孤独に触れてほしくて(日菜)
薄暗い部屋。
ベッドの上に座り込み、私はスマホを握りしめていた。
リビングからは、何の音もしない。
パパもママも、今日も仕事で帰ってこない。
「……ふぅ」
ため息が漏れた。
スマホの通知も、家のチャイムも鳴らない。
小さい頃から、ずっとこんな感じだった。
両親は、いつも忙しかった。
「お仕事があるから」「今日は遅くなるから」
そんな言葉ばかり、ずっと聞いていた。
朝起きると、両親はもう出かけていて、帰るころには日付が変わっている。
週末も仕事があることが多くて、一緒に過ごせる時間はほとんどなかった。
「日菜、ひとりで大丈夫よね?」
「お利口さんにしててね」
いつも、そう言われてきた。
小さい頃は、ただ寂しかった。
本当はもっと抱きしめてほしかったし、頭をなでてほしかった。
でも、わがままを言えば困らせるだけだから、「うん」と笑っていた。
——でも。
寂しさは、消えないままだった。
ただ、「頑張ったね」って抱きしめてほしかった。
でも、そんなこと言えなかった。
だって、パパもママもいつも疲れてたから。
甘えるのは迷惑なんだって、いつの間にか覚えてしまった。
だけど、本当は――
ずっと、誰かに甘えたくてたまらなかったんだ。
私はクッションをぎゅうっと抱きしめて、ベッドに倒れ込んだ。
誰かのぬくもりが恋しくて、誰かの声が聞きたくて、
ただただ、心が静かに泣いていた。
夏の夕方の学校は、まるで空っぽの箱みたいだった。
廊下の奥にある、使われていない音楽準備室。誰も来ない、少しだけホコリっぽいその部屋に、私は修也を呼び出した。
私は鍵のかかっていないドアを開けて、静かに中に入った。木製の譜面台、積まれた椅子、隅に置かれた楽器ケース――人の気配はなく、ちょっとだけ心が落ち着く。
「……ここ、初めて来た」
修也の声に、小さく笑う。
「ね。隠れ家っぽくて、いいでしょ」
そう言いながらも、心はずっとざわざわしていた。言いたいことが、喉の奥で何度もつかえてる。
「ねぇ、修也……わたし、わたしね……」
言葉が止まった。どうしよう、涙が出そうだ。
「どうしたの?」
心配そうにのぞき込まれると、もう止められなかった。
「ずっと寂しかったの……」
「小さい頃から、誰にも甘えたことなくて……。お母さんもお父さんも、家にほとんどいなくて……。ひとりで鍵を開けて、ひとりでご飯食べて、ひとりで眠って……」
声が震えた。膝がガクッとなって、床にしゃがみこんだ。
「でも、私、強がってた。『平気だよ』って笑って……寂しくても、誰にも言わなかった……
なのに、修也が優しくしてくれるから……あったかくて、嬉しくて……」
「ほんとは、誰かに甘えたかったのに。ぎゅってしてほしかったのに。でも今さらそんなの……子どもじゃあるまいし……」
声がかすれていく。
「本当は、自立しなきゃって思ってるの。ひとりでちゃんとしなきゃって。なのに……修也に会うと、甘えたい気持ちが湧き出てきちゃうの……」
「ダメだよね、こんなの。私、ちゃんとしてない。いつまでも小さい子みたいで、こんな自分……大嫌いなの……っ」
言葉と一緒に、涙がこぼれ落ちた。床に落ちる音さえ、やけに大きく響いた気がした。
顔を両手で覆った。涙が止まらない。
「私ばっかり甘えてるよね? 私なんかが頼っていいの? 重くない? 迷惑じゃない?……わかってるのに、どうしても甘えたくなっちゃうの……っ」
息が苦しかった。こんな自分、見せたくなかったのに。
でも、修也は何も言わずに、私の隣にしゃがんで、そっと背中に手を添えてくれた。
「……迷惑なんて思ったこと、一度もないよ。日菜がそうやって、本音で話してくれることが……俺はすごく、嬉しい」
その言葉に、心がほどけた。
「日菜が笑ってくれると、こっちまで元気出るんだよ。寂しいときは、寂しいって言っていい。甘えたくなったら、いつでも俺に甘えて」
私は、ゆっくり顔を上げて、彼の胸に額を押し当てた。
ぎゅっと抱きしめてほしくて、何も言えなかった。
「……バカ、だいすき……」
小さな声でそう呟いたら、修也の手が優しく私の頭を撫でた。
その温もりが、心の奥にまでしみていく。
――私、もうひとりじゃないんだ。
夏の夕暮れ、閉ざされた小さな音楽準備室で。
やっと、ずっと押し込めてた想いを全部吐き出せた。
私は修也の胸元に顔をうずめていた。
泣きすぎて、目の奥がじんわりと痛い。鼻の奥もつんとする。
だけど――心は、なんだかぽかぽかしていた。
修也の手が、そっと私の背中をなでる。
やさしくて、あったかくて、まるで子どもの頃に夢見た“家族の温もり”みたいだった。
「落ち着いた?」
彼が、少しだけ顔をのぞき込んでくる。
私は小さくうなずいたあと、ちょっとだけ意地悪なことを言ってみた。
「……変な顔、してなかった?」
「いや、泣き顔も可愛いって思ったよ」
「~~っ!バカっ……!」
わざとらしく怒ったふりをしたけど、顔が熱くなるのを止められなかった。
涙で湿った頬を隠すみたいに、私は自分の両手で顔を覆う。
でも、修也はその手をそっと取って、私の指を自分の手の中に包んだ。
「泣き虫なとこも、甘えん坊なとこも、全部、日菜なんだろ?俺は、それがいいって思ってる」
「……本当に?私、うざくない?」
「全然。むしろ、もっと甘えてくれていいよ」
「……それ、今日だけじゃなくても……いい?」
私の声は震えてた。けど、もう我慢しなかった。
子どもみたいでも、自立してないって思われても、どうしても、そう言いたかった。
修也は、迷わずにうなずいた。
「……ずっと、いいよ。これからも、甘えて」
胸の奥がきゅん、と鳴った。
嬉しくて、安心して、どうしようもなく照れくさくて――私は思わず彼の制服の袖をぎゅっと握る。
「ねぇ……もう少しだけ、このままでいてもいい?」
「もちろん」
オレンジ色の夕焼けが、窓の外から私たちをやさしく包んでいた。
静かな準備室の中で、私は小さく微笑む。
誰にも見せたことのない笑顔だったと思う。
もう少しだけ、このままで。
心が落ち着くまで。
自分のこと、ちゃんと好きになれるまで。
でも――本当はずっとこうしていたいと思った。