スピネル 前編
夢を見た。それも、もう眠りたくないと思うほどの悪夢を。
そこでは手足を動かせばものを投げられる。目を合わせれば殴られる。呼吸をすれば首を絞められる。
生きていれば、殺されかける。
存在は蔑ろにされ、人生を否定され、傷つくことを喜ばれ、死にいたるほど苦しむことを望まれた。
「はっ……おぇ、はあ、はあ……っ」
ヒスイは目を覚ますと同時、目に痛みを覚えた。額に浮かんでいた汗が目に入ったのだ。なんだか胸も苦しい。とてもいやな夢を見ていたような気がするが、具体的には思い出せない。
心に異物があるような感覚だけが残っている。
壁に飾っているアイリスの絵が目に入り、ヒスイは安堵の息をもらした。先日、プログラムから帰ってきたアパタイトからもらったものだ。セオドアに頼み、買ってもらった額縁に入れている。
「花に、水をあげないと」
まばらに雲が流れている青空、ほどよく吹く風が気持ちいい。ヒスイはじょうろに水を入れ、成長をたしかめながら花壇に水をやる。
「ん? 珍しい」
まだ朝だというのに友人たちが外に出てきていた。表情も暗く、焦っているようなものもいる。
「あ、ヒスイ!」
まだ十歳そこらの少年少女たちが駆けよってくる。いやな予感がした。
「どうしたの? みんな。そんな怖い顔しちゃって。あ、もしかして変な虫が出たとか? だめだめ。僕は虫が苦手なんだ。嫌いじゃないんだけどね、苦手なんだよ。ああ、僕が虫とも仲良くできたらみんなの力に」
「違うよヒスイ、虫じゃない。勝手に話を進めないで」
「……ごめん」
年下に怒られ、ヒスイはしゅんと眉を下げる。
「そう、虫じゃないの! 帰ってきたの!」
「帰ってきた?」
ヒスイも寮に住んでいる全員と交流があるわけではない。頭一つくらい抜けているとしたらアパタイトとペリドットくらいだが、その二人もすでに帰ってきている。
「もしかして、コーラルが帰ってきたの? おかしいな、コーラルはみんなに意地悪はしないと思うけど……」
あと思い当たるのはコーラルくらいだった。しかし、コーラルはエイヴァにちょっかいをかけるだけで友人に意地悪はしない。むしろ怖いほど優しいくらいだ。友人たちがおそれるような存在ではないだろう。
「違う、違うの」
今にも泣きそうな少女が首をぶんぶんと横に振る。
「んー、誰だろう? 僕にもわかるように教えてくれる?」
地面に膝をつき、友人たちと目線を合わせる。
「スピネルが……スピネルが帰ってきたんだ!」
どくん、と心臓が一際強く波打ったのを感じた。呼吸を忘れてしまうほどに、スピネルという人物の容姿や声が脳裏に浮かび上がる。
「ヒスイ、息して!」
友人たちに胸ぐらを掴まれて揺らされる。我に返ったのと同時、複数の悲鳴がどこからか響いた。恐怖する友人たちを置いて、ヒスイはじょうろを投げ出して寮内へと戻る。
走っているからではない。尋常ではないほどにどくどくと脈打つこの心臓が、なにを危惧しているのか。
ヒスイはわかっている。
「あっ」
角の向こうから走ってきた友人とぶつかり、ヒスイの足が止まる。尻もちをついた友人に謝り、手を差し伸べるヒスイの目の端にその人が映る。
「なんだ、喧嘩か?」
ざっくばらんな焦げ茶色の髪。その前髪からうかがえる茶色の目はぱっちりとしていて、鼻も高くはっきりとした顔立ちの少年。
肘までまくられたシャツからは筋肉質な腕が伸び、寮内で一、二を争うほどガタイがいい。まだ十六歳だというのに、コーラルとは違った意味で大人に間違えられそうな見た目をしている。
「なに、しているんだ……スピネル」
そんなスピネルは、嗚咽をもらす友人の胸ぐらを掴んでいた。先ほどヒスイの意識を戻すために実行されたような優しいものではない。
掴まれている友人はなんとか爪先を床につけているが、ほぼ浮いている状態だ。
「そんな怖い顔するなよ」
ぱっと手を離したスピネルの足元に友人がどさりと落ちる。そしてそのまま這うようにして友人は逃げていった。
みんな避難したようで、その場に残されたのはヒスイとスピネルだけだ。
「久しぶりに会えたんだ。再会を喜ぼうぜ」
スピネルがヒスイの肩に手を回す。
「うっ」
殴るというには弱く、小突くというには強い力でヒスイの腹に拳が当てられる。
近くで見なければ気づかなかったが、スピネルの肌には傷が多かった。それらは古いものがほとんどで、もう消えることのないだろう傷だとわかる。
「スピネル」
穏やかな声が耳に届く。重い腕から抜けたヒスイの目にセオドアが映る。ヒスイは無意識のうちにほっと息をついていた。
「この騒ぎを、説明してくれるかな?」
セオドアの背中には幼い友人が数人、ひっついていた。ヒスイもなにがあったかは知らないが、騒ぎを収めるためにセオドアを呼びに行ってくれた友人がいたのだろう。
「反省はしてくれなかったのかな。まだ謹慎が必要かな?」
「冗談だろ。俺はただ、失礼極まりないガキを躾けてやろうと思っただけだ」
「誰かが君に失礼なことを言ったりしたりしたのかい?」
「俺を笑いやがった」
セオドアは悲しげに眉を下げた。
「そうか。いやな思いをしたんだね。けれど暴力はだめだ。痛い思いも怖い思いも、ここでは不必要だ」
「暴力じゃねえ。躾だ」
「君たちを導くのは私の役目だから」
「あー、あー! うるせえな。気ぃつければいいんだろ」
セオドアの言葉を最後まで聞かず、スピネルはどこかへ行ってしまった。
「ヒスイ、大丈夫かい? 顔が真っ青だ。手も……こんなに冷たい。震えているね」
「ぁ……」
「大丈夫かい? 友人たちの前に出てくれてありがとう。謹慎期間中に反省して態度を改めてくれないかと思ったけど……やはりまだ難しいね。兄さんにエイヴァちゃんをしばらく来させないように言っておかないと……っと、そうだ。アパタイトが探していたよ」
「あ、うん」
ぱたぱたとアパタイトの部屋に向かうヒスイの背中を、セオドアは見えなくなるまで目で追った。
手のひらにはまだ、ヒスイの手の冷たさが残っていた。
◇◇◇
「お前か? アパタイトっていうのは」
「はい。アパタイトは僕です」
アパタイトは廊下の真ん中に立ち、行く手を阻害している人物からの問いかけに答えた。見たことない顔だ。
「申し訳ありませんが、道を開けてもらえますか? 授業に遅れてしまうので」
「はっ! なんで俺がお前の指図を受けなきゃならねえんだ?」
「指図ではありません。お願いで――」
次の瞬間、アパタイトは床に倒れ込んでいた。衝撃が脳を揺らし、遅れて頬が熱と痛みを帯びはじめた。
さらに、つう、と鼻の奥から液体が流れてくる。それは鼻水ではなく鼻血だということに液体が唇に触れたときに気づいた。思わず舐めてしまい、鉄のような味が口の中に広がる。
「新入りが口答えしてんじゃねぇ」
「……あなたは、誰ですか」
アパタイトは床に血を落とさないように手の甲で鼻を押さえた。だが、出血量が多く、ぽたぽたと床に赤い染みができてしまう。
「俺か? 俺はスピネルだ。この場所で俺が一番強い。だから俺が一番偉い。わかったか? 弱いやつは強いやつに従うのが道理だ。こうしてわざわざお前に挨拶しに来てやったんだ。お前が俺の下だってわかってもらうためにな」
まだ頭がぐらぐらしているアパタイトの前にスピネルがしゃがむ。
いやな顔だ、とアパタイトは思う。顔の造形のことではない。人を見下し、道具としか思っていないような、アパタイトの記憶に残り続けている残酷な大人がしていた顔とよく似ている。ここに来る前の日々が思い出されて、もっといやな気持ちになる。
「おい、どこ行くんだお前」
力を振りしぼり、ふらつく足をなんとか動かす。
「テディのところです」
ぐいっと肩を掴まれ、振り向かされる。口元を血でぬらし、けれど色のない表情で見返され、スピネルはびくりとたじろいだ。
「失礼します」
アパタイトは両手で器を作り、少しでも血が垂れないようにセオドアの執務室へと向かった。それまでに数人とすれ違い、全員に悲鳴を上げられた。
ノックをしようとし、気づく。手は血まみれだ。これでは扉にも血がついてしまう。
「テディ、テディ。開けてください」
「アパタイトかい? どうし――っ!?」
セオドアはアパタイトと目が合うとぽかんとし、少し間を開けて目を白黒させた。
「な、ど、どうしたんだい、アパタイト!? い、いやそれよりもまず血を止めないと」
アパタイトに座るようにうながし、ほどなくしてセオドアは救急箱とタオルを手に戻ってきた。血をふきとり、鼻のなかに残っている血を出すことに専念する。
「なにがあったのか教えてくれるかい?」
「スピネルが廊下に立ち、進路をふさいでいました。通してくれるようお願いしたら頬をぶたれて、倒れてしまいました。ああ、たぶん……廊下の床にも、血が。掃除しないと」
「掃除なんて、それより見せてごらん。本当だ、頬も赤くなっているね」
冷やすための氷がないため、とりあえずぬらしたタオルで冷やすことにした。
「そうか、スピネルが……困ったな。スピネルは今どこに?」
「わかりません」
沈黙のあと、セオドアはスピネルについて話しはじめた。
スピネルが寮にやってきたのは六年前のことだ。
雨が降りしきっていた日、打ち捨てられるように倒れていたスピネルをセオドアが連れ帰り、看病した。
やがて目を覚ましたスピネルにセオドアは頬を殴りつけられたが、話せば少しはわかってくれたらしい。身の上を打ち明けてくれたそうだ。
スピネルは物心ついたときにはもう賭博闘技場にいたという。有無を言わさずリングに上げられ、自分よりも屈強な人たちのなかに放り込まれ、殺し合いをさせられた。そんな場所でスピネルは十歳になるまで生き残っていた。
しかし、誰しもに潮時はやってくる。勝ち続けるスピネルを快く思わないものたちにはめられ、スピネルはついにリング上で伏してしまった。結果、大怪我を負ったスピネルに治療費など出してもらえず、捨てられたそうだ。
「体中傷だらけでね。正直、助けたとしても短い命だと思った」
しかし、スピネルの身体は丈夫だった。数年もの間、闘いに明け暮れ、練磨してきたからか、スピネルは驚異的な回復力を持っていた。一週間もしないうちにはけろりとしていたくらいだ。
「けれど、体が回復しようと心の傷は残り続ける。スピネルは自分を強く見せることによって今の安寧を守ろうとしてしまうんだ。二度と脅かされないように、誰の上にも立とうとしてしまう。私を含めて、ね」
セオドアに拾われてからの六年間、スピネルは何度も暴力沙汰を起こし、その度に謹慎していた。
謹慎とは寮を、友人から離れて別の場所で暮らすことだそうだ。その間、教育者を呼んで更生させるための授業を受けるのだとか。
「スピネルはまた謹慎するんですか?」
「こうも騒ぎを起こし続ければ、友人たちは安心してここに住むことができない。以前から考えていたんだが、スピネルは別の場所で過ごしてもらうことにしようと思っているよ。きっと、彼もそのほうがいい。機嫌がいいときは、こうも問題を起こすこともないんだけどね……」
たしかに、ここ数日の寮内はどこかそわそわしていた。その原因にアパタイトは今日ようやく出会ったわけだが。
「教えてくれてありがとうございます。それでは血も出なくなったので、僕は授業に行きます」
「休んでもいいんだよ」
「ヒスイが待っていると思うので、行きます」
「そうか。時間が経っても痛むようならすぐに言ってくれ。ああ、まずは服を着替えるといい。血がついてしまっているから……友人たちも驚いてしまう」
アパタイトが部屋を出るとすぐそこに今にも泣きそうなヒスイが立っていた。目が合うとヒスイは安堵に目を細め、それから気まずそうに顔をそらした。
「みんなが話しているのを聞いて、来たんだ。アパタイトが、血だらけで、死にそうだって……」
「鼻血が出ただけで、死にそうにはなってないです」
「なにがあったの?」
「スピネルに頬を殴られました」
アパタイトとヒスイは遅れながらも授業に向かうことにした。その間になにが起きたかをヒスイに話す。
ヒスイの顔がどんどん青ざめていった。
「そ、か。そんなことが……あったんだね。本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫です」
それから数日、アパタイトはスピネルに会うことなく平穏な日常を過ごしていた。ヒスイもスピネルを避けているようで絡まれている様子はない。
ただ、毎日どこかしらで泣き声が聞こえる。直接的な被害を受けずとも、スピネルへの恐怖は着実と友人たちへ伝播しているようだった。
「あ」
ある晴れ晴れとした昼下がり、アパタイトは練武場でスピネルを見かけた。
真剣な表情で、人型に模された土袋に絶え間なく打撃を与えている。数発当たれば袋は破れ、ざらざらと土がこぼれ落ちる。そうなれば次の土袋に移動し、また拳や足を繰り出していた。
ふいにスピネルがこちらを向いた。
――野生動物みたいな人だ。
汗と混じった泥だらけの手でさらに汗を拭い、顔を汚しながらスピネルはずんずんと歩いてくる。表情が険しい。
「殴らないでください」
咄嗟に声が出た。
「は?」
目の前までやってきたスピネルに見下ろされる。
年齢差はおよそ一歳。けれどスピネルの身長はアパタイトより頭一つ分ほど高く、筋肉の量も体の大きさも断然違う。
先日の痛い邂逅よりもさらに圧迫感があった。
「なにしにきた」
「通りかかっただけです」
くるりと踵を返し、その場をあとにしようとするアパタイトの肩ががっしり掴まれる。
「じゃあなんで戻るんだ」
「あなたがそういうことをするからです」
「そういうこと?」
スピネルは首を傾げる。
「手を」
離してください、と言いかけ、やめる。命令するなと難癖をつけられてまた殴られてはたまらない。
どちらもなにも言わず、沈黙が流れる。が、アパタイトは肩の骨がみしみしと音を立てているような気がした。
「痛いです」
スピネルはアパタイトをじっと見下げてから手を離した。あとで手のあとが残っていないか確認してもらわないといけない。それほど痛かったのだ。
「弱ぇな」
なぜかスピネルは忌々しそうな顔をする。
問答無用で殴られることもなく、アパタイトは少し疑問に感じる。だが、すぐにその理由を思い出した。
たしかセオドアが「機嫌がいいときは問題を起こすこともない」と言っていたはずだ。機嫌を損ねないうちにどうにかして逃げるべきだろうか。
「来い」
返事をする間もなく首根っこを引っ張られる。力で勝てるわけもなく、アパタイトは黙って引きずられることにした。
「待ってろ」
土袋の前に立たされ、スピネルが隣接されている小屋に消えていく。まもなくして戻ってきたスピネルの手には木剣が握られていた。
アパタイトは一瞬思考が止まり、己の運命を受け入れる。
「構えろ」
今度は木刀で滅多打ちにされるのだと目を伏せていたアパタイトの足元に木剣が突き立てられていた。
「僕は剣を振れません」
「なんでだ」
「剣の才能がないからです」
「素手よりましだろ」
いや、まだ素手のほうがましだ。と、自分でも思う。剣の重さに耐えられず、アパタイトは相手に攻撃される前に自滅してしまうのだから。
素手ならば自分の腕に振り回されることもない。とはいえ、剣以外の武の才能があるかと言われたらそうでもないのが現実だが。
「ごちゃごちゃ言ってねぇで拾え。抵抗しねぇやつをただ殴りつけるのはつまらねぇ」
アパタイトは意を決し、地面に突き刺さる木剣を手に取った。重く堅い感触が手のひらに埋まる。それを両手で握りしめ、スピネルへ切っ先を向けた。
思っていたより、記憶にあるあのときよりも、重くない。
「――っ」
スピネルが踏み込んだのと同時、アパタイトは勢いのまま木剣を振り上げ、下ろした。
「ッ、う……ぐ」
腹の真ん中から鈍い衝撃が広がる。アパタイトの手から木剣がすり抜け、からんと地面に落ちた。
「目ぇ瞑ってたら当たるもんも当たらねぇだろうが。ふざけてんのか?」
加減をしてくれたのだろうか。それでも殴られるのは痛いことに変わりはないが、体は吹っ飛ばなかった。
「だから、言ったじゃないですか。僕は剣を振れません。できるのなら、振りたくありません」
「あ?」
スピネルの剣幕が鋭くなる。
「僕は誰かを傷つけたくありません」
アパタイトは背後の土袋に押しつけられた。首に手を置かれ、じわじわと力が強まっていく。
「なに腑抜けたこと言ってやがんだ。やらなきゃやられる。死ぬんだよ。誰も、守っちゃくれねぇ。甘えたこと言ってんじゃ――」
「スピネルは、死んで……いないじゃ、ないですか。テディ、が」
かっとスピネルの目が見開かれ、アパタイトは地面に押しつけられる。声にならない悲鳴がもれるが、首を掴まれる手のせいでそれはあまりにもか細い。
「あいつに聞いたのか」
ぎりぎりと首が絞められていく。
「俺は、負けてねぇ」
まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
「俺は誰よりも強い。どんなやつだってぶちのめしてやれる。怖いもんなんてなにもねぇ。俺は、強い」
スピネルの手首を掴み、もがくアパタイトの非力な抵抗がより弱くなる。
ぱくぱくと口を動かしているアパタイトをぼんやりと見下げながら、スピネルは頭の中で再生される声に意識を奪われていく。
脳裏にこびりつき、事あるごとに心をざわつかせる笑声に、スピネルは奥歯を噛む。
「――俺を、笑うな」
ぱたり、とアパタイトの手が落ちた。
◇◇◇
友人に手を握ってもらっても手先は冷えたまま。友人に背中をさすってもらっても呼吸は荒ぶったまま。友人に包むように抱きつかれても体は震えたままだ。
ヒスイは目を瞑りたくなった。頭の片隅に追いやっていた忘れることのできない記憶が、ほかをかきわけて前に出ようとしている。
――どうしよう、どうしよう。アパタイトが死んじゃったら、どうしよう!
ヒスイが駆けつけたときにはまだ、アパタイトはぐったりとしていた。首には指のあとがくっきりと残っていて、呼吸も浅かった。
そんな残酷なことをしておきながら、スピネルはアパタイトを乱暴に担ぎながら、どういうわけかセオドアを呼んでいた。
アパタイトが死んでしまう。もしかしてもう息をしていないのではないか。そう思ったら途端に呼吸が難しくなって、なにも考えられなくなっていって。
手も足も震えている。とても怖い。けれど、スピネルの前に立たずにはいられなかった。
「おま――ッ!?」
立ちふさがったヒスイはスピネルの頬を打った。スピネルは床に倒れ、反動でアパタイトが放り出される。
ヒスイは急いでアパタイトを抱え上げ、呆然とするスピネルをその場に残してセオドアの元へ向かった。医者を待っている間、アパタイトの看病をしてくれていた。
「ヒスイ」
びくりと肩が跳ねる。返事をしようとしたが、声が出ない。
「ヒスイ」
頬に手が添えられ、優しく撫でられる。
「怖かったね」
ヒスイは息を呑んで、小さく首を縦に振る。それから何度も、何度もうなずいた。そうしてようやく、自分が泣いていたことに気づく。
「ぼ、く……スピネル、を……たた、叩いて。ごめ、なさ……ごめんなさ、っ」
セオドアがぎゅっと抱きしめてくれる。
「これじゃあ、僕……僕っ!」
「同じじゃない」
ぽんぽんと頭も撫でてくれる。
「たしかにスピネルを叩いてしまったけれど、君を苦しめた人たちと同じではないよ。決してね。アパタイトを助けようとしてくれたんだろう?」
愁いを帯びたため息を耳元に感じた。
「私が悪かった。スピネルもいつかはわかってくれると信じていた。いや、今でも信じている。だが、それに君たちを付き合わせてはいけなかった。特にヒスイには……辛い記憶を思い出させてしまったね」
それから医者がやってきてアパタイトの容体を診てくれた。呼吸は安定しており、脈も正常だそうだ。首に残る指のあとが痛々しいが命に別状はなく、しばらくすれば目も覚めるとのことだった。
部屋に戻されたヒスイはひどく不安で、落ち着かなかった。日はまだ高いのに部屋がいやに暗く感じる。試しに部屋にある明かりという明かりをつけたが、錯覚は直らない。
「ああ、いやだ」
瞼の裏に辛い記憶が蘇り、瞬きをするたびにシャッターを切るように光景が貼りつく。ぶんぶんと頭を振ってもそれらは取り払えない。
考えないようにすればするほど、鮮明に思い出してしまう。
「大丈夫、大丈夫だ。あの人たちはもういない。帰ってこられたんだから。もう痛い思いも苦しい思いもしなくていいんだ。だから、だから……大丈夫」
じわり、と目尻がにじむ。泣き虫は卒業したつもりだったのに、気が弱くなると涙腺が緩くなってしまう。
ヒスイは布団にくるまり、蹲った。そして枕に突っ伏して小さくうなる。声を絞り出すことに意識を集中して、余計なことを考えられなくした。
息が持たなくなったとき、ヒスイはがばっと腕を伸ばす。四つん這いの状態で深く息を吐いた。
「謝らないと」
親指の背で潤んだ目元を拭う。
「それで、謝ってもらうんだ」