母との対峙
結局香菜さんは1月以上入院していた。
運がいいのか、悪かったのか。
色々検査したら、病気が見つかったのだ。
それで、結果として1月以上入院していた。
そこに香菜さんのママが、またひょっこり現れた。
ママは、病室に入ると、当たりを見回した。
ママのセリフは、軽い嫌味で始まった。
「特別室なんて、贅沢ね。香菜ちゃんは、お金あるのね」
たぶんそれは、嫌味ではなかったかもしれないが。
香菜さんには嫌味に聞こえた。
香菜さんが言い返した。
「今、私は話題だから、この部屋しか居場所がないのに。そんな事言うの?」
ママはしまったと言う顔をした。
「そんなぁ。香菜ちゃんは、いちいち私の言葉を、悪い方に勘ぐってぇ。酷いわ」
ママはバッグからハンカチを出した。そのハンカチで手を拭く。
ママは、手を拭き終わると、勝手にソファに座った。
それで仕方なく、香菜さんはベッドから降りて、ママの向かい側のソファにかける。
ママが言う。
「今、香菜ちゃん、凄い話題よね」
香菜さんは、その話題は避けたかった。
「したくない。そんな話は」
「ワイドショーとか見ないの?」
「見ないよ。見るなって、先生に言われたし。検索もしてないよ」
香菜さんは、今医師に言われて、テレビやネットから遠ざかっていた。
だから今、世間で何が起こっているか、殆ど知らなかった。
それでも毎日良ちゃんは来てくれたし。
麻さんも、3日に一度は顔を出してくれた。
なぜだかチカラ君も、時々やって来た。
良ちゃんの知り合いの看護や医師も、たまに覗いて、話して掛けてくれる。
病室にいれば、香菜さんは、世間と別の場所にいられた。
香菜さんのママが言う。
「香菜ちゃん。芸能界に戻ろう。あんな店なんかもう良いじゃない?」
香菜さんは、ママの身勝手に混乱した。
「ママ、いきなり来て、言うことはそれなの? どう言うつもり。私は芸能界を引退したんだよ。落ち目になって仕事が減って、段々誰にも呼ばれなくなって。芸能界から消えたんだ。どうして今更芸能界に帰れるの?」
ママが説得する。
「今、香菜ちゃんは、話題じゃないの?動画サイトも開いて、動画配信したら良いと思うの。芸能プロからも2つばかり声がかかったのよ」
香菜さんは思う。
声が掛かったんじゃなく、ママが売り込みに行ったのだろうと。
ママが嬉しそうだった。
「みてSNSでは、悪い噂ばかりじゃないの。香菜ちゃんが綺麗になったって言う声も上がっているのよ。香菜ちゃん擁護派もだんだん増えてきているのよ。もう一度芸能界で花を咲かせましょう」
ママが携帯を差し出して、香菜さんに渡した。
開かれたページには、見たくない情報が書かれていた。
つい、香菜さんは見てしまう。
画面を見つめる香菜さんに、ママが言う。
「悪い方が、まだ多いけど。でもねアンチも視聴率なのよ。そうでしょう?」
香菜さんは、体が重くなっていく。
何かに、のしかかられているような、そんな感覚に落ちていく。
香菜さんは、自分の体を支えていられなくなる。
頭が膝の方に、どんどん傾いて行ってしまう。
それでも香菜さんは、重い体をなんとか起こしてた。
「ママ、もういい加減にして。私はもう、芸能界で働くのは、嫌なのよ。私は頑張って、お店の勉強をして修行して、店を開いて、ビルのオーナーにもなった。自分で努力して、コツコツ10年かけてここまできたのよ。なんでそれを壊して、また芸能界に戻るのよ」
ママが懐かしげな顔をした。
「楽しかったじゃない? 毎日、芸能界でお仕事して、楽しかったじゃない? だからもう一度、あの華やかな世界に、ママは戻りたいの。香菜ちゃん、ママの夢を叶えて。どうせクラブはもう駄目なんでしょう? ワイドショーでそう言ってたわ。だったらいっそビルごと売って、東京に戻りましょう」
香菜さんには、その時、ママが、何処か別の場所で喋っている幻に、見えた。
香菜さんは、芸能界を追われて。
芸能界で頑張ったすべてを失った。
家族もなくて、仕事もなくして、友達や仲間度と思っていた人も消えた。
それでも一念発起して、クラブ経営をして、ビルのオーナーになった。
やっと、幸せを感じられる様になったのに、目の前の女は、香菜さんに言う。
また芸能界で出直せと言う。
この女は、ママだ。
香菜さんの、愛してやまない、ママだ。
香菜さんに、そのママが、ママと為に、尽くせと言っている。
ママは、ママのために、香菜さんを犠牲にしろと言っている。
ママが子供のために生きるのではなく、子供がママのために奴隷になれと言っている。
香菜さんは、その事実を、まだ受け止めきれない。
香菜さんが確認した。
「ところで、あの人はどうしたの? あれから別れたの?」
ママの顔は曇る。ママは手に持ったハンカチをいじくり回す。
「あの男は、まだ一緒にいるわ」
「じゃ、その人と幸せにやっていてよ。私は関係ないでしょう! 言ったよね? あの男がいる限りは、ママの面倒は見ないって」
「でも、あの人を見捨てられないの。可哀想な人なのよ。あの人も、仕事が減って……。だからあの人が、香菜ちゃんと仕事したいって言っているの。助けてあげてほしいの」
そして、ママはまたハンカチで手を拭いた。
香菜さんの体は限界だった。
床に突っ伏してしまいたかった。
床にめり込んで、そのまま沈んでしまいたかった。
香菜さんが言う。
「ともかく、帰って。もう無理だよ」
ママが恨めしそうに言う。
「香菜ちゃんは、ママも殺すの?」
意外なママの言葉に香菜さんが驚く。
「ママは、何を言っているの?」
香菜さんの心を殺そうとしている女が、香菜さんに問う。
”私を殺すの?”
ママは喚いた。
「香菜ちゃんは、パパを見捨てたんでしょう? ネットの書いてあった。香菜ちゃんが冷たくパパを突き放したから……。だからパパは死んだんでしょう?」
香菜さんは衝撃を受けた。
「ママは、私がそんな事をしたと思っているの?」
ママは答える代わりに言う。
「ママも見殺しにするの? ママも死んだら良いって思っているの?」
ママは、答えはしなかったが、けれどそれは、答えた事と一緒だった。
”ママは、香菜さんが、パパを殺したと思っている”
香菜さんがママに問う。
「本気で言っているの? ママは本気で、そう思っているの?」
ママがハンカチをいじくりながら言う。
「だって、マスコミも、ネットでもみんなそう言っているじゃない!」
香菜さんの頭の中は真っ白になった。
香菜さんの心は、ママの言葉に深く刺された。
刺された心から、一気に血が吹き出した。
香菜さんの心を、一番刺してはならない部分を、一番刺してはならない人が、刺したから。
刺された傷は、深く、香菜さんの心の奥まで挿し込まれた。
「ママまで、噂を信じるんだ。私のことを信じてくれないんだ?」
ママがハッとした顔をした。
ママは香菜さんの機嫌を損ねた事に動揺した。
「まさか、そんな。私は香菜ちゃんを信じているよ。だって私は香菜ちゃんのお母さんだもの」
ママは、言い終わると、ハンカチで丹念に手を拭いた。
心が血まみれの香菜さんが笑う。
「ふふふふふふ。お母さん、お母さん……。あははは」
ママは、香菜さんが笑ってくれて、安心した。
それでママも笑う。
「ふふふふふふ」
香菜さんが錯乱して言う。
「笑ってんじゃねーよ!!!!!! 昔からテメーは、何時だって何言っているかわかんないんだよ!!!!!!」
ママが懇願した。
「お願い。怒らないで! ママを助けて。ママとあの人に協力して。助けると思って。あの人も可哀想な人なの。才能はあるのよ。ただチャンスがないだけなの」
香菜さんは喚く。
「帰れ! 帰れ! 帰れ! もうお前の顔なんて見たくない!」
ママの目が怯えていた。
「私を追い払うの? ママを捨てるの?」
ママの怯えた目を見て、香菜さんが正気を取り戻す。
「もう今日は無理だから。帰って。もう私は限界だよ。それに、先に捨てたのはママだよ。ママが私を捨てたんだよ。今更何を言うの?」
ママが叫ぶ。
「誤解よ。捨ててなんかないわ! ママは香菜ちゃんが可愛いの。捨てるはずがないでしょう?」
香菜さんは、ママの頭の中はどう出来ているのかと思う。
ママの都合がいいように、話が変わってしまったとしか思えなかった。
香菜さんが、一時しのぎを言う。
「考えるから。今後は、これから考えるから。だから帰って! 今は帰って!」
ママはハンカチをバッグにしまった。
それからママは、仕方なく病室を出る。
ママが言う。
「また来るから。その時に返事を聞かせて」
香菜さんは無言だ。
ママの歩く後を、香菜さんが続く。
ママは入院病棟と一般病棟を分ける扉から出て行った。
香菜さんは、ママを見送った。
扉が完全にしまって、扉についた窓から、ママが見えなくなるまで見ていた。
香菜さんは独り言を言う。
「また来るって言った。もう、会いたくない。ママに会いたくない」
”もし香菜さんの、心から吹き出した血が、見えたなら。
香菜さんは、今体中、血まみれに見えただろう”
香菜さんは階段をあがった。
香菜さんの病室は、階段を上がる必要も、下がる必要もないのに。
香菜さんは上がって行く。
”もし香菜さんの、心から吹き出した血が、見えたなら。
階段に血で出来た、香菜さんの足跡が、見えただろう”
そして上がった先は、屋上だった。




