碧の気持ち
脱衣所で、碧さんは麻さんの髪を乾かす姿を見ていた。
髪が乾くと碧さんが言う。
「二階に行こう。寝室は2階だろう?」
麻さんが聞く。
「家の中を見て来たの?」
碧さんがあたりを見回す仕草をしながら言う。
「麻さんが風呂に入った後すぐ、家の中を見たよ。洋さんはここに住んでいるんだな。あいつの私物があった。後でダンボールに詰めようぜ。ところであのモニター洋さんの?」
麻さんがうなづく。
「俺、あのモニターは欲しいな。麻さん、洋さんから貰ってくれよ」
仕方なく麻さんは、碧さんと話を合わせた。
「お願いしてみるよ」
碧さんが満足して、更に言う。
「俺さぁ、直ぐにでもこの家に越してくるよ」
麻さんは心底驚いて尋ねた。
「この家に住むの?」
碧さんは夢見心地で言う。
「良いだろう? 駐車場も2つあるし。部屋も2つあるんだ。2人で暮らすならちょうど良いだろう? 子供が産まれたら、建て増ししたら良いよ」
麻さんは会話を引き延ばす。
「建て増したら、お金掛かるんじゃない」
「そのくらい俺が稼ぐよ」
碧さんが麻さんの髪を撫でた。
麻さんが調子を合わせる。
「嬉しいわ」
碧さんが頷く。
麻さんが2階に行かない為に、食べ物で碧さんを釣ってみた。
「そうだ。碧さんの好きなチーズと生ハムがあるけど。食べる? クラッカーにオレンジジャムを塗って、チーズと生ハムを載せるわ」
碧さんは乗り気のようだった。
「え? 作ってくれるの?」
麻さんは、釣れたと思った。
「ええ。せっかくこうして2人になったんだから。ワインも開けるわ。白が良い? それとも赤?」
碧さんが考える。
「白かな」
麻さんが頷く。
麻さんが台所に行くと、碧さんは茶の間のちゃぶ台の脇に座って待った。
麻さんが台所に行き。クラッカーに生ハム、ジャムにチーズを用意した。それから作りながらまたラインする。
”助けて“
クラッカージャムを塗り、チーズを載せて、生ハムをその上かおく。大皿いっぱいにそれを作って、ワイングラスを2つ用意した。
麻さんがまず大皿を茶の間に運んだ。
大皿のクラッカーを見て、碧さんが言う。
「麻さんの料理は久しぶりだな」
「料理ってほどの料理じゃないよ」
「イヤ、俺はずっと麻さんの作ったモノが食べたかった」
「大袈裟だな」
碧さんは目を輝かせて大皿を見る。
「ワイン持ってくるね」
台所に行き、携帯を確かめる。しかし既読がついていない。
麻さんがワインとグラス2つを持って茶の間に戻る。
「ワイン、開けてくれる?」
「珍しいな。今時コルク栓かよ」
「ね。でもその方が美味しい気がするんだ」
碧さんの表情が緩む。
「麻さんらしいな」
「何? それ」
「変なこだわりだよ。時々あるだろう? よくわかんないこだわりがさ」
「ふーん。そうかな?」
麻さんには思い浮かばない。
碧さんがワインのコルクを抜く。コルクの栓を麻さんが嗅ぐ。
「良い香り」
碧さんがワインをグラスに注いだ。そしてグラスを麻さんに渡す。
「乾杯しよう」
「何に乾杯するの」
「俺たちの未来だよ」
「未来……」
麻さんの言葉が詰まる。
碧さんは饒舌だった。
「ああ、未来だよ。俺はずっと悔やんできた。麻さんとあの時別れなければ、ほんわかとした生活があったはずだった。なのに俺は短気から、麻さんとの未来を捨てたんだ。派手な女に目を奪われて、麻さんとの生活を捨ててしまった」
麻さんには碧さんの話の意味するモノがわからない。でも調子を合わせた。
「あの時は傷ついたよ」
碧さんが言う。
「ごめん」
碧さんの謝罪などどうでも良かった。
麻さんの頭の中には1つしかない。
”お兄ちゃん、助けて“
麻さんが促す。
「クラッカー食べて」
碧さんが言う。
「まずは乾杯だ」
「乾杯!」
「乾杯!」
ワインを飲む。
碧さんがクラッカーを食べる。
「美味い。美味いな」
麻さんは素直に嬉しかった。
「褒めてくれて、ありがとう。初めて碧さんに褒められた気がする」
碧さんは、もう1つクラッカーを取る。
「昔は褒めなかったけど。美味しいって思っていたんだよ」
麻さんは、碧さんの思いもしない言葉に驚く。
「知らなかった……」
碧さんは昔を思い出していた。
「本当だよ。美味しかったんだ。麻さんが用意してくれる色々なモノやコトが、とても心地良かったんだ」
「何も言わなかったじゃない?」
碧さんはもう1枚クラッカーをとって、口にれた。
そしてワインを、口の中に流し込む。
「分からなかったんだ。それを気に入っているってさ。失ってから分かった」
碧さんが麻さんに近寄る。
それで麻さんに緊張が走った。
碧さんの顔が、麻さんの直ぐ側にきた。
「麻さんを失ってから分かったんだよ」
麻さんが気持ち、碧さんから体を離した。
でもそれは焼け石に水でしかない。
麻さんが少し離れても、すぐ碧さんが接近してくる。
碧さんが麻さんの膝に頭を載せた。
そして碧さんの頭に、ふわっと麻さんの胸が乗る。
それを碧さんが触った。
麻さんは、恐怖で身が縮んだ。
碧さんが床に転がっていたバレッタを見つけた。
膝から碧さんが離れて、這うようにしてバレッタを拾った。
そして碧さんは上半身を起こして、麻さんの正面に座り直す。
「麻さんは、顔を出した方が可愛い。これからは俺といる時は、顔を出せよ。隠すなよ」
碧さんが麻さんの髪をバレッタで止めた。
髪をまとめて、顔が出た麻さんを見て、碧さんは満足そうにした。
「服もダボダボなの着るなよ。もっと体の線が分かるの着てよ。じゃないと俺がダサい女連れて歩いているみたいに見られるだろう?俺の価値が下がるからさ」
碧さんが麻さんの頭を撫でて、そして次に頬を撫でた。
麻さんの我慢は限界に達しそうだった。
怖くて堪らなかった。
洋さん以外の男に、体を触れられて、これ以上のことをされるのは、屈辱でしかない。
”触るのを止めて”と、今にも言葉が出そうだった。
でももしそんな言葉を発したら、殴られて、今すぐセックスされてしまうに違いないと、麻さんは思う。
碧さんが言う。
「麻さんは、自分じゃ分かっていないけど。綺麗なんだ。可愛いし、気が効くし。一緒にいてくつろげる」
碧さんの顔が麻さんに近づく。
麻さんの唇に近づいてくる、碧さんの唇。
麻さんは顔を少しずらす。
麻さんはキスをしたくなくて、ずらしたが。
碧さんはそう思わなかった。
麻さんは恥じらっていると思った。
碧さんはモテ人生を歩んできた。
だから、よもや自分を拒絶する女がいるなど、思ってもみなかった。
碧さんが指を振れば、大抵の女が尻尾を振ってやってきた。
だから、麻さんも、直ぐに思い直して、碧さんをまた好きになってくれると信じていた。
そのうち、すぐ、また碧さんを好きになる。
碧さんはそう思ったし、そう思いたかった。
麻さんが顔を逸したから、碧さんの唇は、麻さんの頬に当たった。
碧さんの手が、麻さんの太ももに置かれる。
麻さんは眉を潜めた。
そして思う。
(絶体絶命! お兄ちゃん、助けて!)




