12話
戻ってきた。
西の山脈を抜け、薬草と疲労を背負ったまま、私はセリュアンの門をくぐった。
風の都。あの喧騒と、ゆるやかな光と、複雑に入り組んだ石畳。
数日ぶりのそれは、やけに眩しく、やけに懐かしかった。
けれど、旅を終えた安堵に浸る間もなく、門前で奇妙な気配を感じた。
誰かの視線。目の前で、道を歩いていた一団が立ち止まり、こちらを見る。
冒険者風の男がひとり、私と目が合うと、なぜか小さく手を振った。
そのまま何も言わずに通り過ぎたが、私の胸にひとつの疑問が残る。
――……なぜ、私が戻ってくるのを知っていた?
旅路で出会った者はいない。尾行も気配もなかった。
けれど、確かに誰かが、私を待っていたような空気があった。
そのまま私は、真っすぐギルドへ向かった。
中へ入ると、すぐに気づく。空気が微妙に変わる。
椅子に腰かけていた者が振り返り、資料に目を落としていた者が動きを止める。
視線が集まっていた。明らかに、私に。
少し歩を進めると、通路を譲られる。
別に荷物が大きいわけでも、急いでいたわけでもない。
それでも、何人かが無言で私の進路を開けた。
少しだけ、居心地が悪い。けれど、慣れてもいる。
それに、目的は決まっている。
私はまっすぐに受付へ向かった。
「あっ――!」
受付嬢の声が、はっとしたように上がる。
すぐに笑顔が浮かぶ。だが、その笑みの下には明らかな驚きがあった。
「お帰りなさい、リューベルさん。無事で、よかったです」
「うん。これを、頼む」
私は、薬草の束を机の上に置いた。
宿屋で包んでもらった布が、多少湿っている。けれど、形は崩れていない。
受付嬢は一瞬目を見張り、それから慣れた手つきで確認に入る。
「はい、確かに。品質も問題ありません……薬草採取の依頼、達成として処理します」
「ありがとう」
彼女が伝票に印を押そうとしたそのとき、私は声を続けた。
「それと……西の山脈のふもとで、竜を見た」
受付嬢の手が止まる。
まるで、空気が凝固したようだった。
隣の窓口で書類を書いていた男が、顔を上げてこちらを見た。
階段を下りてきた冒険者が、立ち止まって振り返った。
視線が、また集まる。今度は、前よりも鋭く、重い。
受付嬢は一瞬、息を呑んだ。
目が、大きく見開かれる。
それは、驚愕――そして、すぐに緊張に変わった。
「……竜……ですか?」
「黒い。小柄だがワイバーンではない。飛び方、構え、鱗の密度も」
彼女は口をつぐみ、すぐに椅子から立ち上がった。
慌ただしく書類を片付け、私に向き直る。
「詳しく、聞かせてください。個室、使いましょう」
彼女の声は落ち着いていたが、手の動きが僅かに早かった。
私が頷くと、受付嬢はギルドの奥へと私を案内した。
竜を見たこと、戦ったこと、すべてをありのまま話した。
槍の間合い、爪の軌道、鱗の硬さ、動きの癖。
戦いは決着こそつかなかったが、竜の個体情報としてはそれなりに詳細な報告ができたはずだった。
受付嬢は黙ってそれを聞いていた。途中で何度か確認の言葉を差し挟みながら、最後まで一言も無駄にせず、記録していた。
小一時間ほど、部屋にこもっていたことになる。
部屋を出ると、どこか空気が違って感じた。
先ほどよりも静かで、あるいは、意図的に何かを抑えたような気配。
私は受付に戻り、薬草の採取に対する報酬を受け取った。
彼女は封筒を差し出すと、少し声を和らげて言った。
「情報提供、ありがとうございました。……とても、助かりました」
私は黙って頷いた。それだけで十分だ。
封筒を腰袋に収めて、受付のカウンターから離れたときだった。
ふと、耳に入ってきた会話がある。
「……リューベル、って名前……だろ?」
抑えた声。聞かれることを前提にしていない話し方。
声の主は、近くの椅子に腰を下ろしていた若い冒険者のようだった。
先ほど受付嬢が私の名前を口にしたせいか、それで覚えたらしい。
別に、それ自体は構わない。
だが、その声にどこか――説明しにくい感情が滲んでいた。
好奇心とも、畏れとも、まるで自分と遠い存在を確かめるような響き。
私は無意識に、声のほうへ目を向けていた。
彼は、気づいたようだった。
こちらを見返すことなく、すぐに口をつぐみ、目を逸らした。
何事もなかったふりをしながら、机に視線を落とす。
……なんだか、気持ち悪い。
と言ってしまうには大げさだけれど――
ぬめっとした、薄い膜のようなものが空気の上に張りついたような、不快感。
私はそれ以上気にせず、足を速めた。
背を向けて、ギルドを出る。
風の匂いが変わった。
夕方だ。街の喧騒が戻り始める時間帯。
私はまっすぐ、宿屋へ向かった。
今日は、なにより、休みたい。




