洋さんは、麻さんが、一番好きなんです
病院の庭で、洋さんとは、終わった。
麻さんは、そう思っていた。
しかし、終わってはいなかった。
病院での晴海事件から、2週間が過ぎた土曜日に、洋さんが麻さんの家にやってきた。
その間、麻さんは掃除に逃げていた。
だから洋さんがやって来た時も、麻さんは掃除をしていた。
洋さんは、掃除をする麻さんを見るなり、懇願した。
「お願い許して」
麻さんが言う。
「今更、来て……。もう終わったと思っていた……」
洋さんは、麻さんに嫌味を言われたと思い、ドギマギして言う。
「ごめん。本当はもっと早く来たかったんだけど。出張とか研修があって……。パワポも作ってさ」
麻さんに他意はない。麻さんは寛大な言葉を洋さんにかけた。
「そうなんだ。晴海さんの病院に、また通っているのかと思った。私のことはもう良いよ。晴海さんの所に行ってあげて」
洋さんはそう言われて、絶望したような顔をした。
「あれから行ってないよ。本当だよ。もう病院には行かないし。晴海とも会ってないよ」
麻さん、雑巾を握りしめながら言う。
「私には、もう関係ない話だから……。もういいよ。その話は。多分私にも悪い点があって、洋さんは私より晴海さんが良くなってしまったんだと思った。私もね。反省したの。洋さんは晴海さんとお似合いだよ。幸せになってください。応援してます。私より晴海さんのほうが数段美人だったし」
麻さんの後ろ向き思考は止まらない。
「洋さんがいないから、ずっと胸がチクチク痛いけど。大丈夫。そのうち治ると思う。私は健康だから、自分で頑張らないとね」
洋さんがようやく勘づく。麻さんのいつもの自己悲観発言だと。
「麻さん、なんでそう言う理屈になるの?」
麻さんが言う。
「1週間くらい前に、碧さんに会って。話をしてね。私はその時、余計にそう思ったの。私って駄目な人間だなって」
洋さんが喚く。
「え? 碧さんに会ったの? 何で? 何で会うの? 会う必要ある? 会ってなにしたの? 何を吹き込まれたの?」
麻さんは、まさかの洋さんの責めに、混乱した。
「何って、カフェでお茶飲んで、奢られて。それだけだよ」
洋さんの声は険しい。
「はぁ――。何で奢られるの! 駄目だよ! 俺以外の男に奢られちゃ! 絶対あいつは下心がある。俺にはわかるんだ! 下心があるから奢ったんだ!」
麻さんが涙目になっていう。
「なんで。なんで……。なんで、私が怒られるの? 私が悪いの? 私が悪いから……? だったらごめんなさい。それと、私が洋さんと晴海さんの仲を邪魔した事もごめんなさい。早く晴海さんの所に行って。私のことはもう忘れてください。私は大丈夫だから」
もはや完全に、麻さんの中では、麻さんが一番悪い人になっている。
洋さんが必死で言う。
「悪かった。怒って悪かった。でも何でそんな思考になるんだよ。俺と晴海はなんでもないんだ。ともかく悪いのは俺で麻さんではないよ」
そこで、洋さんが携帯を出した。
「今ここで、全員の元カノの電話番号とライン消すから」
そして洋さんが携帯を見せる。麻さんが覗き込んだ。
「まず晴美さんの電話番号、それからライン……」
晴美の電話番号とラインが消された。
「次にこれが恵那さん……。それからこれが翔子さん……。それでこれが愛ちゃん……、あと、瑞穂ちゃん」
麻さんの涙が引っ込んで、麻さんは洋さんをガン見した。
ガン見されて、洋さんが聞いた。
「何?」
麻さんが尋ねた。
「一体、洋さんには、何人元カノがいるの?」
「20人くらいかな?よく覚えてないんだよ。1週間くらいで別れた子もいるし。なかなか3ヶ月もたないんだ」
麻さんには、その話は初耳だった。
「え、そうなの?」
「うん、なんか俺って、フラれやすいんだよ。愛してるの?とか詰問されて、答えられなかったりしてさぁ」
「それで愛してたの?」
「さぁ、どうだろう」
「え?どうだろうって……。じゃ何で付き合ったの?」
「それはその……。間に合せ……って言うか」
白い目で麻さんが洋さんを見て言う。
「洋さんは、間に合わせで女の人と付き合うの?」
洋さんは慌てふためき言う。
「あ、あ、あ……。違うんだ。違うんだ」
「何が違うの?」
「麻さんが他の男と付き合うとつい……。寂しくなって間に合わせに……」
「え、そんな理由で……」
洋さんは困ったように言う。
「俺にとって麻さん以外の女性は、麻さんの代替えにもならなくて……」
未だ麻さんは、後ろ向きなのが直らない。負の発言が止まらない。
「ねぇ洋さん、なんでそんなに私なんか……。私はそんな良い女じゃないし。晴美さん、凄く綺麗な人だった……。昔高校で付き合っていた女の子も、学年でトップクラスに可愛かったし。とっても良い子だった。なのに何で私なの?私は可愛くもないし……。取り柄もないし。私に価値なんてなにもないの。そんなに洋さんに愛されるなんて信じられない」
洋さんが声を荒らげて言う。
「麻さん、もうやめて。麻さんを悪く言わないで」
洋さんの強い口調に、麻さんは驚く。
「え?」
洋さんの表情はいつになく険しかった。
「何時も思っていたんだ。俺の麻さんを悪く言うのやめて。俺の麻さんを悪く言うには、いくら麻さんでも許さない」
「何それ……」
「もう麻さんは、何でいつも麻さんを悪く言うんだ。麻さんの価値は俺が知っている。麻さんの価値は俺が決める。麻さんが勝手に、麻さんを無価値だなんて言うな!」
それから洋さんは麻さんを抱きしめた。
「麻さんは優しくて、可愛くて、綺麗な人だ。俺はこうして麻さんを抱きしめて満たされるんだ。俺は麻さんの全てが好きだ。俺は麻さんを丸ごと愛しているんだ。ダメなところも良いところも、全部、全部好きなんだ! 今のままのそのままの麻さんが好きだ。麻さんじゃなきゃダメなんだ」
麻さんは、洋さんの麻さんへの、優しい気持ちが伝わってくる気がした。麻さんは、胸の痛みが和らいで感じた。麻さんがおもわず洋さんの名を呼ぶ。
「洋さん……。洋さん……」
グダクダで頼りない洋さんだけど。
やっぱり麻さんの王子様は洋さんしかいない。
麻さんに名を呼ばれて、洋さんが切なそうな顔で言う。
「麻さん、しよう」
麻さんは洋さんの言葉に動揺した。
「しようっていきなり……」
「結婚しよう」
そっちかと麻さんは思いながら言う。
「結婚って……。それはまだ先の話じゃ……」
麻さんには、この急な展開の意味がわからない。
しかし洋さんは止まらない。
「もう俺は不安で不安で仕方ない。位置確認のアプリは削除されたし。麻さんがどこに居るのかも分からない。何処で何しているのか? 今誰といるのか? 全く分からないだろ?」
「だからって結婚しても、それは同じじゃない?」
「でも結婚したら、他所の男に奪われる心配がだいぶ減るだろう? 麻さんが地味な方が良いと思っているのも、その方がよその男の目に、麻さんが止まらないからだ。麻さんがその気になったら、どんどん男がやってくると思う。そう思うと心配で心配で、俺は落ち落ち寝てもいられない」
麻さんは、洋さんの発想についていけない。
「洋さん、ちょっと考え方が変だよ。私は洋さんが思うほどモテないから」
洋さんがポケットから指輪のケースを出して、中から指輪を取り出した。そしてその指輪を麻さんの指にはめた。サイズがぴったりだった。いつの間にか測ったらしい。
洋さんが言う。
「いや駄目だ。危ない。男はみんな隙を見せたら寄ってくる。危なくて仕方ない。現に碧さんだって、麻さんを狙っているじゃないか? 危ない。危なくて仕方ない。だから麻さん、俺と結婚しよう」
麻さんが指輪を見る。
「本気なの。そんな事を本気で言っているの?」
洋さんの目つきは、真剣だった。
「本気だよ。こんな事冗談で言えないよ。直ぐにでも結婚したいんだ。愛してる」
麻さんは黙って、しばらく黙って。
沈黙が続いた。
洋さんは黙って待っていた。
麻さんがようやく重い口を開いた。
「結婚は出来ない。プロポーズのきっかけも納得できないし。結婚を勢いで決めたくないし。それに、ちゃんとした妻になる自信がないの。子供を産んで育てる自信がないの」
洋さんはそれを聞いて、麻さんを抱くのをやめて、立ち上がった。
洋さんの頭に中には、麻さんのセリフの後半はもはや入って来ない。
最初のセリフが、洋さんの心に、多大なるインパクトを与えた。
結婚できない。
結婚できない。
結婚できない。
その言葉が、洋さんの脳内で、連呼された。
洋さんの脳内で、麻さんの言葉が、勝手に処理された。
――洋さんを許せないから、結婚もできないのだと。――
――麻さんに、嫌われたかもしれない。――
麻さんが洋さんに尋ねた。
「急に立ち上がって、どうしたの?」
洋さんの目つきがおかしい。
「俺、俺、帰る」
「え?」
洋さんは肩を怒らせて、口調も早い。
「ちょっと冷静じゃいられない。麻さんが考えている間、俺は絶えられない。返事を待つ間、俺は冷静じゃいられない。俺、ちょっと動揺している」
麻さんは唖然として、洋さんを見上げた。
「じゃ、行く」
洋さんはいつもの倍の速さで、玄関に行き。靴を履いて出ていった。
麻さんは、なんだか、自分の方が洋さんに捨てられた気がした。一体何の話し合いだったのかさえ、最終的に分からない結末になっていた。
麻さんは独り言を言う。
「一体なんだったの?」
さてなんだったのか……。




