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幻想ショートストーリー・短編集

【幻想ショートストーリー】月光の囁き

作者: 霧崎薫

 満月の夜、その神秘的な光が静寂に包まれた湖面を染め上げていた。それは単なる反射ではなく、まるで月の精が液体の銀を湖に注ぎ込んでいるかのようだった。深い森に囲まれたその湖は、現実と夢の境界線を曖昧にする魔法の鏡のように、訪れる者の心を惑わせる。湖畔に佇む一軒の古びた洋館は、まるでこの幻想的な風景の守護者のように威厳を放っていた。その窓から漏れる蒼白い光が、幽玄な夜気に溶け込み、幻想的な光芒を放っている。その光は、まるで洋館自体が呼吸をしているかのように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。


 洋館の二階、時の流れが止まったかのような静寂に包まれた一室で、ミルは窓辺に腰かけていた。彼の長い銀髪が、月の光を受けて星屑のように煌めいている。その髪は、風もないのに不思議とそよいでおり、まるで目に見えない何かが彼の周りを舞っているかのようだった。ミルの瞳は、深い青を湛え、湖面に映る満月を見つめていた。その瞳の中には、過ぎし日々の幻影が浮かんでは消えていく。月光に照らされた彼の姿は、まるで絵画から抜け出してきた貴公子のようで、この世のものとは思えないほどの美しさを放っていた。



 柔らかな春の日差しが、新緑の葉を透かして地面に複雑な影絵を描いていた。若きミルは、初めてこの洋館を訪れた日のことを鮮明に覚えていた。庭園の小径を歩いていると、突如として風に乗って花びらが舞い、その中心にユリカの姿が現れた。彼女の黒髪に光る露のしずくが、まるでダイヤモンドのように輝いており、ミルの心を一瞬にして捉えて離さなかった。


 二人は言葉を交わすこともなく、自然と手を取り合い、花々に囲まれた円形の広場で踊り始めた。ミルのシルバーの髪とユリカの漆黒の髪が、まるで昼と夜の出会いのように美しく調和していた。時の流れを忘れて踊る二人の周りでは、花びらが舞い、蝶が飛び交い、小鳥がさえずっていた。その瞬間、世界は二人だけのものとなり、永遠が一瞬に凝縮されたかのようだった。二人の目が合うたび、互いの魂の深さを感じ取り、言葉なき約束を交わしていた。



 回想から現実に戻ったミルの唇が、かすかに動いた。


「ユリカ……」


 その名を呼ぶ声は、ため息のように儚く、しかし深い愛情を滲ませていた。


 そのとき、「今宵も、夢幻のような美しい夜ね」という風鈴のような清らかな声が、ミルの背後から聞こえてきた。その声は、まるで月光が具現化したかのように透明で美しく、聞く者の心を癒やす力を持っていた。


 ミルが振り返ると、そこにはユリカが立っていた。彼女の姿は、まるで闇から生まれ出た光のようだった。漆黒の髪は夜の闇そのもののように深く、その中に散りばめられた小さな花飾りが、遠い銀河の星々のように瞬いていた。ユリカの肌は月明かりを受けて半透明に見え、まるでこの世のものではない存在であることを主張しているかのようだった。


 彼女の目は、深い紫色をしており、その中には無数の物語が秘められているようだった。ユリカの纏う薄絹のドレスは、彼女の動きに合わせてゆらめき、まるで霧が彼女の周りを漂っているかのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「ああ、ユリカ。君も月に誘われたのかい?」


 ミルの声は、深い森の中で響く木霊のように、柔らかく空間に溶け込んでいった。


 ミルの問いかけに、ユリカは神秘的な微笑みを浮かべた。その表情は、儚げでありながら、どこか妖艶さを感じさせ、まるで月の魔力に魅せられた妖精のようだった。彼女の笑みは、見る者の心を潜め、この世のものとは思えない美しさを湛えていた。


「ええ。眠りなんて、私たちには似合わないわ。永遠の夢の中で、私たちは生きているのだから」


 ユリカの言葉は、詩のように韻を踏んでいるかのようだった。その声は、まるで湖面に落ちる雫のように、静寂の中に美しい波紋を広げていった。


 ユリカの言葉に、ミルは静かに頷いた。その仕草には、言葉では表現できない深い理解と受容が込められていた。二人は、もはやこの世界の住人ではない。彼らは、永遠と刹那の狭間に存在する、幽玄な存在なのだ。その事実は、二人を悲しませるのではなく、むしろ特別な絆で結びつけているようだった。


 ユリカはミルの隣に腰を下ろした。その動作は、まるで重力に逆らっているかのように滑らかで優雅だった。二人の指が、蜘蛛の糸のように繊細に絡み合う。その瞬間、二人の周りの空気が僅かに震え、まるで二つの魂が再び一つになったかのようだった。



 ある夏の夜、満月が湖面に大きく映る夜に、ミルとユリカは秘密の儀式を行った。二人は、白い衣装に身を包み、裸足で湖に入っていった。水面を渡る二人の姿は、まるで湖の精のようだった。


 湖の中心に辿り着いた二人は、互いの目を見つめ合った。その瞬間、周囲の世界が溶け始めたかのように、二人の意識は現実から遠ざかっていった。ミルが小さなナイフで自分の手のひらを切り、その血をユリカの唇に塗った。ユリカも同じようにして、自分の血をミルの唇に塗った。


 二人が唇を重ねた瞬間、湖全体が七色の光に包まれた。ミルとユリカの魂は一つとなり、現世の束縛から解き放たれた。月が二人を祝福し、湖面に大きな光の輪を描いた。その瞬間、二人は永遠の契りを交わしたのだ。儀式が終わると、湖の底から無数の蛍が舞い上がり、二人の新たな人生の始まりを祝福しているかのようだった。



 現実に戻ったユリカの目に、一筋の光る涙が宿った。それは決して悲しみの涙ではなく、あまりにも強い感情が溢れ出たものだった。


「ねえ、ミル。私たちの愛は、この幻想の世界でも色褪せないのかしら」


 ユリカの声には、かすかな不安と、同時に強い希望が混ざっていた。その言葉は、永遠の中に存在する二人にとって、最後に残された人間らしい感情の表れだったのかもしれない。


 ミルは優しく微笑み、ユリカの頬に触れた。その指先から、暖かな光が広がっていくようだった。


「もちろんさ。僕たちの愛は、この月光よりも永遠だよ、ユリカ。時が止まり、世界が滅びようとも、僕たちの絆だけは消えることはない」


 ミルの言葉に、ユリカの頬が薄紅色に染まった。その姿は、まるで夜明けの空に差し込む最初の光のようだった。二人の周りの空気が、甘い香りで満たされていく。それは、二人の愛が形となって現れたかのようだった。


 突然、湖面が波打ち始めた。それは穏やかな波ではなく、まるで湖の底から何かが目覚めたかのような、力強い動きだった。そして、水の中から一輪の花が浮かび上がってきた。


 その花は、この世のものとは思えないほど美しかった。花弁は虹色に輝き、まるで宇宙全体を映し出しているかのようだった。その中心からは柔らかな光が放たれ、まるで二人の魂を映し出しているかのようだった。花が完全に水面に現れると、その周りに小さな光の粒子が舞い始めた。


「あれは……私たちの約束の花」


 ユリカの声は、畏敬の念に満ちていた。その花は、二人が最初に出会った日に咲いていた花と、儀式の日に湖底で見た花が融合したもののように見えた。


「ああ、きっと『彼ら』が、私たちを新たな世界へ誘っているんだ」


 ミルの声には、期待と覚悟が混ざっていた。『彼ら』とは、二人をこの幻想の世界に導いた存在たちのことだ。その正体は謎に包まれているが、ミルとユリカは『彼ら』を恐れてはいなかった。


 ミルとユリカは、ゆっくりと立ち上がった。その動作に合わせて、部屋中の空気が震えた。二人が手を取り合うと、その指先から光が溢れ出した。二人の体が、徐々に月光に溶け込むように透明になっていく。それは恐ろしい現象ではなく、むしろ美しく神秘的な光景だった。


「行こうか、ユリカ。新たな夢の世界へ」


 ミルの声は、決意に満ちていた。その瞳には、未知なる世界への好奇心と、ユリカへの揺るぎない愛が映っていた。


「ええ、ミル。どこへでも、あなたと一緒なら。それが私たちの永遠の運命だから」


 ユリカの返事は、まるで誓いのように力強かった。彼女の全身が、淡い光に包まれ始めていた。


 二人の姿が、月の光に溶けていくように消えていった。その過程は、まるで美しい舞踏のようだった。二人の体は光となり、部屋中を舞い、そして窓から外へと飛び出していった。


 後には、銀色に輝く湖と、一輪の虹色の花だけが残された。その花は、二人の永遠の愛の証として、静かに湖面に浮かんでいた。花の周りでは、小さな光の粒子が舞い続け、まるで新たな物語の始まりを予感させるかのようだった。


 そして、新たな夜が始まろうとしていた。永遠と刹那が交錯する、夢幻の世界で。月は静かに微笑み、湖は新たな秘密を抱き、森は優しくささやいていた。この世界は、ミルとユリカの物語を永遠に記憶し続けるだろう。そして、彼らの愛の物語は、この幻想的な夜の中で、永遠に語り継がれていくのだ。


(了)



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