洋さんが意外なことを言い出しました
猫さんが脱走したのを見て、兄が大声で叫んだ。
「猫さんが、逃げた」
洋さんが繰り返して言う。
「逃げた?」
兄はパニックだ。
「おい探せ。探せ。お前ら探せ。俺の大事な猫さんだぞ!」
兄が元彼に指示した。
「お前は俺と公園の方に行くぞ。麻さんたちは駅の方を探せ」
兄の剣幕に押されて、元カレはついて行ってしまった。
既に兄と元カレの上下関係は確立していた。
兄を見ながら、麻さんが言う。
「家の中に、お酒を置いてから行こう。洋さんは、うちの庭に自転車を突っ込んじゃって」
洋さんが駐輪する間に、麻さんは冷蔵庫に酒を入れ、戸締りをした。玄関の外に出ると、洋さんが待っていた。麻さんが聞く。
「駅の方、行ってみる?」
洋さんは何も答えない。でも2人は駅に向かって歩き出す。
「猫さん、いるかな?」
洋さんは何も答えない。
「猫さんってどうやって探せば良いのかな?」
やっぱり洋さんは黙りだ。
それから、無言のまま2人は、猫さんの影を探しながら歩く。
二人は黙ったまま、猫の姿を探した。
でも猫はいない。
痺れを切らして麻さんが聞いた。
「洋さんは、さっきから、なんで何も言わないの?」
洋さんが困ったように言う。
「何言えば良い? 俺、キモいだろう? 麻さん、俺に引いただろう?」
それで麻さんも困って言う。
「私、そんな風に思われてるなんて、微塵も思わなかったから。もしかして私、洋さんの気持ちを利用した、悪い女なのかなって……」
「いいよ、仕方ない」
麻さんは顔を歪めて言う。
「仕方なくなんかない」
洋さんは、麻さんを気遣うように言う。
「だって、俺の気持ちは知らなかったんだろう?お陰で今まで、俺一緒に麻さんと過ごせた。それだけでいい」
麻さんは何も言わない。
洋さんは沈黙が嫌で、頑張って喋った。
「俺、麻さんが好きだ。ずっと好きだった」
麻さんが口を開く。
「私なんかの何が良いの?」
「何って、麻さんの全部だよ」
麻さんが寂しげに言う。
「私、地味だし。特にこれといってとりえもないし。ママには、私、ブスで役立たずだって言われているし。私……」
麻さんは言葉を濁した。
麻さんはこう続けようと思っていたのだ。
――私には洋さんに愛される資格がない――
麻さんが濁した言葉を話す前に、洋さんが喋った。
「俺はそうは思わない。それは麻さんのママの考えだろ? 俺は麻さんが地味なのも、目立たないのも気に入っているし。俺は麻さんを可愛いって思っている。役立たずじゃないし、取り柄もいっぱいある。もし役に立たなくても麻さんなら、それでいいんだ」
麻さんはまた黙ってしまう。
洋さんはそれでも頑張って喋った。
「もし麻さんが役立たずでも、取り柄がなくても俺は麻さんが良いんだ。俺は麻さんといるだけで幸せなんだ。麻さんが俺を見てくれるだけで、俺は嬉しくて仕方ないんだ。好きなんだよ……」
洋さんの頑張りも虚しく、麻さんは俯いたまま喋らない。
沈黙が2人のいる空間を支配した。
洋さんは沈黙する麻さんを見て、洋さんが麻さんを困らせていると感じた。
男として好きじゃないけど、でも友人として好きな男に告白されて、優しい麻さんは返答に困っていると、洋さんは理解した。
つまりそれは、洋さんを麻さんが男として好きじゃないって意味だと、洋さんは考えたのだ。
麻さんの沈黙は続く。
そして、洋さんは沈黙に耐えられなくなる。
「分かった。俺、東京に行くよ」
洋さんは麻さんを困らせたくなかった。
だから洋さんは、麻さんにそう伝えた。
しかし、麻さんに、洋さんの言葉の真意が理解できなかった。
「どういう事?なんでいきなり東京に行くの?」
洋さんは自分の気持ちを説明した。
「俺、完全リモートワークだから、何処で働いても良いんだ。だから今まで麻さんの側にいたくて、実家に住んでたけど。もう麻さんの隣には、いられないだろ?麻さんも気まずいだろうし。俺は恥ずかしくて、身の置き場がない。会社の側にアパート借りて住むよ。引っ越す」
麻さんはそれを聞いて黙る。
麻さんは思ったのだ。
――洋さんの引っ越しを止める権利は、私になんかない――
黙って2人は歩く。
月明かりが2人を照らす。
いつもより、歩く2人の距離は遠い。
駅が見えるところまで、いつの間にか来ていた。
洋さんが言う。
「麻さん、駅の交番行ってみよう」
麻さんが頷く。
――でも結局その日は、猫さんは戻って来なかった。――