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ペリドット 後編

 それから三日後、アパタイトがルークの部屋を訪ねると気まずそうな顔で出迎えてくれた。窓はもう修繕されている。


 ルークは三日間、部屋から一歩も出ないよう言いわたされていた。


 引きこもっているルークにとってあまり意味がないように思えるが、本人はかなり反省しているようだ。


「悪かった。お前は怪我してないって聞いたけど、次の日寝坊させるくらい疲弊させちまったってウィリアムに聞いたよ」

「ペリドットにも目立った傷はありません。肘を擦りむいたくらいで、体は打っていないそうです」

「それも聞いた。あいつにも……謝らないと」


 ペリドットに対してはまだ思うことがあるらしい。不服だということが表情に出てしまっている。


「まあ、今はそんなことより……絵を、描きたい」

「謹慎中は描かなかったんですか?」

「俺がいたのはこの部屋じゃないからな。別の部屋だから、紙はあっても絵の具がない。ペンはあるけど、筆がいい」


 それに、とルークは言葉を続ける。


「誰かと一緒に、描きたいと思ったから。じゃあ早速、このバケツに水を汲んできてくれ。半分くらいでいいぞ」


 仕切りでわけられたバケツを持たされ、部屋を追い出される。アパタイトは急いで厨房へと向かった。


「うわ、なんだお前のそれ。鳥か?」

「花です」


 ヒスイとともに育てた花の一つ。細部は覚えてはいないが、こんな感じだったと思い出しながら頑張って描いたのに。


「見えなくもないな。まあ、いいんじゃないか? なにも目に見えるものだけを描かなくたって、現実と違うものを描いたっていいんだから」

「ルークさまは……」


 見紛うことなき夜空だ。それも満天の星空の。


「見るもんなんて外しかなかったからな。ウィリアムに言っても侯爵の命令だからって本の一冊も持ってきてくれなかったし」


 交わす会話は少数で、二人は黙々と筆を動かし続けていた。


「聞きたいことが、あります」

「なんだ? 珍しいな」

「どうしてアイリスさまは喜ばれないと思うんですか?」


 ルークは顔を下に向けたまま、絵を描き続けている。言葉足らずかと思ったが、ルークは察しがついたようだ。


「……両親のことは、知ってるよな」

「事故に遭われ、亡くなったと聞いています」


 ルークはうなずく。


「詳しい原因は知らない。聞いてないから。母さんと父さんを乗せた馬車は崖下に落ちて、全員ぺしゃんこだ。ああ、馬は生きてたんだっけ? まあ、どうでもいいな。それで、その日は……侯爵の誕生日だった」


 アイリスの誕生日を祝うため、先代侯爵と夫人はプレゼントを買いに街へ出かけた。その帰り道、なんらかの原因で馬が興奮し、御者にも制御できなくなったそうだ。


 小石に乗り上げた衝撃で。野生動物に驚いて。どれだけ考えても答えを知っているものはいない。究明できたところで、死んだ人間は戻ってもこないのだから。


「母さんと父さんが死んでから、侯爵は変わったんだ。お前みたいに感情が表に出なくなった。まるで痛みなんて感じないみたいに。だから父さんと母さんの死を悲しんでない、寂しくないんだって。そう思った」


 うつむいているルークの表情は見えないが、声は震えていた。


「でも、違った。そうじゃなかった」


 ぽた、と絵の具がにじむ。


「俺を心配させないよう、なんてことないふりをしてただけだった。父さんと母さんを呼んで、姉さんは……泣いてた。ずっと、ひとり……で」


 筆を握っていた手に力が込められ、涙と混じって絵の具がぐしゃりと紙に広がる。


「俺、が……俺が、悪いんだ。父さんと母さんが出かける前、本がほしいって頼まなければ……っ、帰りは遅くならなくて、父さんと母さんが死ぬこともなかったかもしれない! 恨まれて、嫌われて当然だ」


 ルークは嗚咽を噛み殺すが、あふれて止まらない。


「――」


 アパタイトはアイリスからの依頼で侯爵家にルークの友人となりに来た。だからアイリスがルークを恨んだり嫌ったりなどしていないことを知っている。


 それをルークに伝えられない歯がゆさにアパタイトは苦しくなる。


「アイリスさまが、そう言ったんですか?」

「は……?」

「アイリスさまがルークさまに嫌いだと言ったんですか?」

「言われてない、けど」


 ルークは言葉を詰まらせる。


「じゃあ、聞きに行きましょう」

「は!?」


 ルークは面食らう。


「だから、ねえさ……侯爵は俺なんか」

「なら、花を渡しましょう」

「は、花?」


 アパタイトはごそごそとポケットに手を入れる。


「なんだ、それ? 栞?」

「はい。僕の友人が持たせてくれた押し花の栞です。ヒスイが言っていました。言葉にすると気恥ずかしいことは、花と一緒ならきっとすんなり渡せるよって」


 情報が追いつかず、ルークの思考が数秒止まる。涙もすっかり止まっていた。


「花を持って、あなたは俺のことが嫌いですかって聞きに行けって? おかしいだろ。ふざけてんのか?」


 いたって本気だったのだが真正面から否定され、アパタイトはしゅんとする。


「まあ、でも……花か」

「なにか言いましたか?」

「俺も、知りたくないわけじゃない」


 ぐ、とルークは拳を握る。


「直接聞くのは、怖い。でも俺もいい加減、前に進まなきゃ。でないといつか、姉さんには一生、追いつけなくなっちまう」


 ルークは手の甲で乱暴に目元を拭った。


「明日、花を渡すよ。手伝ってくれ」


 にっと笑ったルークに、アパタイトは力強くうなずいた。


 翌日、ルークとアパタイトは屋敷を抜け出した。メイドと執事の目に入らぬようこっそりと。


 何度かひやっとする場面もあったが、人の少ない侯爵邸から出るのはそう難しくはなかった。


「どこへ行くんですか?」

「この時期なら、咲いてるはずだ」


 丘を下り、麓の森林のなかを進んでいく。道なんてものはなく、草を、茂みをかきわけていくルークをアパタイトは必死に追いかける。


「あ!」


 ルークの足取りがより速くなる。


「あった」


 川が流れ、川辺には紫色のなにかがあった。


「これは……?」


 あった、と言うからには花なのだろうが、アパタイトの知る花とは少し花弁の形状が違う。


「アイリスだ」


 侯爵と同じ名前の、花。


「アイリスっていうのは総称らしいけど、湿地に咲くものがあるって母さんとここに植えたんだ。花が咲いたら姉さんと父さんもつれて、見にこようって約束してたけど」


 その約束が果たされることはなかった。


「何本摘めばいいですか?」

「ばか。なんのために画材を持ってきたと思ってんだ。それに理由もないのにあんな近道を通るわけないだろ」


 つまり、ほかに歩きやすい道があったということだが、絵を描く時間を考慮して移動を短縮させたということだ。


「根っこごと持ち帰るならいいけど、それはできないから。絵にするんだ」


 川の水をバケツにすくい、パレットに絵の具を出して、筆に乗せる。少しずつ、白い画用紙が彩られていく。


「侯爵と話したか?」

「なにをですか?」


 アパタイトは顔を上げる。


 ルークは話しながら筆を動かすことができるが、アパタイトは同時にできない。そのため筆を置いた。


「……俺のこと」

「いつのことですか?」

「だから! ……っ、わかるだろ!?」


 勢いよく顔を上げたルークと目が合う。


「わかりません。僕は何度かアイリスさまと話をしています。いつ、どのときのことかを言ってもらわないと、わかりません」

「三日前にあんなことしたのに、それ以外のことがあるかよ。普通わかるだろ」

「わかりません」


 断固としてゆずらないアパタイトに、ルークの苛立ちが増していく。


「お前」

「言葉にしないと、伝わらないこともあります。ルークさまの普通と僕の普通は違います。ルークさまは言葉がなくても察することができるかもしれませんが、僕はほかの人がなにを考えているかなどわかりません。だからこそ言葉としてほしいんです。僕が、理解できるように」


 ルークはばつの悪そうな顔をして、奥歯を噛んだ。


「お前はなんでも正直に話すから、調子が狂う」

「僕は思ったことを言ってるだけです」

「それが正直だって言ってんだよ。少しは隠せ。嘘とかついたことあんのか?」

「あります」


 つい最近、三日前に嘘をついたばかりだ。


「それこそ嘘だろ。いつ嘘ついたんだよ」

「ルークさまとペリドットが喧嘩しているときに、ルークさまがなにか叫んでなかったかとアイリスさまに聞かれ、覚えてないと嘘をつきました」


 ペリドットに向かって怒鳴ったことを思い起こしたのだろう。みるみるルークの顔が曇っていく。


「なんで、言わなかったんだよ」

「わかりません」

「はあ? また『わかりません』かよ」


 アパタイト自身、なぜ嘘をついてしまったのかわからない。でも咄嗟に、教えてはいけないと思った。


「アイリスさまが傷ついて、ルークさまも傷つくと思ったから」


 どちらにも辛い思いをさせたくなかった。だから言わなかった。言えなかった。言いたくなかった。


 ルークは顔をしかめるが、また絵に集中しはじめる。アパタイトからも話しかけることはなく、水の流れる音だけが響いていた。


「なあ」


 アパタイトはまた筆を置く。


「これ、侯爵……姉さんは受け取ってくれるかな」


 ルークは自身の絵に視線を落とす。


 画用紙には淡い色味をのぞけば、まるで写真に撮ったような筆致のアイリスが描かれている。


「俺はさ、すごく……すごく、っ」


 なにかを言おうとしてはやめ、言おうとしてはやめ、をルークは繰り返す。何回か続いたあと、ルークは蚊の鳴くように言った。


「さび、しいんだ」


 金色の目が潤み、それを隠すようにルークは目元をこする。


「父さんと母さんがいなくなって、家が大変なのはわかるけどさ。それでも、いや……だから、もっと寂しいんだ。俺にはもう、姉さんしかいないのに」


 とどめなくあふれてくる涙に、ルークは画用紙が濡れないようさっと避けた。


「そりゃあ没落するのは困るけどさ……俺は姉さんが、傍にいてくれるだけでいいって思うんだ。仕事ばっかりじゃなくて、俺を……俺を、見てほしいよ。一緒にいてほしいよ。俺やウィリアムたちが生活に困らないように頑張ってくれてるのは、わかるけどさぁっ」


 耐えきれなくなり、ぶわっと涙が頬を伝う。


「俺は、姉さんがいなくなったら……本当に、ひとりりぼっちだ」

「アイリスさまは厳格な人ですが、優しくない人ではありません。ルークさまに寂しい思いをさせていたんだとわかればきっと、一緒に悲しんでくれるでしょう」

「俺は! 姉さんを悲しませたくなんてねえよっ」


 んぐ、とアパタイトは口を閉じる。


「いや……お前に当たっても仕方ないことだ。わかってる、わかってるよ。だから俺だって、花を渡すんだ。それで、伝えるんだ」

「そ、その意気です」


 森のなかで気づかなかったが、空が橙色になりはじめている。木の葉が遮るこの一帯はすでに薄暗くなっていた。


 二人は急いで画材を片づけ、侯爵邸へと帰ることにした。またあの足場の悪い道を歩くのはいやだったが、暗い森を彷徨うことになるくらいならとアパタイトは必死に足を動かした。


 侯爵邸が見えてきたのは、夕日が沈もうとしているときであった。夜になる前にと必死に走ってきたのだ。


 玄関前に、複数人の人影が見えた。シルエットからアイリスとウィリアム、シェリーだとすぐにわかった。


「ああっ」


 大きな声を出したのは侍女長のシェリーだ。指をさしたこちらにはもちろんアパタイトとルークがいる。アイリスたちも二人のほうへ走り、ちょうど門のあたりで合流した。


 アパタイトは膝に手をついて大きく呼吸し、ルークもまた肩で息をしていた。


 呼吸を落ち着かせるルークが、唾を飲む。スケッチブックをめくり、描き上げたページを開く。


「こうしゃ……姉さん、話したいことが」


 ルークの言葉は最後まで紡がれず、代わりに乾いた音が響いた。


 ウィリアムもシェリーも驚いた顔をしている。それを見ていなかったアパタイトにも察することができた。


 ルークはアイリスに頬をぶたれていた。呆然としたルークが、赤みと熱を帯びていく頬にゆっくりと触れた。


 アイリスは振りぬいた手をそのままに、わなわなと肩を震わせている。


「しん――」


 今度はアイリスの言葉が遮られる。


「お、お待ちください、ルークさま!」


 ルークがアイリスに画材を投げつけたのだ。そして、怯んだ隙にルークは踵を返し、走り出していた。


「っ……ルーク!」

「待ってください」

「そこをどけ、アパタイト! 私はルークを追いかけなければ」

「待って、ください」


 今すぐに追いかけようとするアイリスの前にアパタイトは立ちはだかる。落ちたスケッチブックを拾い上げ、ルークが見せたかったページを開く。


「それがなんだと」

「これは、アイリスという名の花で、ルークさまがお母さまと植えたものだそうです。花が咲いたらアイリスさまとお父さまをつれて、見にこようと約束していたとも」

「あい、りす……?」


 アパタイトは小さく息を吸う。


「ルークさまの話を、聞いてあげてください。両親が亡くなってからアイリスさまは一度でも、ルークさまに話を聞いたことはありますか?」


 アイリスの目がゆっくりと見開かれる。


「ルークさまの居場所なら、わかります。……おそらく」


 外は完全に日が落ち、侯爵邸を離れれば光源はないに等しい。明かりを増やすためにもウィリアムに同行してもらい、ランタンを掲げながらアパタイトたちはなんとか道なき道を進んだ。


 昼とは違い、どこからか獣の鳴き声がする。三人でも恐怖はあるというのに、一人で森のなかにいるルークはどれだけ心細い思いをしているだろうか。


 アパタイトは精一杯腕を伸ばし、前方を照らす。小石の上を動く音がした。


「ルーク、いるのか?」


 さっと前に出たアイリスの明かりによって、石の上に座り込んでいた少年の呆然とした顔が浮かび上がる。


「な、なんで」

「すまなかった」


 アイリスが近寄ろうとすると、ルークは反射的に体を引いた。だからアイリスは距離があるまま話しかける。


「話も聞かず叩いてしまって、すまなかった。これを、アパタイトが見せてくれたんだ。知らなかったよ。お母さまが亡くなってからも絵を描いていたなんて。知ろうとも、していなかった」


 呆然としているルークの頬を涙が流れていく。途切れることなく、ぼろぼろとアイリスの背中に落ちる。


「ルークが許してくれるのなら、ほかの絵も見せてほしい。そしてルークが世界を見て感じたことを聞かせてほしい」

「ねえ、さ」

「私はルークが望んでいるのなら部屋から出てこなくていいと思っていた。そうすれば、お父さまやお母さまのように事故に遭うことは限りなくないと思っていたから。でも、こうしてちゃんとあなたの顔を見たら……帰ろう、ルーク」


 アイリスの声は震え、涙ぐんでいた。


「あなたまで、いなくならないで」


 ルークがたどたどしい足取りでアイリスの元へ行く。ひしと抱きついて、ゆっくりと背中に手を回した。


「う、ぁ」


 静かな森に、静かな泣き声が二つ響く。


 アパタイトは目をそらすことなく、その光景を見つめていた。ぽん、と肩に手が置かれ、アパタイトは顔を上げる。ウィリアムが安堵した顔で、アパタイトに微笑んでいた。


 それから三日後、アイリスとルークは静かな場所で休息をとることを決めたそうだ。両親の死と、家族と向き合うために。


 それに伴い、アパタイトとペリドットのプログラム終了日も前倒しで迎えることになった。


「アパタイト!」


 迎えの馬車に二人分の荷物を載せていたアパタイトに声がかかった。振り返れば駆けよってくるルークと穏やかに笑むアイリスが手を振っていた。


「これ、忘れてたぞ。俺の画用紙に紛れてた」


 ルークが出したのは一枚の画用紙だ。歪んだ線に濃淡が激しい色塗り。実物は目の前にあるのに、いざ筆を握れば思うように描くことができなかった。


 それでも、アパタイトには大切なもので、忘れられない思い出だ。


「なに、これ?」


 荷物を運びおわるのを待っていたペリドットがのぞきこんだ。


「花です」

「花? これが?」


 信じられない、とペリドットはさらに顔を歪ませた。


「よくルークさまと並んで絵を描けるわね。恥ずかしくないの? 少しはコーラルを見習いなさいよね。あんたってば、なに一つスマートじゃないんだから」


 つん、と強めに胸元を小突かれる。地味に痛い。


「お前な」

「ペリドットは、僕の友人なんですよね」

「は?」


 ペリドットをいさめようとしたルークと声がかぶるが、アパタイトは目の鋭くなったペリドットに続ける。


「テディは言っていました。友人とは志をともにし、互いに心を許し合い、同等、対等に交われる親しい人だと。僕は考えてみたんですが、ペリドットの態度は友人に対するものではないと思います」


 面を食らうペリドットに、アパタイトはさらに息を吸う。


「ペリドットは自分勝手です。わがままです。僕は一方的に見下し、ばかにしてくるペリドットと親しくしたいとは思いません。それに、ルークさまは僕の描いた絵を褒めてくれました。だから恥ずかしくはありません」

「あ……あんたね!」


 顔を真っ赤にするペリドット。アパタイトとペリドットの間にすっと腕が伸びた。


「アパタイトの言う通りだ」


 びくりとペリドットの動きが止まる。


「あなたの言動はいささか目にあまる。愛嬌はたしかに武器だが、あなたには扱えていない。他人を下げて得た評価は、上がってもいない自分への評価が上がった錯覚に陥るだけであり、傍から見れば滑稽だ」


 ぷるぷるとペリドットは震えている。


「言動を顧み、直していかねばいつかあなたの周りに人はいなくなると私は思うよ。今はグリフィス男爵の恩恵を受けられているからいいものの、もし後ろ盾がなくなったらあなたはどうなるだろうか。今一度考えてみるといい」


 せめてもの反抗心なのだろう。むっとした表情でペリドットを見つめていたアパタイトの横顔を見て、アイリスは「ふ」と少し意地悪な笑みをこぼした。


「あなたは……アパタイトを見習ったほうがいい」

「ふ、ふざけないで! 気分が悪いわっ。早く馬車を出しなさい!」


 ペリドットはわざと大きな足音を立て、不愉快さを主張しながら馬車に乗った。指示された御者は気まずさを漂わせているが、アパタイトを置いていくわけにはいかない。「巻き込まないでくれ」とでも言いたげに肩をすくめていた。


「あははっ。見たか? あいつの顔」


 ルークは腹を抱えて笑っている。


「ずっと見てました」

「そうじゃなくてさ……あー、笑った。姉さんに言い負かされて、なにも言えなくなってやんの!」


 一度治まった笑いが再熱したようで、転げる勢いでひーひー言っている。


「もう、アイリスさまのことを侯爵とは呼ばないんですね」

「だって、姉さんは姉さんだから」

「アパタイト。あなたが来てくれて本当によかった。ペリドットも荒療治ではあるが、こうして隔てる扉をなくしてくれたことには感謝している。本当に、ありがとう」

「な、次はいつ会えるかな? すぐには無理だけどさ、またいつか一緒に絵を描こう。もしお前のしたいことがあったら俺も付き合うからさ。手紙も出すよ」


 返事をしようとして、アパタイトは声が出ないことに気づいた。「はい」と、たったの二文字でいいのに、出てこない。


 代わりに、アパタイトは大きくうなずく。目の奥が熱くなっていた。


「あ、そうだ。俺たちはもう友だちなんだから、俺のことはルークって呼べ。敬称なんてつけるなよ。じゃあ、またな。アパタイト」

「は、い……また、また会いましょう。手紙も出します。それではお元気で、ルーク」


 アパタイトは帰りの馬車のなか、ずっと絵を眺めていた。ペリドットは気丈に振舞っていたが、泣くのを我慢しているようだった。声をかけることもかけられることもなく、ただ、馬車に揺られていた。


 翌日、馬車は無事に寮へとついた。


「おかえり、アパタイト。侯爵邸はどうだった……と聞きたいところだけど、まずはそれがなにか聞いてもいいかな」


 プログラムの報告をするため、アパタイトはセオドアの執務室にいた。ペリドットの姿はない。


「ルークさまと一緒に絵を描きました」

「へえ。なにを描いたんだい?」

「アイリスという花です。ヒスイが育てている花とは形が違いました。こんな花もあると、ヒスイに教えてあげたいです」

「そうか。それはきっと喜ぶよ。なにはともあれ、無事にプログラムの終了を迎えられて私も嬉しいよ。アパタイトが見て、聞いたこと……どんな些細なことだっていい。どれだけ時間をかけてもいい。君が感じたことを、私に教えてくれないか?」


 侯爵邸でのこと。出会った人たち。アパタイトは一つずつ思い出しながらセオドアに話をした。それこそ日が暮れるまで、セオドアは相槌を打ちながら嬉しそうに聞いてくれていた。

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