スピネル 後編
いつも明るい声が響いていた寮内は今、静かで空気が重たい。幼い友人たちは自分よりも背の高い人が視界に映るとびくりと足を止めるようになってしまった。それから誰かを認識して、ほっとした顔をする。
「大丈夫、大丈夫」
どくどくと心臓がいつもより速く動いている。足だって鉛のように重たい。やめろ、大人しくしていろと脳が全身に警鐘を鳴らしている。
ヒスイはそれらをすべてなだめるように、浅く息を吐いた。
「スピネル。入れてほしい。僕と、話をしよう」
添えたノックにも応答はない。広がる沈黙にごくりとのどが鳴る。ドアノブに手をかけようとしたとき、扉が開いた。
「なんだ」
カーテンも閉め切って、明かりのついていない部屋からスピネルは顔をのぞかせた。
「入れてくれる?」
ヒスイは震えを隠すように精一杯の笑顔を浮かべた。スピネルは一瞬視線を彷徨わせたが、扉をさらに開く。
それを許可だととらえ、ヒスイは部屋に足を踏み入れた。
「部屋の明かりくらいつけないと。躓いて転んでからじゃ遅いんだよ」
「躓くものなんてねぇよ」
明かりをつければ書き物机と椅子、ベッドしかない簡素な光景が広がった。ここはスピネルの部屋ではない。万が一にも危害を加えないよう周りに友人のいない部屋を用意されていた。
「なんの用だ」
スピネルはベッドに腰を下ろし、ヒスイを見上げた。だというのに、まるで見下げられているような感覚を覚える。
「謝りにきたんだ。叩いてごめん」
スピネルの頬は赤くなっても腫れてもいない。スピネルが頑丈なのかヒスイが非力なのか。おそらくどっちもだ。だからスピネルにダメージなどない。
「許してくれる?」
「――」
スピネルの眉間にしわが寄っている。
「スピネル」
「出ていけ」
鋭い視線にさらされ、ヒスイののどが小さく鳴る。
「言ったじゃないか。話をしようって。僕はスピネルを叩いてしまったから謝るのは当然だけど、それ以外にも話をしたいと」
「黙れ」
話を遮られ、ヒスイは口を噤む。
「それ以上、喋るな。出ていけ。俺の前から消えろ」
「僕と話をしたいと思ったから、入れてくれたんじゃないの?」
スピネルが立ち上がり、ヒスイに近づく。ヒスイは胸ぐらを掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。
「目障りだ。消えろって言っただろ。殴られたくなくなきゃ今すぐ」
「殴ればいいよ」
きっと、この声の震えもスピネルは感じ取っている。
「それでおあいこ、でしょ?」
視界の端にスピネルがぎゅっと拳を握ったのが映る。痛みを覚悟して、けれど目は瞑らない。絶対にそらさない。
「うっ」
舌打ちが聞こえ、後ろに突き飛ばされる。いつもだったら問答無用で殴りかかってきていたはずなのに。
アパタイトのときだってそうだ。自分で殴ったくせに、意識のないアパタイトを担いでセオドアに助けを求めていた。そんなこと、前はしなかったはずなのに。
「――痛みを、思い出した?」
スピネルの眉がぴくりと動いた。少しずつ、苛立ちや怒りが蓄積されていっているのが目に見える。
「スピネルは覚えているはずだよ。忘れるはずもない。痛みや苦しさはどれだけ離れようとしてもまとわりついてくる。君だって」
「うるせぇ! 黙れ、なにも言うな!」
腹から出された声が鼓膜を打つ。びりびりと空気が震えたような錯覚すら覚える。
「お前の話なんて、聞きたくねぇ」
「だったら殴ってでも黙らせればいい。スピネルはそれが得意でしょ? ……ここではそれしか、してこなかったじゃないか」
「なん、だ……なんなんだ」
スピネルは頭を押さえ、「やめろ」と口のなかで何度も繰り返す。それでも手を出そうとはしてこない。
その姿を見て、ヒスイは自分の震えが治まっていることに気づいた。心臓もいつも通り、いや、いつもより静かな気すらする。こうして俯瞰できるくらいには、冷静だ。
「なにが、そんなにいやなの。なにをやめてほしいの。スピネルはいつだって口よりも手が先に動いているね。僕も、友人たちも、それがいやだったよ。やめてほしかったよ。なのにスピネルは」
「やめろって言ってるだろうが! なんなんだよ、お前のその喋り方……表情も態度も、あの野郎にそっくりだ。セオドアのまねなんかしやがって気持ち悪ぃ……吐き気がする反吐が出る虫唾が走る!」
息が切れたスピネルの肩が大きく上下する。
――僕が?
ヒスイは目を瞬かせた。
「テディと、そっくり?」
そんなこと思ったこともなかった。言われた今でも、似ても似つかないと思っている。スピネルはなにを言っているのか。
「自覚がねぇのか? そりゃあそうか。自覚があったらそんな滑稽なまねできねぇよな。どれだけ取り繕おうとお前はあいつにはなれやしねぇ。かわいそうなやつ」
「僕はテディになりたいわけじゃない。なろうとも思っていないよ」
そもそもなれるわけがない。心の持ちようが根本から違うのだから。
「どうしてスピネルは、テディがいやなの?」
ここにいる友人たちはみな、セオドア・グリフィスという男に救われている。明日を生きられるかもわからなかった自分たちに、さらに先の未来を示してくれた。安全な家もおいしいご飯も暖かい布団も、惜しみなく与えてくれる。
だというのになにがそんなに気に食わないのか。生きたいと強く願い、その手を取った一人だというのに。ヒスイには理解できない。
「テディのおかげで僕たちは今を生きられるのに」
「おかげ……?」
ぼそりとスピネルが反芻する。
「そうだよ。テディがいなかったら僕たちは」
「あいつのせいで、俺は生きてるんじゃねぇか!」
ヒスイはびくりと肩を震わせた。
「ああ、そうだ。あいつがいなかったら俺は今、死んでたはずだ。こんな場所にはいなかった……あの日、死ねてたんだ」
スピネルが頭をかきむしり、はらはらと焦げ茶の髪が床へと落ちる。とても苦しそうな顔をして。
ヒスイは声をかけなければと思ったが、うまく言葉が浮かばない。開けた口をまた、閉ざした。
スピネルの荒い息遣いだけが部屋に響く。
「その……つまり、スピネルは……死にたい、の?」
しどろもどろになりながらもヒスイは問いかける。
「な、なんで? ずっと死にたかったってこと? どういうことか、説明してよ。死ねていたって……僕、わからないよ」
ヒスイはスピネルの肩を掴んだ。軽く揺さぶって、返事を求める。
「お前に、俺の気持ちがわかるかよ。誰にも、わからねぇ」
「だかっ、だから! っ……スピネルはいつも言葉が足りない! 言わなきゃ伝わらないし、わかってもらえないんだよ!? 言葉じゃなくて拳に頼ってばかりのスピネルのことなんか、わかるもんか! 言ってよ!」
ヒスイは勢いよく頭を振り、スピネルの無防備な額に頭突きをかます。
――痛い!
スピネルも痛みに悶えたのか、背中をのけぞらせた。
――でも、スピネルも痛いよね?
死にたい人がいるなんて、考えたこともなかった。ただ生きていられるだけで幸せだとヒスイは思っている。生きていればおいしいものが食べられる。友人と話ができたり遊んだりもできる。
たしかに辛いこともあるけど楽しいことだってたくさんあるから、ヒスイは「死にたい」など考えたことがなかった。
「俺には、闘技しかなかった」
すべてをすくいとるにはあまりにも短い。
「おれ、は……あの日」
しかしヒスイは理解したくて、しなければならなくて。何度もうなずき、続きを待った。
「ま……」
ぎり、とスピネルが強く唇を噛んだ。じわりと血がにじみ、顎へと垂れる。
「……まけたんだ」
掠れ、吐息のような声。
「生きてる意味がもう、ねぇ……のに、み……みじ、めで」
ヒスイはスピネルの境遇を大まかにしか知らない。ここに来るまでは闘技場にいて、勝ち続けていたけど負けてしまって怪我を負い、そこをセオドアに拾われたと。
そこにスピネルの心情を考える余地などなかった。だってスピネルはいつでも暴力的で、できれば近寄りたくない存在だったのだから。
話の通じない暴君。だから話しても仕方がないと。
――やっと、やっと。
すとんと、腑に落ちた。
「スピネルは、ここにいたいんだね」
「……は、ぁ?」
スピネルはわけがわからないと顔を歪める。
「本当にいやだったのなら、スピネルはとっくにここを出ていっていたはずだよ。だってスピネルは一人で生きていけるんだから。生きてきたんだから。なのに寮を、テディのもとから離れなかったのは……ここを居場所だとスピネルが思っているからだと僕は思うよ」
ヒスイはゆっくりとスピネルの肩から手を離す。
「新しい居場所を、スピネルは失いたくないんだよ。でも、よく思い出して。誰か一人でもスピネルの居場所を奪おうとした? 危害を加えようとした? もしそう感じていたのなら、自分の言動が原因じゃないか今一度、考えてほしい」
スピネルはなにも言わず、どこか一点をじっと見つめている。
「ねえ、スピネル」
いろいろな感情がないまぜになったスピネルがこちらを向く。
「スピネルは痛みを知っているね。スピネルの周りは頑丈な人が多かったかもしれないけど、ここにいる友人たちは違う。まだ小さくて、衝撃に弱い子たちばかりなんだよ。スピネルが力いっぱいに殴りでもしたら、それこそ死んでしまうかもしれないほどに」
諭すような口調で続けていたヒスイだったが、言葉に剣呑さを持たせる。
「アパタイトは運がよかっただけだ」
突きつけるように、端的に事実を述べる。
もしアパタイトが命を落としでもしていたなら、ヒスイはこうしてスピネルと対話などしなかった。さっさと追い出してほしいとセオドアに懇願していただろう。
「痛みを知っているはずのスピネルが、どうしてそれを友人たちに向けてしまうの?」
これだけは答えてもらわないとヒスイの腹の虫がおさまらない。言葉に出すことで、きっとスピネルのなかでも整理できるはずだ。ああも素直に話してくれたのだから。
葛藤しているスピネルに気づかれないよう、ヒスイは静かに浅く息をつく。
――スピネルもまだ、迷子の子どもだ。
スピネルは闘技に生きて、生かされてきた。体格も武術も優れており、それは天性の才覚でもある。それを振るう場所を、間違えてしまっただけなのだ。
「怖いから?」
スピネルはばっと顔を上げる。なにかを言おうとして、結局は口を閉じた。
ヒスイはその様子にほっとする。スピネルにも怖いものがあって、弱い部分がある。それは自分となんら変わりない。話の通じない暴君でも手のつけられない猛獣でもなかった。
「すぐに答えは出ないかもしれないね。うん、それでもいいかも。それがスピネルの答えだと思うから。でも、これだけは覚えていて」
ヒスイはまっすぐにスピネルの目を見つめた。茶色の目の奥がたしかに揺れている。
「ここでは、誰もスピネルを笑わない。スピネルの腕っぷしが強いことはみんながわかっているよ。周りを威圧しなくても、暴力で押さえつけなくても、誰もスピネルからなにかを奪おうだなんて思っていないよ。むしろ逆効果だ」
セオドアは忙しい人だ。一人一人に面と向かって話をしてはくれるが、話す気のない相手との対話は放棄してしまう。取り合おうと錯誤する時間も惜しいから。
だから、スピネルに大切なことを教えてくれる人は誰もいなかった。安心させる言葉をかけてはやれなかった。
「まずはテディに許してもらうんだ。うまく自分の気持ちを伝えられなかったら、僕が話してあげる。それからアパタイトを含め、怖がらせてしまった友人たちに謝るんだ。できる?」
すっかり大人しくなったスピネルはもう怖くない。突然殴りかかられる可能性もなくはないが、ひとまずは信じていいだろう。信じることにした。
「大丈夫。僕がこうして手を握ってあげるから。これならふいに拳が出ることもないでしょ? あ、でも僕はスピネルよりも力がないから僕も一緒になって殴っちゃうかも……そうしたらやっぱり僕はあの人たちみたいになってしまってそれでテディにも失望されて」
「うるせぇ」
悪態をつかれるが、つないだ手を振り払われはしなかった。
「――」
勇気を出して立ち向かって、本当によかったとヒスイは胸を撫でおろす。ようやくスピネルと同等の立場までやってこられた。いや、降りてきてもらったというほうが正しいだろうか。
「あれ、テディがいない」
セオドアの執務室への道中、何人もの友人たちに驚かれ、遠くから様子をうかがわれた。その度にスピネルは居心地が悪そうにしていた。けれどそれも当然の報いである。
そうしてやっと辿り着いたのに、当のセオドアがいない。周りにいた友人たちに聞いたが、出かけたわけではないということだけはわかった。
「もしかしたら、アパタイトのところかも」
ヒスイは踵を返す。スピネルの足が止まるが、軽く手を引くとついてきてくれた。見た目に反して、素直なスピネルはまだまだ子どもだと改めて感じた。
◇◇◇
アパタイトは自室のベッドで目を覚ました。倦怠感があり、体を起こすのに時間がかかる。
部屋が暗いため夜かと思ったが、ただカーテンが閉められているだけだった。天頂は越してはいるものの、まだ太陽は高い位置にある。
思考を整理してからカーテンを開け、光を取り込んでいると扉がそっと開いた。顔を向ければセオドアと目が合った。
「目が覚めたんだね。なにが起きたか覚えているかい?」
「はい」
意識を失う寸前の記憶がありありと思い浮かぶ。気絶する直前、スピネルがなにを言っていたかまでは覚えていないが。
「息ができなくて、とても苦しかったです」
セオドアは申し訳なさそうな、悲しそうな顔をした。
「すまない」
「どうしてテディが謝るんですか?」
「アパタイトが痛くて苦しい思いをしたのは、私のせいだ」
アパタイトは首を横に振る。
「僕はテディに殴られたわけでも首を絞められたわけでもありません。それに僕が、余計なことを言ったからスピネルが怒っただけです」
「余計なこと?」
「テディが話してくれたスピネルの過去についてです。スピネルは負けを認めていませんでした。けれど僕が……スピネルは負けたのだと遠回しですが、言ってしまいました」
セオドアはぽかんとしたあと、小さく息を吐いた。
「アパタイトはもう少し、怒っていいと私は思う」
顔を伏せるセオドアにアパタイトは首を傾げる。
「エイヴァちゃんに水をかけられたときだって、ペリドットにばかにされたときだって、スピネルに暴力を振るわれたときだって。怒っていいんだ。君には感情をぶつける権利がある」
「いやなことはいやだと言っています」
アパタイトの答えに、セオドアは諦めたように笑みをこぼした。
「……それなら、私からはもうなにも言わないよ。腕を貸してくれるかい? 念のため脈を診よう」
アパタイトの手首にセオドアの親指が添えられる。アパタイトにはわからないが、セオドアの指には脈動が伝わっているのだろう。
小さくうなずいたセオドアからは「異常なし」ということが見てとれた。
「スピネルはどうなりましたか?」
「スピネルなら友人たちと隔離している。と言っても、寮内にいることは変わりなく、空き部屋に移動してもらっているよ。気になるかい?」
アパタイトは肯定も否定もしない。
「アパタイトは、スピネルのことをどう思う? 怖いかい?」
「僕よりも背が高くて体も大きくて力も強いので、怖いと思います」
でも、とアパタイトは言いよどむ。
「テディ、内緒にしてくれますか?」
「ああ、もちろん」
「僕は、コーラルのほうが怖いです」
セオドアがわずかに目を見張る。
「スピネルを、恨んでいないかい?」
「恨んでいません。スピネルは僕からなにも奪っていませんから」
「……ありがとう」
セオドアに抱きしめられる。全身に人の熱がじんわりと広がった。背中に手を回そうと浮いた手が止まる。
「君が来てくれて、本当によかった。ありがとう。ありがとう、アパタイト」
セオドアの声は静かに震えていた。苦しいほどに抱きしめられているのに、いやな気はしない。
「え、なっ、なにしているの!? 痛いっ」
ふいに廊下から声が聞こえた。
「ヒスイの声です」
「私が扉を開けよう」
扉の向こうには、ヒスイと手をつないだまま自分の頬を殴っているスピネルがいた。手を離せないでいるヒスイは阿鼻叫喚だ。
「ヒスイと、スピネル……? どうして」
「テディ、聞いてほしいことがあるんだ」
ほら、とヒスイがスピネルをうながす。
「わ……」
ぱくぱくとスピネルの口が動く。
「わ、わる……かった」
スピネルはぎゅっと目を瞑り、体を強張らせた。
「テディ、スピネルはずっと不安だったんだよ。暴力はいけないことだけど、あと一度だけスピネルにチャンスを与えてほしい。お願い。せめてスピネルが答えを見つけられるまで、ここにいさせてあげてほしい」
セオドアが膝をつき、スピネルよりも目線を下にする。セオドアがスピネルの片手をとったのを見て、ヒスイはつないでいた手を離した。
二人の横を通り抜け、ヒスイはアパタイトのもとにやってくる。
「よかった。目が覚めたんだね」
「はい」
「その……さっき、少しだけ、話を聞いちゃったんだ」
「話?」
ヒスイはばつが悪そうにしながらもうなずいた。
「テディとアパタイトが話しているのを。スピネルのことを恨んでいないって。それを聞いて僕、安心したんだ。アパタイトはスピネルのことを許してくれるかもしれないって」
「僕は怒っていません」
「余計なことをしてしまっているんじゃないかって怖かったんだけど、アパタイトがそう言ってくれてよかった。でも、スピネルにはちゃんと謝ってもらわなきゃ」
「わかりました」
セオドアとスピネルの話も終わったようだ。背中をさすられながら、スピネルがこちらに寄ってくる。
殺気も威圧的な態度も感じられない。見た目は同じなのに、まるで別人のようにしおらしくなっていた。
「殴って、悪かった」
「僕はこうして生きていますから、気にしていません。それに僕も、きっとスピネルにとってひどいことを言ってしまったんだと思います。すみませんでした」
スピネルがうろたえ、あとずさろうとする。が、セオドアが添えた手によってそれも阻まれる。
謝ることも謝られることも、スピネルには慣れないことらしく、むずがゆそうにしている。
「それでも、スピネルが今まで友人たちを怯えさせていた事実は消えない。君を怖いと遠ざける子たちもいるだろう。これから、償っていこう」
セオドアの言葉にこくりと一つ、スピネルは首を振った。
翌日からスピネルは自室へと戻っていた。友人たちにはセオドアから説明があったが、それでも受け入れられないものもいる。
これまでにスピネルは何度も暴力沙汰を起こし、謹慎させられていたのだから当然だ。
「僕がいるから、大丈夫だよ」
ヒスイは穏やかにスピネルを励ます。隣に立って、害はないと周りに知らしめるためだ。連れ出したヒスイには、その責任がある。
実のところ、寮内でスピネルをもっとも怖がり、おそれていたのはヒスイだ。年上だから、年長だからと頼ってしまうが、いつも無理をしていてくれたと友人たちは知っていた。
だからこそ、あのスピネルの隣にヒスイがいることに、友人たちは動揺を隠せない。それと同時に、安堵も広がりはじめていた。
ヒスイが傍にいるようなって、スピネルは暴力を振るわなくなった。むやみやたらに脅すようなこともしない。
「アパタイト」
そんな様子を遠くから眺めていたアパタイトは、小さな友人から声がかけられた。
「ヒスイ、とられちゃったの?」
小さな友人がくすくすと笑っている。
「ヒスイは僕のものじゃありません」
「そんなこと言って! 寂しいくせに」
「……」
再びアパタイトはヒスイたちに顔を向ける。あの日からスピネルはヒスイと一緒に過ごすようになっていた。
というより、スピネルがヒスイにべったりだった。ヒスイも拒絶することはないため、自然と二人で行動することが多くなっている。
「ほら、寂しいんだ」
む、とアパタイトは口を結ぶ。
「スピネルはヒスイといるときが一番穏やかです。それはみんなにとってもいいことではないですか?」
否定しないアパタイトに友人はころころと笑う。
きっとこれは負け惜しみなのだと思う。アパタイトの初めての友人がヒスイだったから。
ヒスイは誰とでも仲良くなれる人だ。対してアパタイトは違う。アパタイトは感情の起伏が少ないため、とっつきにくいと思われることが多い。誰だって、喜びや悲しみを一緒に分かち合ってくれる人のほうがいいに決まっている。
「ヒスイは、お人好しすぎるの」
「僕もそう思います」
「アパタイトもよ」
顔を向ければ、友人はすでに背を向け、ワンピースの裾を翻していた。
「少しくらい、わがままになってもいいのに」
あの小さな友人はまだ十歳にも満たないだろうに、お姉さん然としている。もしかしたら背伸びして、誰かのまねをしているのかもしれない。
「わがままに……」
アパタイトはぼそりと言う。
わがままといって真っ先に思い浮かぶのはペリドットだ。あとはエイヴァくらいだろうか。しかし、あのように振舞う自分を想像できず、アパタイトはふるふると首を振った。
無理を通して願いたいことも思いつかない。脳裏の片隅にぱっと病床に眠る母が映るが、それもすぐに消えた。
ヒスイとスピネルを最後に見て、アパタイトをその場をあとにする。
今、スピネルは大事な時期だろう。だから邪魔してはいけないと思ったから、二人の間に割って入ることもアパタイトにはできなかった。