差しだった。
歩くたびに、進路が自然と空いていく。
たまたまなのかもしれない。けれど、あの空気のなかで私は少しだけ――絵本の中のお姫様のような気分を味わっていた。
そんな気分を微かに楽しみながら、私は討伐隊の一員として再び西の山脈を目指して旅立った。
険しい道のり。
途中、いくつかの魔物と小競り合いもあったが、大きな被害もなく、数日のうちに目的の地へと近づいていった。
野営は、山脈の手前、開けた平地にて行われた。
女性用のテントがいくつか設営され、私はそこに入ることを案内された。
夕暮れの空の下、仲間たちはそれぞれに焚き火を囲み、簡単な食事を取りながら談笑していた。
肉を焼く匂い、鉄鍋の音、湿った草のにおいが夜気に溶けていた。
仲間たちは、それぞれに気を抜きながらも、全体の空気は緊張と期待に包まれている。
けれど、私はその輪の中に加わる気にはなれなかった。
ちらちらと送られてくる視線――敵意はない。むしろ好意的ですらあるのだろうが、それでも私は、視線を向けられること自体に慣れていない。
焚き火の周りでは、冒険者たちが肩をぶつけ合って笑っていた。
誰かが肉を焦がし、誰かがそれを笑い、別の者が酒瓶を掲げて誰彼構わず杯を差し出している。
そんな賑わいの傍らで、私は持参した乾いたパンをかじりながら、黙って女性用のテントの隅に座っていた。
この旅の道中も、私は一貫して他者と距離を置いていた。
誰かが話しかけてくることはあったが、それでも不思議としつこくはされなかった。
おそらく、何かしらの空気が働いているのだろう。
私に気軽に近づくな、というような、無言の合意のようなものが。
それを作り出しているのは、私の態度だけではない。
あのワイバーンの戦いを共にした者たちが、今回の隊の中にも数人いた。
彼らは言葉を交わすことなく、ただ黙って周囲の空気を作ってくれる。
誰かが少し近づいてきたかと思えば、その者が一瞬で引いていく。
直接注意されたわけでも、睨まれたわけでもない。ただ、何かが伝わったのだろう。
そうして私は、焚き火の輪から少し外れたところで、自分だけの静けさを味わっていた。
風が、冷たくなってきた。
山の近くということもあり、夜は街よりも気温が下がる。
私は持っていた外套を羽織り、槍を自分の近くに置いて膝を抱えた。
眠るには早い時間だが、身体は休めておきたかった。
他の者たちは、まだしばらく騒ぎ続けるだろう。
それは悪いことではない。むしろ、こういう場では必要なことなのかもしれない。
けれど私は、輪の外で静かに火の灯りを眺めていた。
空を見上げると、星がいくつも瞬いていた。
セリュアンでは見えなかった星々。
山の空気は澄んでいて、風は鋭く、夜の音はやけに遠くまで響く。
どこか、懐かしさを感じた。
里を出てから、何度もこうして星を見てきた。
けれど、今夜は少し違う。
ここには、あの黒き竜がいる――確かに、この山のどこかで呼吸している。
何をしているのか。どこで眠っているのか。
あれから数日、どれだけ空を飛び、何を見て、何を食べてきたのか。
そんなことを考えてしまう自分が、どこか他人事のようだった。
私は、あの竜と戦った。
爪と槍がぶつかり合い、息を交わし、互いに引かず、決着もつけずに終わった。
それなのに、いま、こうして星空の下で思い浮かべているのは、敵としての姿ではない。
――ただ、あの竜という存在が、心に残っているのだ。
あの竜には、悪いが――
竜を狩ることは、私の一族の使命だ。
この身に刻まれた教えであり、誇りだ。
だから、私はまた槍を取る。
たとえあの竜が、人に牙を向けていなくとも。
たとえ、まだ幼く、静かに眠るだけの存在だったとしても。
竜は、やがて空を翔ける。
その爪は鋼を裂き、その翼は嵐を呼び、その咆哮は街を震わせる。
昔、そうやって人々が泣いた時代があった。
私たちの祖先が、命を賭してそれを止めた。
だから今も、里ではこう教わる。
「竜は討たねばならぬ」と。
「見つけたら、槍を構えよ」と。
私はそれを疑わなかった。
疑う理由もなかった。
そして今でも、それは変わらない。
けれど――ほんの少しだけ、思ってしまう。
もしあの竜が、何も壊さず、誰も傷つけず、空の高みに身を潜めて生きていくつもりだったとしたら。
私がこの槍を振るう理由は、それでも誇りだけで貫けるのか、と。
……情は無用。
そう言われて育った。
それでも、私はあの竜の目を覚えている。
黄金色のまなざし。獣のものではなかった。
語らずとも、何かが宿っていた。
星が、ひとつ流れた。
夜の静けさが、肌にしみてくる。
私は膝を抱えたまま、小さく息をついた。
冷えた空気が喉を滑る。
それでも、胸の奥だけは熱かった。
そう遠くない日。
また、あの竜と向き合う。
槍を振るう日が来る。
その時、私は――迷わずいられるだろうか。
日が、いくつも巡った。
討伐隊の足取りは慎重で、だが確実だった。
夜には焚き火を囲み、朝には整った陣を畳み、黙々と山道を登っていく。
誰かが笑い、誰かが冗談を飛ばしていたが、隊全体に漂う空気はどこか重たかった。
目的が「竜」である以上、誰もが胸の奥で覚悟を握りしめていた。
私は、ほとんどを沈黙のなかで過ごした。
誰かと言葉を交わすことは少なく、けれど孤立していたわけでもない。
空気が自然と、私のまわりに「そうあれ」と形作られていた。
必要以上に踏み込まれず、ただ、淡々と前へ進むだけの日々。
草の丈が低くなり、木々の幹が細くなっていく。
空が開け、風が尖りはじめた。
私たちは、山の中腹に入っていた。
足元は岩だらけで、斜面は次第に険しさを増す。
だが、この風――この光――この肌に刺すような空気。
私は知っている。
この先だ。あのとき、私があの竜と槍を交わした場所。
黒い鱗が、陽の下で光ったあの地形。
私は、無意識のうちに前を行く隊を抜き、歩を速めていた。
風が、耳元で囁く。
“戻ってきたな”と、そう言っているような錯覚すらあった。
やがて、斜面を抜けて視界が開けた。
そこは、大きな岩壁と、風の通り道が交差する場所。
私の記憶に焼きついたあの戦場だった。
私は、足を止めた。
身体の奥が、じんと熱を帯びる。
記憶が蘇る。竜の目。咆哮。爪と槍の衝突音。
風が、吹いた。
そして、静寂が満ちる。
どこかで、小さな石が転がり落ちる音がした。
気配は、まだない。
けれど、私は感じていた。
竜が、この奥へ逃げていった。
あのとき、私は見た。
最後の一撃を交わしたのち、黒き影は岩場の隙間を縫うように飛翔し、風の流れに乗ってさらに上へと姿を消した。
だから、ここに姿が見えないのなら――
きっと、あの先にいる。
私は一歩、また一歩と足を進めた。
討伐隊の動きも、背後で止まる気配があった。
誰も声をかけない。ただ、私の背に視線が集まっているのがわかる。
槍を軽く持ち直し、岩と岩のあいだにできた狭い谷を抜けていく。
足元の石が崩れ、ざら、と音を立てた。
風が舞う。細く、冷たく、肌を撫でていく。
空気が変わる。重く、澱んでいる。
そして、――いた。
岩影に、黒があった。
陽の当たらぬ岩棚の奥、ひとつの影が身を伏せている。
黒き竜。
私の記憶のままの姿。
いや、それよりも、わずかに大きくなっている気がした。
翼の張り、首の太さ、爪の光り――数日ではあり得ないほどの変化ではあったが、確かに、あのときのそれよりも“強い”。
竜は動かない。
まるで眠っているかのように、静かに呼吸をしている。
それでも、私の足音に、確かに耳が動いた。
私は構えた。
いや、正確には――呼吸を整えた。
心のなかの熱が、また静かに膨らんでいく。
槍を持つ手が汗ばむ。
風が唸る。空が近い。
討伐隊が息をのむ音すら、聞こえた気がした。
足音も、鎧のきしみも、焚き火の燃える音すらない。
岩場に散らばっていた冒険者たちが、次々と身を低くし、武器に手をかける。
弓を構えた者が岩陰に回り込み、魔術師らしきひとりが静かに魔力を杖の先に込める。
青白い光がわずかに漏れ、岩陰に揺らめく影が濃くなった。
呪文を唱える口元は動かぬまま、瞳だけが鋭く前方を見据えている。
その一方で、盾を構えた戦士が私の少し後ろ、斜めの位置にじり、と歩を進めていた。
足音を殺しながらも、私と竜とのあいだに無理なく割り込める距離。
もしものとき、即座に前に出るつもりなのだろう。
だが、私の背後に誰がいようと、今の私は目の前の存在しか見ていなかった。
黒き竜――
身じろぎひとつせぬまま、地に伏せた姿勢を保ち、しかしその尾がわずかに動いていた。
ゆるやかに、規則的に、地面に円を描くように。
それが警戒か、それとも威嚇か、あるいはただの癖なのか――わからない。
ただ一つ、確信できたことがある。
この緊張を生んでいるのは、竜ではない。
こちらだ。討伐隊の空気が、竜に対して、あるいは私に対して、何かを期待している。
それが刃のような緊張となって、この場を支配していた。
竜は、目を細めた。
まるで観察するかのような、静かな光。
あのときと同じ――いや、あれよりも深く、どこか思慮のようなものすら感じさせる視線だった。
私は、槍をわずかに傾けた。
構えるでもなく、下ろすでもなく、その中間。
風が吹き抜ける。音が、消える。
目と目が、ぶつかる。
動けば、終わる。
動かなければ、始まらない。
その間際――竜の尾が止まった。
そして、呼吸が変わる。
私は膝をわずかに緩めた。
地を蹴るためでも、避けるためでもなく、ただ、竜の鼓動と呼吸に自分を合わせるように。
この一手で、すべてが動く。
緊張の臨界。
その均衡を破ったのは――
竜の、爪の一閃だった。




