13話
ギルドの動向を待つ間、私は通い慣れた居酒屋へと足を向けた。
しばらく顔を出していなかった。
西の山脈へ向かったせいもあるし、疲れもあった。
けれど、そろそろ――行かなくてはならない気がした。
たぶん、私がいない間に「戻ってくるのか」と何度も尋ねられたのだろう。
そしてきっと今日も、また誰かにそう訊かれる気がした。
扉を開けた瞬間、風鈴の澄んだ音がひとつ、短く鳴った。
耳に馴染んだその音に、ただいま、と胸の内でつぶやく。
いつもの店。通い慣れた居酒屋。
夜の帳が降りかけるこの時間、すでに何人かの常連が席についていた。
私の顔を見ると、ちらりと視線を寄越してくる者もいたが、それ以上の反応はない。
それが、ありがたかった。
大仰に歓迎されるよりも、こうして日常の中にすっと溶け込んでいられる方が、よほど落ち着く。
カウンターの奥で包丁を扱っていた店主が、ふと手を止めて顔を上げた。
無言でこちらを見て、それから口の端をわずかに上げる。
私も小さく頷いた。それだけで、互いに十分だった。
空いていた席に腰を下ろす。
背中に馴染む木の椅子、磨かれた卓の感触、少し湿った空気に混じる炙り物の香ばしい匂い――
いつも通りの、帰ってきたという感覚が、静かに胸を満たしていく。
「いつもの、でいいか」
カウンターの奥から飛んできたのは、女将の声だった。
包丁を持っていた店主とは別に、いつの間にか厨房の影から顔を出していたらしい。
落ち着いた、けれどどこか茶目っ気を帯びた声音。私の返事を待つというより、もう準備に取りかかる気配がある。
「うん」
短く返すと、女将はにっと笑ったようだった。
そうして数分も経たぬうちに、私の前には湯気を立てる小鉢と、冷えたグラスが滑らせられる。
小鉢には塩で炙られた魚の皮と、ほんの少しの薬味。
派手さはないが、ちびちびとつまむにはちょうどよい。
ビールをひと口、喉を鳴らす。
その瞬間、身体の内側から力が抜けていくのを感じる。
西の山脈で過ごした数日間。竜との対峙。黙って歩き続けた疲労が、ようやく言葉にならずに抜けていくようだった。
「久しぶりだね」
また女将の声が飛ぶ。背を向けたまま、手際よく酒の瓶を棚に戻しながら、それとなく話しかけてくる。
私は言葉を返さなかったが、グラスを軽く持ち上げるようにして応じた。
女将はそれで満足したらしく、ふっと息を漏らして次の仕込みへ戻っていった。
この店に通いはじめて、どれほどになるだろう。
最初はただ静かに飲める場所を探していて、なんとなく入り、なんとなく気に入って、それがいつしか「通い慣れた店」になった。
顔を覚えるようになった常連客もいる。
口数の多い年配の冒険者、毎回酔ってから絡んでくる若い男、奥の隅で黙々と紙に何かを書き続けている商人風の客。
騒がしいこともあるが、不思議と居心地は悪くない。
たぶん、私は――この店で「看板娘」のように扱われているのだろう。
店の人間ではない。ただの客。それでも、ここにいると誰かが声をかけてきたり、勝手に酒を奢られたり、名前を知っている者も少なくない。
その「名前を知っている者」たちは、たいてい聞いてもいないのに、自分の名を名乗ってきた者たちだった。
こちらが名乗る前に、勝手に親しげになって、勝手に覚えていく。そういうものなのだと、今ではもう慣れた。
誰がどう言おうと、私は客でしかない。
けれど、この店の空気にまぎれているうちに、そんなことはどちらでもよくなった。
ビール一杯だけで、夜の時間を許してくれる場所。
絡まれても、誰かが助けてくれる場所。
そして、何も言わなくても、迎え入れてくれる声がある場所。
だから今夜も私は、何も言わず、ただ目の前のグラスを手に取る。
澄んだ泡が静かに揺れて、ほのかに冷たい香りが鼻をくすぐった。
――この一杯を、味わえばいい。
それだけで、今は十分だった。




