屋上パニック
香菜さんは病院の屋上に上がると。
ゆっくりと、ビルの周りを取り囲むパラペット(手すり)の方に歩いていく。
パラペットに香菜さんは手をかけると、その向こう側を見た。
香菜さんは腰をパラペットに乗せた。
まるで鉄棒をするみたいに。
ブラブラと手すりの上で揺れた。
仰向けに、手すりの上で揺れた。
青い空が、香菜さんと一緒に揺れた。
そしてその揺れはだんだん大きくなる。
香菜さんの体が、半分以上ビルの外側にはみ出して揺れる。
香菜さんは思う。
――これでもう自由になれる。――
――もう私にはなにもない。10年かけて築いたクラブも消えた――
――1度目の喪失は耐えたけど、2度も失うのは耐えられそうにない――
――もう、ママには会いたくない。これで2度と会わないですむ――
そして、香菜さんが手を離した。
滑り落ちる。
ビルの向こう側に。
香菜さんは鳥になる。
香菜さんは大きく、手を翼みたいに広げた。
香菜さんは心のなかで叫ぶ。
『さよなら、ママに理解されない私』
『さよなら、私のいた世界』
『さよなら、私の苦しみ』
『さよなら、私の人生』
最後に香菜さんは、思い出す。
一番嫌いで、一番好きな人の顔を。
『さよなら、ママ、ア・イ・シ・テ・ル』
――私は、苦しみのない世界に、旅立っていく。――
――その世界には辛さない――
その時、香菜さんの体が、誰かに掴まれた。
そして、ビルの方に引っ張られた。
屋上のコンクリの床に、香菜さんは落ちて、突っ伏した。
倒れた香菜さんの脚に、抱きついている男が見えた。
その男に怒鳴られた。
「何やっているんだよ」
香菜さんが男の顔を見た。
「何って? 洋さんじゃない? なんでいるの?」
洋さんが半分キレていた。
「飛びおりとか、マジ洒落になんないから」
洋さんは香菜さんから離れて、床に座った。
香菜さんも、上半身起こして、体育座りした。
香菜さんがもう一度聞く。
「え? なんで?? ここに洋さんが、どうしているの?」
洋さんは怒っていたから、口調が強い。
「聞いちゃったから! 香菜さんとママの話をさ。あの女に人、香菜さんのママだろう? それで後をつけてきたんだ」
香菜さんが更に聞く。
「洋さんは、どっからいたのよ」
洋さんは、少し落ち着きを取り戻す。
「俺、麻さんに香菜さんが入院しているって聞いてさ。麻さんの家に荷持つおいてから、病院に来たんだけど。そしたらたまたま俺より瞬間早く、香菜さんの病室に入る女の人を見てさ。香菜さんは個室だろう?だから、外で順番待ちしたほうが良いかと思って、廊下で待つことにしたんだ。そしたら漏れ出てくる会話が不穏でさ。そのうち女が病室を出て、その後ろから香菜さんが歩いて行って。俺はその後をつけたわけ。女の人は入院病棟から出て行って、香菜さんだけ階段を登って行ったから。なんか俺嫌な予感してさ」
香菜さんが大笑いする。
「あははは。予感的中かぁ。参ったな」
洋さんが、再び怒って言う。
「笑い事じゃないだろう? 参ったじゃないよ。それで、やっぱりあの女の人は、香菜さんのママなの?」
香菜さんが答える。
「一応ね」
「昔はきれいな人だったのにな。だいぶ変わったなあ」
「そうだね」
洋さんが尋ねる。
「それで、何で飛ぼうとしたの?」
香菜さんが言う。
「なんか、嫌になったんだよ。今まで頑張って来たことが、一瞬でママとパパにまた崩されて……。最終的には、芸能界に居られなくなったのも、パパとママのせいだったし。今度は、私の命と同じくらい大事なお店だよ。毎回あの二人が、私からいつも大切なものを奪うんだ」
洋さんが同情した。
「ツラいな。でもいるだろ? 今の香菜さんには、兄さんがさ」
香菜の目付きが優しく変わった。
「……そうだね。良ちゃんのことを、すっかり忘れてた。実は私、洋さんが帰ったら、もう一度ここから飛ぼうって思ってた」
洋さんが焦る。
「おいおいおいおいおい。やめてくれよ!」
香菜さんが言う。
「でももう大丈夫、私には良ちゃんがいた。昔とは違う。私には良ちゃんが居るんだ」
洋さんが声を荒らげて言う。
「だったら、もう忘れんなよ。大事な人なんだろう? 忘れんなよ! 後、早く籍を入れたほうが良いぞ」
「なんで?」
「何か香菜さんにあったら、兄さんは香菜さんの病室にも入れないし、香菜さんの財産も処理できないんだ。あのママがする事になるんだぞ」
香菜さんがうつむく。
「……それだけは嫌だ」
洋さんの説得に力が入る。
「だろう? だから自己防衛が大切なんだ」
香菜さんが力のこもった声で言う。
「うん。私の物は全部良ちゃんに残したい。だって私と一緒に、私のモノを守ってくれるのは良ちゃんだけだもの」
洋さんがしんみりする。
「そうか……。確かに親や今までの恋人は、香菜さんから奪うだけだったよな。さて、病室に帰ろう」
「私、退院する」
「え?」
「負けない」
洋さんが理由を聞いた。
「急にどうした?」
「私は絶対、またクラブを再開する。そのために今は、私の出来ることを最大限する」
「いいねぇ。それでこそ香菜さんだ」
香菜さんが頷く。
洋さんが言う。
「死んだら負けだ!」
香菜さんが言う。
「洋さんは、良い事を言うね」
洋さんが威張る。
「そうだろう? いいか? 死んだら負けだ!」
香菜さんも言う。
「死んだら負けだ!」
そして二人は立ち上がり、階下へと去っていった。




