コーラル 中編
リーゼロッテ。十四歳。美麗な金髪は生まれてから一度も切ったことがなく、腰下まで伸びている。真ん丸な目は海を閉じ込めたような碧眼で、人形のように可愛らしい見た目の女の子である。
性格は優しく、親思いの子だそうだ。現在は投薬もやめ、余生を楽しく過ごしている。
今回、アパタイトとコーラルに望むのは一つ、楽しいこと。あとはたまに背中をさすって、「頑張って」と声をかけてほしいとのことだ。
セオドアから教えてもらったことに加え、プログラム前に送られてきた手紙にはそう書かれていた。
リーゼロッテが住んでいるのは郊外にある湖の畔。周りの目を気にせず静かに、けれど元気に過ごしてほしいという両親の意向だ。
馬車に揺られること半日ほど。アパタイトとコーラルは目的地に到着した。
「ようこそ、いらっしゃいました」
中年の女性が恭しく出迎えてくれる。リーゼロッテの母親だろう。
「初めまして。俺はコーラルと申します」
「アパタイトです」
「リーゼロッテの母のマーニーです。満足なおもてなしもできませんが、どうぞなかへ」
マーニーは片足が悪いようで、庇うようにひょこひょこと歩いていた。
「こちらの部屋をお使いください。なにせ小さい家なものですから、一部屋しか用意することができず」
こぢんまりとしているが、綺麗に清掃されている。日当たりもよく、明るい部屋だ。ベッドの脇には敷布団が一つ用意されていた。真新しさが見てとれ、プログラムのために準備してくれたのだろうとわかる。
「食事はどうかリーゼロッテと食べてやってください」
「はい。俺たちにできることなら、彼女の願いはすべて聞きとどけようと思っていますから。遠慮しないでください」
コーラルがそう言うと、マーニーはハンカチで目元を拭った。
「ママ! 来たのね!」
肩を震わせるマーニーの後ろからどたどたと足音が響き、金髪の少女が飛び込んできた。
装飾のない、膝丈の白いワンピース。靴は履いておらず、なぜか裸足だ。アパタイトとコーラルをとらえた碧い目はきらきらと輝いている。
「どっちがアパタイトでどっちがコーラル? 私、『初めまして』を楽しみにしてたから二人のことは名前しか知らないの!」
息を切らした少女が屈託のない笑みを浮かべる。
「俺がコーラルで」
「僕がアパタイトです」
「あなたがコーラルで、あなたがアパタイトね。うん、覚えた。私はリーゼロッテ、よろしくね! 私が家を案内してあげる。ほら、来て!」
「こら、リーゼロッテ。二人はお客さまなんだから――」
「構いませんよ」
リーゼロッテは右手にコーラル、左手にアパタイトの手を引く。青白く、骨張った指だった。
「ここはパパの部屋よ。いつも朝早くに出て、夕方くらいに帰ってくるの。ここには入っちゃだめだからね!」
もともとこの家はどこかの貴族のささやかな別荘だったそうだ。老朽化が原因で売りに出されていて、そこをリーゼロッテの両親が買いとったという。上下移動のない一階建てというのも母娘にとっては魅力的だった。
家族の部屋、浴室、食堂とすべての部屋を案内しおえたリーゼロッテに、二人は外へと連れ出された。
「次は庭を紹介するね」
やはり靴は履かないようで、素足のまま庭に出ていた。
背の低い草がそよそよと風に揺れ、時折、湖の水面が波紋を広げている。寒季も近いはずなのに、この地域はぽかぽかとしている。もしかしたら、療養のためにそういう気候を探したのかもしれない。
「森には入っちゃだめ。こわーいお化けにさらわれちゃうんだから」
リーゼロッテは人差し指で目尻を吊り上げ、『こわーいお化け』とやらを表現してくれる。
夜の森は月明かりすら届かない暗闇だ。アパタイトはそれを、身をもって経験しているためよほどのことがない限り進んで入ることはない。
「どうしたんですか?」
自分たちを見つめたまま、リーゼロッテがぴたりと止まっている。アパタイトが様子をうかがうと「すー、はー」とリーゼロッテは大きく深呼吸した。
「二人と友達になれることが嬉しくて、少し急ぎすぎちゃったみたい。ね、あなたたちのことを教えて」
リーゼロッテは再び二人の手を引いた。湖の縁まで来たリーゼロッテは腰を下ろし、ちゃぷんと足を湖水に入れる。そしてぱしゃぱしゃと軽く動かした。
「座って。足は入れなくてもいいから。水は冷たいの」
リーゼロッテを間に入れ、アパタイトとコーラルが座る。
「二人は何歳? 私は十四歳よ」
最初は年齢、次は好きな食べ物や趣味、得意なことなど。リーゼロッテは当たり障りのない質問を二人に続けた。
コーラルはすべてにすらすらと答えるが、アパタイトは確実なもの以外すんなりと答えることができなかった。
好きな食べ物もない。吐き出すほど腐っていなければなんでも食べられる。趣味もない。ほとんどヒスイと一緒だから続けていることばかりで、得意なこともない。アパタイトができることは大抵、みんなもできる。
「アパタイトはまだ、自分を見つけられてないのね」
「……よく、わかりません」
「それでいいの。人生ってわからないことだらけじゃない。私だって、あなたたちと友だちになれるなんて、思ってもみなかったもの」
リーゼロッテは後ろに手をついて空を見上げた。橙色に染まりはじめている。
「先に、謝っておくね」
リーゼロッテは口元に薄く笑みを乗せる。
「私、もうすぐ死んじゃうの。あなたたちと思い出を作るだけ作って、死んじゃうの。だからこれは私のわがままよ。意味がないってこともわかってる。あなたたちには本来、触れることのない死に触れさせてしまうでしょうね」
リーゼロッテは目を瞑った。
「少しだけでいいの。これ以上なにも望まない。夢を見たいの。私が死ぬまで、友だちでいてくれるだけでいいから」
さあ、と心地のいい風が吹いていく。
リーゼロッテはただ静かに、返事を待っている。空を見つめるリーゼロッテを挟み、アパタイトとコーラルの視線が交差する。コーラルは神妙な面持ちをしていた。
「死んでしまっても、友人です」
ぽつりとアパタイトは言う。リーゼロッテの目が大きく、ぱちりと開いた。
「――それ、素敵ね」
夕陽に照らされ、リーゼロッテの碧い目がきらきらと輝く。
それからしばらく、会話のない静かな時間が流れていた。響くのは、ぱしゃ、ぱしゃ、とリーゼロッテが湖面を蹴る音だけだった。
「やあ、初めまして。僕はベン。気軽にベンと呼んでくれ」
日が沈む前にリーゼロッテの父が帰ってきた。早速、五人で食卓を囲む。焼いたパンに蒸した魚、スープと温かい食事に舌鼓を打つ。
リーゼロッテがアパタイトとコーラルと楽しげに話していると、ベンは複雑そうな顔をしていた。しかし、娘たっての希望だ。水を差すわけにはいかなかった。
「ねえ、ママ、パパ。私、友だちと買いものがしたかったの」
ふと、リーゼロッテがねだる。マーニーとベンは困ったように互いを見た。
「私のせいでお金がないのは知ってる。でも、見るだけでいいの。お願い」
「違う、そうではなくて……」
すぐさまベンが否定する。両親がしている心配はお金のことではない。
「ここから近くの町に行くとしてもかなりの距離があります。乗合馬車を使ってもリーゼロッテの体力ではまず無理でしょう」
コーラルの説明にリーゼロッテは悲しげに顔を伏せる。
「それにマーニーさんかベンさんのどちらかについてきてもらわなければ、もしものときに俺たちだけでは対応できません」
コーラルは淡々と事実だけを述べていく。酷なようだが、命に関わることを曖昧に流すことはできない。
「一つ、マーニーさんかベンさんがついてくること。二つ、出かけることを二人が了承すること。三つ、決して無理はしないこと。具合が悪くなったらすぐに帰ります。その三点に納得いただければ、馬車を出せないかグリフィス男爵に手紙を出しましょう」
リーゼロッテが期待を寄せた眼差しを両親に注ぐ。
「手紙は、郵便局まで僕が届けよう」
「町には私がついていきましょう」
無事、二人の了承を得られたリーゼロッテは両手を上げた。隣に座っていたコーラルにぎゅっと抱きつき、感謝を露わにする。
「ありがとう、コーラル!」
「どういたしまして」
コーラルはにこりと笑う。ベンが、むむむ、と顔をしかめるが、引き離すようなことはしなかった。
手紙を書いて出すのに一日、届くまでに一日、馬車が来るまでに一日を要した。
今回、四人が出かけるのは、半日もかからない麓のルーストンという町だ。街と街を行き来する商人の休息所になっており、交易の町としても知られている。
地面は赤いレンガで整備され、町の中央には大きな噴水があった。赤っぽい壁の建物が多く、広さよりも高さを重要視している造りだ。
頭上、向かい合う窓と窓には紐が通され、そこに洗濯物が干されている。生活感と活気にあふれる陽気な町という印象だ。
念のため、コーラルは馬車にいつものレイピアと短剣を積んできてもらっていた。使う機会はないに越したことはないが、持っているだけで牽制にもなる。
「ママ、ママ! あれ見て」
リーゼロッテが指さすのは旅芸人のようだった。前が埋まるほどではないが、人だかりができている。
旅芸人は大きなボールの上に立ち、バランスをとりながらジャグリングをしていた。器用に投げているのはキャンディーのようで、子どもたちが喝采を上げている。
最後は旅芸人がボールから飛びおり、びしっとポーズを決めた。どこからともなく紙吹雪が舞う。拍手と歓声に旅芸人は満足そうにお辞儀をした。
「お嬢さんにお坊ちゃん。楽しんでくれてありがとう」
旅芸人は見物していた人たちに礼を述べ、さらに子どもたちには先ほど投げていたキャンディーを配っていく。大盤振る舞いだ。
「私も? いいの?」
「もちろんさ!」
「ありがとうございます」
リーゼロッテとアパタイトは渡されたが、なぜかコーラルはもらえなかった。大人と判断されてしまったらしい。
「あの人も間違えたようです。もらってきます」
「ふふ。お気遣いは嬉しいですが、そこまでほしいわけでもありませんから。そろそろ出店を見てまわりましょうか」
みずみずしい果物や野菜、塩やたれをつけて焼いた肉、魚の串などの食料品。柄の入った皿やコップなどの食器類。革や宝石を加工したアクセサリーなど、交易の町というだけあって商品の幅は数知れない。
アパタイトとリーゼロッテはキャンディーをしっかりと握りながら、出店一つ一つに目を奪われていた。
「二人の宝石はあるかな」
宝石を加工したアクセサリーの出店をリーゼロッテは熱心に見つめる。どうやら名前が宝石だということも知っているようだ。
「ねえ、おじさん。アパタイトとコーラルを使ったものはある?」
「うちでは取り扱ってないよ。特に珊瑚は希少でね」
主人はリーゼロッテを一瞥する。けだるげに答えるのは客とみなされていないからだろう。マーニーがはらはらしたような緊張の面持ちで見守っている。
「残念」
気を取りなおし、リーゼロッテはほかの店に興味を移す。
いちごやぶどう、カットしたりんごなどを串に刺して販売している店があった。贅沢に氷を削り、冷やしている。
「あれ、食べたい」
リーゼロッテはよだれを垂らす勢いだ。
「体が冷えるかもしれません」
「あれを食べずに死んだら、きっと後悔する」
そう言われてしまえばコーラルはなにも返すことはできない。マーニーを見れば諦めたようにうなずいていた。
「一つだけよ」
「僕も食べたいです」
「そうこなくっちゃ! 行こ、アパタイト」
許しを得たリーゼロッテはアパタイトとともに屋台に並んだ。それをコーラルとマーニーが遠巻きにする。
「ハンカチはいりますか?」
「ごめ、なさいね……っ」
コーラルからハンカチを借りたマーニーは流れおちる涙を拭った。
「あの子はもう受け入れているのに、私がしっかりしないといけないのに」
死を引き合いに出されて、誰が突っぱねられよう。
「あの子が、かわいそうで」
無表情のアパタイトに笑いかけるリーゼロッテの無邪気な横顔を、コーラルは色のない顔で見つめる。
「ハンカチは洗って返しますから。もう少しお借りします」
マーニーは落ち着いたようで、呼吸を整えている。リーゼロッテに気取られてはいけないと思っているのだろう。
「ええ、お気になさらず」
数分後、アパタイトはりんご、リーゼロッテはいちごの串を手に戻ってきた。二人とも待ちきれなかったようで、一番上がかじられている。
「……コーラル、具合が悪いんですか?」
「え?」
アパタイトにそう聞かれ、コーラルは首を傾げる。
「悪くないと思いますが。どうしてですか?」
「怖い顔をしていました」
「怖くなかったよ? いつものコーラルだったけど」
「僕は怖かったです」
怖い、怖くないと目の前で始まろうとする論争をコーラルは止める。
「少し考えごとをしていたので、そのせいかもしれませんね」
歩きながら食べる串は危ないため移動し、低木が植えられている花壇の縁に座った四人は一息ついた。
アパタイトとリーゼロッテはもぐもぐと串にかじりついている。
「ほら、果汁が」
リーゼロッテの口の端からいちごの果汁が顎に滴る。彼女の服は白色だ。赤い果汁が染みてしまえば目立ってしまう。
「こぼれなくてよかったわ」
頬張りながら口元を拭かれるリーゼロッテは嬉しそうに目を細めた。
「気分は? 悪くない?」
「大丈夫よ」
ごくんと飲み込んで答える。
「アパタイトは疲れていませんか?」
「まだ大丈夫です」
「疲れたら言ってくださいね」
あはは、と隣から笑い声が耳に届く。顔を向ければリーゼロッテが無邪気に頬を綻ばせていた。
「二人は友だちというより兄弟みたいね」
アパタイトとコーラルは顔を見合わせる。どちらもそんなこと考えたこともなく、きょとんとしている。
「ほら、その反応もそっくりよ」
髪の色も目の色も、背の高さだって、コーラルと似ているところなんてないとアパタイトは思う。
「僕とコーラルは兄弟じゃありません」
「兄弟じゃないことくらい、わかってるんだから。アパタイトって本当に冗談が通じないのね。そこがあなたのいいところでもあるんだけど」
食べおえたらごみを捨て、散策を再開する。
ちょうど太陽が真上あたりに昇り、寒さが和らぐ。上着を手放すことはできないが、先ほどよりかは快適な気温だ。
「コーラル、見てください」
「なんですか?」
「この花、寮にもあります」
「ああ。たしかに見たことありますね。ヒスイが植えたんでしたっけ」
アパタイトは花屋の前で足を止めた。見本なのだろう。屋台の前には咲いた花が置かれていて、売っているものは種や苗のようだ。
「せっかくならヒスイが植えていない花がいいですね。寮に植わっている花を覚えていますか?」
最近、アパタイトは花壇に足を運んでいない。記憶を辿るが、色だけしか思い出せない。花の大きさ、形。ほとんど記憶から抜け落ちている。
「まあ、ヒスイならなんでも喜ぶと思いますけどね」
「そうですね」
数ある種から育てやすいものを店番に選んでもらう。
「なにを買ったの?」
「花の種です」
「なんて花?」
言葉を失くしたアパタイトは花屋を振り返る。名札などはない。
「コーラル、覚えていますか?」
「俺はアパタイトがなにを選んだか見ていませんでしたから」
コーラルはくすりと笑う。
「ふーん。アパタイトが育てるの?」
「ヒスイが育てます」
「誰?」
「ヒスイは僕の――」
説明しようとしたアパタイトの視線がゆっくりと下へと落ちる。なんの前触れもなくいきなり、リーゼロッテが膝をついたのだ。
リーゼロッテは自分でもなにが起きたのか理解していないようで、口元を押さえて目を白黒させていた。
「けほ。け、ふ」
誰かの悲鳴が響いた。
リーゼロッテは手のひらについた、自分の口からあふれた血を呆然と見ている。
「だ、誰か! 医者はおりませんか!」
マーニーがリーゼロッテの肩を抱きながら叫んだ。あたりには一瞬でどよめきが広がり、医者を呼ぶ声が伝播していった。
「馬車を呼んできます」
コーラルが踵を返し、馬車を呼びに行く。
「リーゼロッテ、リーゼロッテ! しっかりして!」
「きこ、えてる……ま、ま」
吐息のような掠れた声を紡いだ口の端が上がる。
「ね。たべなか、たら……こうかい、した……でしょ?」
意識の途絶えたリーゼロッテの首がかくんと落ちる。
ただ一人、アパタイトだけがなにもできないでいた。助けを求めることも動くこともできない。は、は、と短い呼吸を繰り返すことしかできないでいる。
今こそ、背中をさすって「頑張って」と声をかけなけなければいけないときなのではないか。リーゼロッテは、それを望んでいたのではないか。けれど。
「あ……ぁ」
病床で血の気の失せた母と、血を吐いて虚ろな目をしたリーゼロッテが重なる。心臓をぎゅっと握られたような感覚がした。
記憶に残るこの母はまだ生きているときなのか死んだあとなのか。アパタイトは思い出せない。今、思い出す必要などないのに、それにばかり意識が奪われていく。
――母の死体は、どうしたんだっけ。
「アパタイト!」
肩に指が食い込み、激しく前後に揺すられた。
ぼんやりしていた視界がクリアになる。切羽詰まった顔をしたコーラルが、アパタイトの意識を引きずり戻していた。
「こー、らる」
「はい、コーラルです。俺のことを覚えていてくれてなによりです。名前を呼んでも返事がありませんでした。もしかしてアパタイトも具合が悪くなってしまいましたか? ひどい顔色です」
「ぼ、くは……大丈夫です。リーゼロッテはどうしましたか」
頭を振り、雑念を払い落す。
「幸いにも医術に精通したものがいました。今は容態を診て応急処置をしてもらっていて、間もなく馬車もやってきます」
人混みが馬車に道を開けていた。その場に居合わせた医者とともに馬車に乗り、急いで近くの病院へ向かう。
マーニーと待合室で待っていると、やがて報せを受けたベンもやってきた。幸い、応急処置が適切でリーゼロッテは一命を取りとめたそうだ。
今は眠っており、念のため今夜は入院するとのことで、マーニーは付き添いで病院に残り、アパタイトとコーラルはベンとともに家へと帰ることになった。
「びっくりさせてしまったね」
ベンはミルクを温め、二人に出した。
「覚悟していたことです」
そう答えるコーラルはちらりとアパタイトをうかがう。アパタイトはうんともすんとも言わず、出されたホットミルクをただ飲んだ。
「こういうことは何度もあったんだ。しかし、死期が近いことを知っているとどうしても動揺してしまうね」
ベンはテーブルに肘をつき、目元を指で押さえる。
「あの子を差し置いて、今度こそ、と思ってしまう。もっと、生きていてほしいのに」
死を覚悟するたびに、呪いにかかったように心が重くなる。それはまるで、死を望んでいるのではないかと。
「今日のあの子の様子を、教えてくれないか。きっと楽しんでいたろう。あの子の笑顔はきらきらと輝くんだ」
「ボールに乗り、キャンディーでジャグリングする旅芸人を楽しんでいました。そのあといちごの串を食べ、しばらくして血を吐きました」
コーラルは包み隠さず伝えた。ベンは涙ぐみながら聞いていた。
「今までベッドの上で過ごしていることが多かったから、健康な人と同じようなことができて嬉しいと言っていました」
マーニーとコーラルも知らない、アパタイトがリーゼロッテと屋台に並んだときの話だ。
「次はあなたとも来たいと言っていました」
ついにベンは嗚咽をもらし、腕に突っ伏した。
「う……うぅ、う……っ」
リーゼロッテのために仕事を休むことも考えている。仕事の最中に報せが飛んでくるときはいつも心臓が縮む。
けれど仕事を休めば生活費を稼げなくなる。蓄えていた金はとっくに底をついていて、休めば病で死ぬよりも先に飢えて死ぬかもしれない。
そうなればリーゼロッテの最期まで、すべての願いを叶えてやれなくなる。それだけはなんとしてでも避けたかった。
「ごちそうさまでした」
ベンは泣き疲れて眠ってしまった。布団をかけてやり、二人は部屋へと戻る。
「聞いてもいいですか?」
「なにをですか?」
今日はアパタイトが敷布団で寝る日だ。就寝の準備をしていたアパタイトはベッドに腰かけるコーラルを見上げる。
「あのとき、なにに意識を囚われていたんですか?」
コーラルは月明かりに照らされ、逆光で表情が読みとりにくい。
「言いたくありません」
「なぜ?」
「……」
じわじわと絞めつける蛇のように、じりじりと追い込む猫のように。コーラルはたまに支配するものの風格をまとう。柔和な表情のなかに、たしかに溶け込ませて。
それが、アパタイトがコーラルを怖いと思う一面だ。
「教えてもらえませんか?」
「……、……を」
心のなかでは言えたが、声となって出てくれなかった。アパタイトはぎゅっと布団の端を握る。
「それほどまで、あなたを苦しめている記憶なんですね」
「苦しんでなんか……っ」
思ったより大きな声が出て、アパタイトは口をおおう。夜にふさわしい静寂が戻る。
「母を……思い出していただけ、です」
言い切って、アパタイトは息をつく。
「……死にました。病で」
さらにコーラルが聞きたいであろうことを先んじる。アパタイトの耳が正しければ今、言ってのけたはずだ。
「教えてくれてありがとうございます。いつも顔色の変わらないアパタイトがなぜあんなにも動揺していたのか、知りたかったんです。無理に聞いてしまい申し訳ありません」
にこりといつもの笑みを浮かべたのがわかった。
「これでは不公平なので、俺の話もしましょうか。誰にも話したことはないんですけどね」
「……なんですか」
表情が見えないというのは不安だ。口調で感情を読みとろうにもコーラル相手には難しいから。
「手紙、見ましたよね。差出人と宛名を覚えていますか?」
アパタイトは記憶を手繰りよせる。
「差出人はレオとルシア、宛名はアトレでした。アトレはコーラルのことだとテディに聞きました」
「ええ、合っています。そしてレオとルシアは俺の両親だった人たちの名です」
「だった?」
「捨てられたんです。家門とともにね」
アパタイトは顔をしかめる。
「あれは毎月のように届くんです。最初のころは読んでいましたが、あまりにも代わり映えのしない内容ばかりが綴られているので、いつしか読むことはなくなりました」
「捨てられたのに、どうして手紙が届くんですか?」
「あれらはあの人たちが罪の意識を軽くするための作業にすぎないんです」
「では家門とは、どういうことですか?」
先ほどすぐに聞けなかったことを尋ねる。
「ああ、知りませんでした? 元々は貴族だったんですよ、俺。父が男爵位を有していたんですが、事業が立ち行かなくなり没落しました。七年前のことですね」
まったく持って知らない話である。
「ちなみに、テディが爵位を継いだのが十年前。プログラムと称して孤児院を運営しはじめたのが八年前です」
コーラルはかなり長いこと世話になっているようだ。
「テディと父は男爵位を持つもの同士、親交があったそうで。爵位を没収された両親は口減らしに俺をテディの元へ置いて消えました。必ず迎えにくると言い残してね」
「それは、捨てられていないんじゃないですか?」
「七年もあればとっくに立て直していると思いませんか? 仮にも貴族だったんですから。そうして待てど暮らせど、俺のもとに訪れるのは紙きれ一枚だけ。俺はもう、夢を見続けるほど子どもではありません」
「それでは、もし両親が迎えにきたらコーラルはどうするんですか?」
アパタイトの質問を受け、コーラルは顎をさすった。
「考えたこともありませんでした」
コーラルは逡巡ののち答える。
「――もしそんなことがあったなら、今度は俺が捨てます」
また、コーラルがにこりと笑んだ。
「さあ、そろそろ寝ましょう。誰にも話したことがなかったので終わりどころを見失ってしまいました。アパタイト、くれぐれも悪夢を見ないように」
「……おやすみなさい」
アパタイトも今日は疲れがたまっている。布団にくるまってすぐはもぞもぞと動いていたが、やがてそれも静まった。
仰向けになったコーラルは、アパタイトの寝息を聞きながら窓の向こうの月明かりに目を細める。
「……テディも、ひどい人ですね。いつまでも甘えさせてはくれないんですから」