9話
北西へと進む。
遠く、空の端に霞んでいた山脈が、日に日にその輪郭を濃くしていく。
旅路は、静かだった。
草原を抜け、丘を越え、木々の間を縫いながら歩く。
風は変わらず吹いていたが、街のそれとは違い、湿り気と冷たさを含んでいた。
薬草を見つけては摘む。
指定されたものは、葉の形も匂いも、里で見たものによく似ていた。
時おり魔物の痕跡にも出くわす。土を抉った足跡、裂けた樹皮、血の乾いた匂い。
簡単な調査の範囲で、危険な気配はまだない。
それでも、私は歩きながら、心のどこかで――祈っていた。
竜が、そこにいるようにと。
夜は野営。
空が青から藍へと沈んでいくころ、風を防げる岩陰や木立を見つけ、火を起こす。
宿屋で買った保存食――乾燥肉、硬い黒パン、しっとりした干し果物――それらをかじりながら、焚き火の揺らぎを眺める。
おいしいわけではないが、火のそばで何かを食べるというだけで、どこか安心した。
たまに、水音に耳を澄ませる。
近くを流れる川を見つけては、腰を下ろし、ひんやりとした水を汲む。
そのまま喉を潤すと、冷たさが内側を駆け、心まで澄んでいくようだった。
眠りにつくとき、見上げた空に星が瞬いている。
風の都では見えなかった星々――
今、私は遠くへ来たのだと、夜空が教えてくれる。
宿屋で眠るときには、気づかないものが、ここにはあった。
枕は石か草、毛布の代わりは旅の外套。
温かい食事も、柔らかな寝床もない。
朝になれば身体は固く、髪には夜露が降りる。
けれど――それでも、私はこの時間を、嫌いにはなれなかった。
炎のはぜる音。
獣の気配を遠くに感じながら、呼吸をひそめて眠る感覚。
目を閉じれば、耳の奥で風が通る。
それが、どこか懐かしくすらあるのだ。
こうして、夜がまた、ひとつ過ぎてゆく。
幾つかの日々が過ぎ、やがて、ふもとへと辿り着いた。
セリュアンから眺めていたときは、ただ空の向こうに連なる灰色の稜線だった。
けれど今、目の前にあるそれは――まるで、大地が天を押し返すかのようだった。
無言の威圧。風の音さえ、ここでは低く、重い。
「……でかいな」
思わず、誰に聞かせるでもなく声が漏れる。
肩にかけた袋が、小さく揺れた。
薬草や標本。道中でこなしてきた小さなクエストの名残。
少し、後悔する。
薬草なんて、帰りに摘めばよかったのかもしれない。
重量としては大したものではない。
けれど、山道を登るとなると話は別だ。
足元の小石ひとつが命取りになる道で、背に余計な荷を抱えるのは愚策に近い。
……まあ、それでも背負ってきたのだから、今さら放る気もないけれど。
息をひとつ、深く吐く。
背筋を伸ばし、足を前へと運ぶ。
登るという行為は、単純だ。
ただ、足を上に向けて運ぶ。それだけのこと。
けれど、それだけのことが、少しずつ体を削っていく。
石を踏むたび、筋肉がきしむ。
背中にわずかに食い込む袋の重みが、じわじわと意識の表層に浮かんでくる。
何度か立ち止まり、水筒に口をつけては、また歩き出す。
風がある。涼しいはずなのに、額にはじっとりと汗がにじんでいた。
道は、あるにはある。
けれど踏み跡は浅く、すでに人が頻繁に通っている気配はなかった。
岩肌が露出した斜面に、小さな草がしがみついている。
踏み外せば、滑り落ちるような場所も少なくない。
気づけば、あたりの空気がどこか焦げたような匂いを含んでいた。
鼻をつく、乾いた硫黄のにおい。
足元にある岩のいくつかは、不自然なほど白く風化している。
――やはり、この山は、火山なのだろう。
今は静かに眠っているように見えるが、地下では何かが息づいている。
そう思わせるだけの、静かな熱気が確かにあった。
風の向きも変わる。谷間に吹く風が、どこかうねるような流れを作っていた。
鳥の鳴き声が消えて久しい。
遠くで、なにかの獣が低く吠えた気がした。
空は晴れているのに、山の影は濃く、どこか遠い異国のようだった。
肩がじんじんと熱を持ち始めていた。
登り続けているはずなのに、景色は変わり映えしない。
岩、草、また岩。ときどき姿を見せる獣の足跡。風にさらわれていく細かい砂。
気づけば、息が白くなっていた。
標高が上がっている証だ。酸素も薄くなっている。
それでも、立ち止まる気にはなれなかった。
ここまで来て、何もなければ――
そんな不安は、とうに通り過ぎていた。
歩くことが、探すことだった。
この足で、風を踏みしめて進んでいくことが、私にとっての祈りだった。
それに、この山は――静かすぎる。
魔物の姿も少なく、鳥も鳴かない。
代わりに、時折ごく微かな地響きが、靴の裏から伝わってくる。
空は高い。けれど、どこか遠い。
耳が詰まったような感覚とともに、ひとすじの雲が天を裂いていく。
――本当に、何かが眠っているのかもしれない。
竜か、それともそれに似た何かか。
ふいに、風の匂いが変わった。
焦げたようなにおいに、わずかな血の気を含んだような生臭さが混じる。
前よりも、濃く、近い。
私は足を止める。
荷を背負い直し、槍に軽く手をかけた。
山の斜面、その先に黒い影がのぞいている。
岩か、あるいは――違う。あれは、何かの巣穴だ。
深く口を開けたような裂け目が、地面を抉るように開いている。
熱を帯びた空気がそこから立ちのぼり、まるで呼吸しているように見えた。
――ここだ。
たとえ、何もいなかったとしても。
それでも、私はここまで来た。
ならば、もう十分だろう。
目を細め、風を読む。
まだ、この先に進める。
私は歩き出した。
山の鼓動を聞きながら、火の匂いを背に。




