エピローグ
「酒場に集え、旅人たち!今日も新たな伝説を語らん…」 吟遊詩人の高らかな声が、ざわついていた酒場を静めた。音もなく、ひとり、ふたりと目を向け、酒の杯を持つ手が止まる。
彼が奏でるリュートの音色は、森の風のささやきを思わせる。やがて声に節が乗り、語りが始まる。
「ある小島、竜が棲み処、嵐の夜にその姿を現すという。その島は、地図に描かれることなく、海の彼方の伝説として語り継がれてきた。そして、その伝説の竜に挑んだのが、まだ幼き少女であった」
吟遊詩人の声が低く響き渡る。観客は皆、その言葉に引き込まれるように席を詰め、ランプの炎がゆらめく中で彼の顔を見つめている。
「一本槍を颯のごとく携え、少女は荒海を越えた。名は語られずとも、その血筋は知る人ぞ知る、竜殺しの一族。肩に風をまとい、眼差しは曇りなき刃のごとし。華奢な体躯に宿るは、幾代にもわたり竜と相対してきた宿命」
「この地に厄災を齎しもの、竜を討つことに誇りを持つ一族――その腕前、常人かなうものなし。剣も槍も、火を纏う魔物さえも、彼らの前には塵に等しかった。まさに武人の誉れ。その中でも特に秀でた者、ただ一人。幼くして十手を極め、百戦無敗の誉れ高く、竜の顎下に刃を届かせたとまで言われた。その者の名もまた、語られぬ。語られぬがゆえに、伝説となった」
「竜殺しの一族。その名に恥じぬその者は、風よりも速く、雷よりも鋭かった。槍は宙を裂き、地を抉る。十歩の間に踏み込んだ獣は息絶え、百騎に囲まれれば風のように舞い、血のひとしずくも浴びぬまま立ち尽くす。その戦いぶりは、もはや人の域を超え、まるで神話の化身のようであった」
「村では敵なし、とはよく言うが――あの少女に限っては、それすら足りぬ称号だった。並み居る剣士も猟師も、彼女と木槍を交えることを恐れた。わずか七つの頃には熊を倒し、十に満たぬうちに、三人の兵士を一合で制したという」
吟遊詩人の言葉に、聴衆がどよめく。
「だが、彼女は決して威厳に満ちた戦士などではなかった。晴れた日には屋根の上に座り、風を相手に歌い、時には村の犬と競って坂を駆け下りた――そんな日常のひとこまが、むしろ彼女の素顔を物語っていた」
「伝説として語り継がれたのは、かの凶暴なる黒竜との戦い――」
吟遊詩人の声は、ひときわ静かに、それでいて深く、聴く者の胸を打った。
「幾度も海を焼き払い、船団を呑み、山をひと薙ぎにしたその竜。鱗は刃を弾き、翼は嵐を巻き起こし、口から吐く黒炎は、石さえも灰にした。『天災』と恐れられ、国すら滅ぼしたそれが、最後に姿を現したのが、霧深き孤島であった」
「王は、もはや国をあげて黒竜を討たねばならぬと決断した。精鋭の騎士団を三つ、名うての魔術師を七人、さらには空を飛ぶ機械までも作らせ、島の攻略に乗り出した。だが――帰ってきたのは、焼け焦げた帆布と、船底に貼りついた融けた鉄だけだった」
吟遊詩人は、ひと呼吸置いた。客の誰もが酒を口にせぬまま、ただ耳を傾けている。
「それでも、挑む者は後を絶たなかった。『竜を討てば、名が残る』『一国の富を得られる』と、名声と欲望に駆られた戦士や傭兵が、島を目指した。北の荒野を越えてきた斧使い、南海の呪術を操る巫女、かつて王国を裏切った流浪の将軍――だが誰一人、戻ることはなかった。いや、戻れなかった。竜は、その全てを喰らったのだ」
客のひとりが息を呑んだ音が、静寂に響いた。
「それからというもの、月日は流れた。誰も竜を語らず、誰も島を目指さなかった。忘れられたわけではない。ただ、人々は現実から目を逸らしただけだった。黒竜は今もあの島にいる。誰も倒せず、誰も逃れられず、ただ、そこにいる」
リュートの旋律が、ゆるやかに一節、流れた。
「そして――その静寂の海に、ひとりの少女が現れた」
ざわめきが走る。吟遊詩人はそれを受け止めるように頷き、声を落とした。
「名はない。ただ、港に立っていたというだけだ。誰に呼ばれたわけでも、誰に命じられたわけでもない。帆も舵もない、小舟に乗って。たったひとつの槍を携え、ぼろ布のようなマントを翻して、夜明け前の霧の中、海へと漕ぎ出した」
「なぜ彼女がそこに現れたのか、誰も知らない。仇を討つためでもなく、名を挙げるためでもない。ただ、その眼はまっすぐに、遥かなる島を見ていた。そう、あの島を。誰も辿り着けず、誰も生きて帰れなかった、あの島を」
「風は凪ぎ、波は静かだった。だがその静けさの奥には、確かに息を潜める災厄の気配があったという。見送りも歓声もなく、ただ空がうっすら白みはじめたその時、少女の舟は、音もなく水平線の彼方へ消えていった」
「それが、伝説の始まりだった。黒竜と、名もなき少女――」
吟遊詩人は、そこで言葉を切った。炎がパチ、と小さくはぜる音が、やけに大きく響いた。
「何が彼女を向かわせたのか。戦いはどれほど苛烈だったのか。真実は、誰にもわからない。だがひとつだけ、語り継がれている」
リュートの音が、沈むように落ち着く。
「それから、幾月が流れた。海は何も語らなかった。少女が舟で消えた朝のことなど、覚えている者も、もうほとんどいなかった。名も顔も知らぬ者の旅立ちなど、酒と共に語られ、すぐに風に流されて消える。誰もが、自分の暮らしに追われる日々へと戻っていった」
吟遊詩人の声は、海霧のように淡く、耳に染み入る。
「季節が巡り、海が荒れ、また静まる――それを何度繰り返したか。ある朝、港の沖合いに、奇妙な影が浮かんだ。最初にそれを見つけたのは、ひとりの老人だった。網にかかったものを引き上げようとして、彼は動きを止めた。波間に揺れていたのは――巨大な何かの、鱗だった」
客の誰かがごくりと唾を飲む音がした。
「それは、まるで金属の板のように重く、鈍く黒く光っていた。しかもひとつではなかった。数日を置いて、別の浜には、焦げた骨が打ち上げられた。さらに数日後には、捻じ曲がった巨大な角が……。誰もが、それが何かを悟った。だが、言葉にはしなかった。口にすれば、それが現実になってしまいそうで」
吟遊詩人はリュートをひと撫でし、ぽつりとつぶやいた。
「竜の遺骸だった。巨大な、あの黒竜の――かつて島を守るように座し、空を焼き、海を呑み込んだ災厄の王。その名残が、断片となって、忘れかけた頃に海から戻ってきたのだ」
酒場に、ざわつきが広がる。
「黒竜が討たれたのか、それとも、ただ姿を消しただけなのか――誰にもわからなかった。海から流れ着いた鱗や角も、それが黒竜のものだと証明する術はなく、確かめようとする者すらいなかった」
「少女の行方も、もちろん知れない。霧の向こうに消えたきり、誰の目にも触れていない。港の者たちの記憶から、次第にその姿も薄れていった。あの島の名も、位置も、今ではもう誰もはっきりとは言えない。地図に記されることもなく、時折語られる伝説の中でだけ、曖昧に存在している」
「だが、竜が現れることは二度となかった。海は静かで、空は澄んでいた。誰も真実を知らない。ただ、あの朝、霧の中へ漕ぎ出した少女の姿だけが、今も語り継がれている。それが勝利だったのか、犠牲だったのか。伝説は、答えを語らない。だが人々は信じている――あの小さな舟の先に、希望があったのだと」
吟遊詩人がリュートを弾く手を止め、静かに視線を上げた。
誰も声を出さない。酒も、言葉も、今はただ余韻に沈んでいる。
やがて、ゆっくりと拍手が起こり、次第に歓声がそれに続いた。
賑わいが戻る酒場の中で、ただひとり、静寂を纏う影があった。
フードを深くかぶり、背に一本の槍を負った華奢な女性。
誰に気づかれることもなく、彼女は静かにカウンターから立ち上がり、
吟遊詩人の語る伝説など知らぬ顔で、扉を押し開ける。
夜風がひと吹き、店内の灯を揺らした。
その音に振り返った者は、誰もいない。
ただ、戸口の向こうに消える影を、僅かに見た気がした。