ママが毒を吐きました 後編
痛めつけられて、床に這いつくばっていた麻さんが、ゆっくり起き上がる。
麻さんだって知っていた。
年取ったママに抵抗したら、麻さんのほうが強いことぐらい。
でもただただ、ずっとやられて来たのだ。
本当はもう、だいぶ前から麻さんのほうが強い事くらい、麻さんだって知っている。
でも抵抗しなかった。
麻さんとママの関係を知っている人は言う。
”やりかえせばいい”
それはその通りだと、麻さんも思う。
でも麻さんはしなかった。
麻さんとママの関係を知っている人は言う。
”自分で考えたらいい”
そのとおりだと麻さんも思う。
でも麻さんは出来なかった。
麻さんとママの関係を知っている人は言う。
”麻さんとお母さんの関係はおかしいから、離れて暮らした方がいい”
それは麻さんも、分かっていた。
分かっていても、離れることが出来なかった。
今回は、兄の同居で、たまたま得た、母との物理的乖離だった。
本来なら、母親と離れることなど、麻さんにはありえない話だったのだ。
ボロボロのカーテンに目をやって、麻さんが思う。
(ママの暴言と暴言に耐えて、言う事を聞いて、いい子になれば、いつか愛される。そう心の何処かで信じてたけど。結局、28歳になっても、私は愛してもらえないままだ。わたしはどうしたら、ママに愛してもらえたの?)
麻さんは叩かれた頭が痛んだ。
髪を引っ張られて、抜けた麻さんの髪が床に散らばっていた。
麻さんの痛む頭の中で、グルグルと黒い渦が回る。
麻さんは自問する。
――愛されないのは私のせい。それとも……――
――どうやったら、ママの愛を得られたの?――
28年かけて得られなかった愛。
28年かけてかけられた、ママからの呪い。
麻さんは呟いた。
「でももう、それはどうでも良い。私はもう、ママに愛されなくてもいいや。もう諦めた」
麻さんは決意したように言う。
「もうママの愛は望まない。今日で一方的にやられるのは終わりにする。次は言葉だけじゃなく、やられたら抵抗する。もう無理だ……。今日は我慢したけど……。もう無理だ。あんなに頼んだに……。洋さんとの思い出のカーテンなのに」
麻さんはカーテンを切られて、ママから愛されたいと言う気持ちを、ようやく切ったのだ。親子の縁を切れなくても、愛を乞う気持ちを切ったのだ。
麻さんが呟く。
「ああ、でも。痛い。痛い……。胸が痛い」
麻さんはママを諦めて、麻さんの心に、また1つ強い喪失感を感じた。
洋さんを失って、ママからの愛も諦めた。同時期に2つの愛を諦めて、麻さんの体の真ん中に、ぽっかり穴が空いた。
麻さんが自分に問う。
「どうしてそんなに、私はママに愛されたかったんだろう……」
麻さんが言う。
「でも、辛いようぅ。辛い。痛いんだ。痛いくらい辛い。ママの愛がいらないって決めたのに。辛いよぅ。洋さん、私辛いよ。洋さん、会いたいよ」
麻さんは、ボロボロのカーテンを拾いあげた。
「あぁあぁぁ、私は多分変われない。ママからの愛を諦めても、私は何も変われない。自信も持てないし。自分がくだらないものにしか思えない……」
長い間の暴力と暴言で、麻さんの中に埋め込まれたママの言葉は、麻さんの体深くに埋め込まれていた。麻さんの無意識にまで、染み込んでいた。麻さんの知らないうちに、麻さんの言葉と行動、そして考え方まで縛っていた。
”ママは正しい”
“全部悪いのは私。”
“だって私はダメな人間だから。”
“だから叱られ、なじられて、暴力を受けても仕方ない。”
“怒るママが悪いのではなく、怒らせて私が悪い。”
”麻さんは、ブスで無能で、役立たずだ。だからママの側に居なさい”
麻さんが、拾い上げたカーテンに顔を埋めた。
(その言葉が、正しくないなんて、ずっと前から知ってたよ。でも、その言葉に従うことが、唯一ママに愛されるかもしれない希望だったんだ)
麻さんは、カーテンを抱きしめて、思う。
(ママから愛される事を諦めても、ママの暴言と暴力は、呪いのように、これからも私の考えと行動を呪縛してくるんだ。ママをからの愛がいらないと思った今でも、私は自分をブスで役立たずとしか思えない。これが解ける日が来るんだろうか……)
ママと言う魔女にかけられた呪いは、とてつもなく深く、麻さんの心と体に刻まれていた。
麻さんは思う。
(私は、誰かに好きと言われても。褒めてもらっても。私の体から、その言葉たちは素通りしていく。それはこれからも続くだろう)
ボロボロのカーテンを見て思い出すのは、洋さんのことだった。
楽しかったあの日の事を。麻さんは思い出す。
「辛い。せめて洋さんに、会いたいよ……。すごく会いたいよ。一度でいいよ……。少しで良いんだ」
麻さんは、カーテンを見ながら、洋さんがボイラー代を、建て替えてくれた姿を思い出す。そしてまだ代金を返していない事を思い出す。
「そうだ、ボイラー代……」
麻さんは、1番のお気に入りのワンピースを手に取った。
洋さんが似合うって言ってくれたワンピースだった。
麻さんは着替えながら言う。
「ボイラー代を返しに行けば、もう一度だけ洋さんに会える。会いたい。もう一度だけでいい。会いたい」
麻さんは急いで着替える。
「顔が見られるだけでも良い。これで最後になると思うけど、会いたい。本当は会う資格も、好きになる権利もないけれど。ボイラー代を返すんだから……。それなら会っても良いよね?」
麻さんの考え癖は、そう簡単には抜けはしない。
それでも、麻さんは洋さんの元に向かった。
麻さんは呪縛から、一歩、抜け出そうとしていた。




