ペリドット 前編
「遅いわよ」
セオドアの執務室の扉を開けば、見たことのない少女がこちらを睨みつける。
ハーフアップに結われたブロンドの髪。青い目に合わせた水色のエプロンドレスから伸びる腕は細く、その指先は白魚のように美しい。
「なによ。じっと見ちゃって」
アパタイトはエイヴァとの初対面を思い出す。あのときもこうして意味もわからず敵愾心を向けられていた。頭から水をかけられないだけましだと思うべきか。
「その様子だと、二人はまだ会ったことがなかったみたいだね。紹介するよ。彼女はペリドットだ」
食事は日に三回。けれど全員が時間を合わせて食べるわけではない。その理由は寮に常駐している料理人に作ってもらうものもいれば将来のために自分で作るものもいるからだ。
料理のできないアパタイトは前者で、友人たちとともに食べることが多い。
「ペリドットはつい最近までプログラムに出ていたから、顔を合わせる時間もなかったんだね。彼はアパタイト。一ヶ月と数週間前にここへやってきた友人だ」
ペリドットはアパタイトの頭のてっぺんから足の先まで、まるで値踏みするかのように視線を往復させた。
アパタイトの苦手な目だ。
「ふーん。ま、顔は悪くはないわね。コーラルには断然劣るけど」
桃色の小さな唇から可愛くない判断が下される。あまりいい気分ではないが、わざわざ波風を立てることもない。
「初めましてペリドット、アパタイトです。それで、テディは僕になにをお願いしたいのでしょうか?」
「まだ先の話……と言ってもだいたい二週間後だけど、ペリドットとアパタイトでプログラムに向かってもらいたい」
「は?」
素直に疑問を呈したのはペリドットだ。
「どうしてあたしが? こいつと一緒に? あたしが?」
明らかにアパタイトを下に見ていることがひしひしと伝わってくる。なにより圧が強い。
「組むならコーラルと一緒がいいわ。あたしに釣り合うのはコーラルしかいないじゃない」
「コーラルは今、プログラム中なんだ。まだしばらくは戻らないよ」
「さすがコーラル……じゃなくて! ……あんた、なんていったっけ?」
射殺すような目を向けられる。
「アパタイトです」
「年齢は?」
「わかりません。テディが言うには、十五歳前後ではないかと」
「そのわりには背も低いし筋肉もついてないじゃない。弱そう。コーラルと肩を並べようなんて百年早いのよ」
肩を並べた覚えはない。それにここへ来たばかりのころと身長は変わっていないが、肉付きはよくなってきている。
『痩せぎす』だったアパタイトが『痩せている』くらいになったことに気づいたセオドアが自分のことのように喜んでくれたくらいだから。ついでにその場に居合わせたヒスイも嬉しそうにしていた。
「年齢のわりにアパタイトは小柄で筋力がないのはたしかだけど、今まで栄養が足りていなかったから仕方ないことだ。たくさん食べてたくさん運動してたくさん眠れば、アパタイトもコーラルのように大きくなるかもしれないだろう?」
それに、とセオドアは続ける。
「そろそろアパタイトもプログラムに参加しはじめてもいい頃合いだ。それでも一人で送り出すのは私も不安でね。しっかりもののペリドットに先輩としてアパタイトを導いてあげてほしいんだ」
ペリドットは得意げに鼻を鳴らし、胸を張った。
「そうよね。しっかりもので優しいこのあたしが、後輩を導いてあげるわ。頼りになるって、ときには罪ね」
セオドアに視線をやると、ぱちりとウインクで目配せをしてきた。アパタイトはこくりとうなずく。
「でも、あたしの邪魔をしたら許さないから。絶対に! 邪魔しないでよね!」
びしっと指をさされ、アパタイトは首を傾げる。
「邪魔とはなんですか? 理解できるよう教えてください」
「そんなこともわからないわけ? これだから新入りは」
ペリドットは額に手を当て、やれやれといったふうに頭を揺らす。
「いい? あたしは貴族と同じくらいの品格を持ってるのよ。それに気づいてもらうために、あたしよりも前に出ないで。目立たないで。あたしはお金持ちで嘘をつかない誠実な男と結婚するんだから」
つまり、常に花を持たせるために立ち回ればいいということだろうか。
元々アパタイトは目立ちたがりではないし、積極的な性格ではないため深く考えなくていいと結論付ける。
「返事は?」
「はい」
「話はまとまったかな? 詳細が決まったら改めて報告するよ。アパタイトはこのあと少し残ってくれるかな。話しておきたいことがあるんだ」
ペリドットは「あたしってば引っ張りだこなんだから……。困っちゃうわ」と軽い足取りで部屋を出ていった。
二人きりになった執務室がしんとなる。
「ペリドットは自信家だろう? それでいて野心家でもある。自分なりに将来の見通しも立てて、目標に向かって前進するしっかりした子だと私は思う。アパタイトは彼女をどう思った?」
「堂々としている人だと思いました」
セオドアはにこやかにうなずく。
「けれどね、思いが強いがために言葉が強くなったり周りが見えなくなったりしてしまうこともある。だからアパタイトにはペリドットをよく見ていてほしいんだ」
少しだけ時間を置いて、アパタイトは尋ねる。
「見ているだけでいいんですか?」
その問いにセオドアは微笑むだけで、答えてはくれなかった。
後日、ヒスイとともに授業を終えて部屋に戻ると、ペリドットが扉にもたれて待っていた。アパタイトを視界に入れるとつかつかと歩みより、一枚の紙を差し出した。
ヒスイも一緒になってのぞきこむ。
「このあたしを待たせないでよね。これはテディが用意してくれたプログラムの内容。お屋敷に向かうのは三日後だから、それまでに頭に叩き込んでおいて」
要件だけ伝えたペリドットはヒスイを一瞥し、そのまま歩いていってしまった。
「そういえば、前に言っていたね。アパタイトもついにプログラムに参加するのかあ。寂しくなるね」
派遣先に滞在する期間は一ヶ月と綴られている。進捗によっては期間が前後するというが、こればかりは人間関係の構築に依存するため予測は立てられない。一ヶ月というのはあくまで様子見の時間だそうだ。
「一ヶ月というのは長いほうなんですか?」
「うん? ああ、うん。長いんじゃ、ないかな? ごめんね、わからない」
ふいとヒスイが目をそらした。
「たしかに、ヒスイは僕がここに来てから授業に付き合ってくれることが多いですね。コーラルやペリドットはよく派遣されているようですが、ヒスイはプログラムには参加しない――」
最後まで言葉を紡げなかった。のどに引っかかって、脳が言葉に表すことを咄嗟にやめさせたような。
「――っ」
ヒスイは顔を強張らせ、なにかを恐れていた。
のほほんと穏やかなヒスイ。たまに自分を過小評価して卑下するヒスイ。けれどこんなにも打ちのめされた顔をするヒスイをアパタイトは知らない。見たことがなかった。
「ヒスイ……? すみません、僕、なにか」
「あっ、ご、ごめん。ぼうっとしちゃっていたよ! なんの話だっけ?」
アパタイトは口を開いたがすぐに閉じ、唾を飲む。
「ご存じの通りペリドットも一緒に行くんですが、僕はまだペリドットのことを知りません。もしヒスイがよければ、彼女について教えてもらえませんか?」
「もちろん、任せて!」
ヒスイの顔に笑顔が戻る。アパタイトは無意識のうちに安堵の息をついていた。
それから三日、アパタイトは必要な情報を頭のなかに落とし込むことに没頭した。
今回、プログラムに申し込んだのは国境付近に広大な領地を持つ侯爵家の若き当主だ。侯爵領はほとんどが山地で、その地形を生かした林業や農業を営んでいるという。
アパタイトたちの住む寮は港近くの街にあるため、緑に囲まれる機会はほとんどない。ヒスイが植物に興味を持っていなければ今よりも緑の少ない寂しい邸宅となっていただろう。
「じゃあ、今回のプログラムの内容を言ってみなさい」
移動の馬車のなか、向かいで足を組んで座るペリドットが言う。
「依頼されたのはアイリス・シルヴィア侯爵。弟のルークさまの遊び相手になってほしいとのことです。僕はルークさまの侍従として、ペリドットはアイリスさまの侍女として派遣されます」
ペリドットはうなずくことすらせず、黙ってアパタイトの説明を聞いている。
プログラムとして二人がやってくることを知っているのは侯爵と執事長だけだそうだ。あくまで臨時の短期雇用として振舞わなければならない。
「先日、先代侯爵とその夫人であった両親を事故で亡くされたため、侯爵位を継承して間もないアイリスさまが執務を行い、弟にさく時間がないことが理由です。また、ルークさまは事故のショックから塞ぎ込んでしまわれ、自室に閉じこもっているとのことでした」
「アイリスさまがあたしたちに望まれていることは?」
「ルークさまが少しでも前に進めるよう、きっかけを作ることです」
「まあ、合格ね。くれぐれもミスしないように。ルークさまはあたしの旦那さまになるかもしれないんだから」
ペリドットはつまらなそうに窓の外に顔を向けていた。
「お金持ちで、嘘をつかない誠実な男性」
「あら、覚えてたの? 侯爵家の人間ともなれば、人間性が保証されてるに決まってるわ。ルークさまは十一歳だけど……差はそこまで気にならないわね。問題はあたしに釣り合うかどうかよ」
ペリドットは十四歳だとヒスイが教えてくれた。
なぜこうも伴侶に理想の高い男性を求めているかも教えてくれたが、アパタイトはあまり理解できなかった。本人に配慮したのか、かなり遠回しに伝えられたためだ。
「ペリドットはどうして、お金持ちで噓をつかない誠実な男性にこだわるんですか?」
ペリドットはじとっとした目線だけを寄越し、はあ、と大きなため息をついた。
「ま、あんたにも協力してもらうんだから教えて損はないわね。別に隠してるわけでもないし。お母さんにそう言われ続けたからよ。何度も、何度も何度も……何度もね」
外へ目線が戻る。窓に反射するその碧眼にはどこか虚ろさを感じさせた。
「お金があったら苦労しない。誠実だったら傷つくことはない。安全で豊かな人生が約束されて、いつまでも尽くし尽くされるの。それってとっても、幸せなことだと思わない?」
アパタイトがなにも言わないでいると、「どちらが欠けてもだめなのよ」と念を押された。
「僕には、わかりません」
「そう。でも、わからなくて結構よ。あんたに理解されなくたってそれが、自然の摂理なの」
こんなときに、死に際の母が脳裏に浮かぶ。
名前を与えられなくても、その日食べられるかどうかわからなくても、アパタイトはそれでよかった。母がそこにいて、自分を認識してくれているだけでよかったのだから。
「あたしだって、本当なら貴族だったはずなんだから」
考えに耽っていて、アパタイトにはペリドットの声が聞こえなかった。
こんこんと連絡窓が叩かれ、アパタイトとペリドットは顔を同時に上げた。からからと開いた窓の向こうで、御者が指をさす。
「お二人さん、侯爵家が見えてきたよ」
侯爵家は小高い丘の上にあった。背の低い草原の一部を刈り、山道が引かれている。その道の終着が寮よりも二回りほど大きな侯爵家だ。
屋敷の周りは金属の高い柵で囲われているが、正面の門は開いている。見たところ開閉する人もおらず、開放したまま放置しているようだ。
御者の手を借りながらトランクを降ろしているとちりんちりんと鈴の音が鳴った。
出迎えてくれたのは白髪に縁なし眼鏡をかけた初老の男性だ。燕尾服を着ているため、侯爵家の執事だろう。
「はるばるようこそお越しくださいました。侯爵さまは多忙のため、僭越ながらわたくしが代わりに出迎えを。シルヴィア侯爵家の執事長を務めております、ウィリアムと申します」
「本日よりこちらでお世話になることになりました、ペリドットと申します。こちらはアパタイトです」
ペリドットはエプロンドレスの裾を持ち上げ、すっと腰を落とした。いつかのエイヴァがしていた挨拶に似ている。
ついでに紹介されたアパタイトは言うことがなくなり、ぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「まずは侯爵さまに挨拶をいたしましょう。ご案内します」
御者に礼と別れを告げ、二人はトランクを持ってウィリアムの後ろをついていく。
屋敷の内装は落ち着きがあり、調度品も少ない。メイド服や燕尾服を着用した使用人たちはすれ違いざまに挨拶もしてくれる。
雰囲気は悪くない。少しだけ疲れが顔ににじんではいるものの、穏やかな空気に包まれている。
「侯爵さま。グリフィス男爵家からペリドットとアパタイトが派遣されました」
「入って」
凛とした声の返事に、ウィリアムが扉を開ける。
金色の髪を持つ凛とした麗人が、カリカリとペンを動かしていた。瞬きの間に戻されていたが、金の目が一瞬だけこちらを見る。
びしっと着こなされた濃紺のジャケットが彼女の有する凛々しさをより際立たせていた。ペンを滑らすよりも剣を振るうことのほうが似合いそうな佇まいだ。
「ようこそ、ペリドット、アパタイト。遠路はるばる疲れただろう。私はアイリス・シルヴィアだ。早速だがまず、二人には仕事を覚えてもらうために一週間はほかの使用人についてもらう。アパタイトは執事長のウィリアムに、ペリドットは侍女長のシェリーに面倒を見てもらうことになっている」
「かしこまりました」
「二人はなにができる? 私にとって一日の時間はあまりに少ない。無駄な時間を消費することは避けたいんだ」
かたん、とペンが置かれ、組まれた手の向こうからじっと見据えられる。
鋭い眼光だが、チャンスとばかりにペリドットは怯まず一歩前に出た。
「料理や裁縫、掃除など、お役に立てるようなことはなんでもできます。セオドアの元で日々、立派な人になるためにさまざまな修練に励んでいますので」
返答に軽くうなずいたアイリスがアパタイトに視線を移す。
「あなたはなにができる?」
なにが、と言われても困る。
食事は厨房の料理人に作ってもらっているし、掃除も雑巾がけしたり埃を掃いたりなどで誰でもできることをしている。それだけではここで役には立てないだろう。
植物の世話だってヒスイの手伝いをしているにすぎない。掘ってもらった穴に種を落とし、なだらかにしてもらった土に水をかけるだけの。
「どうした?」
「……僕には剣の才能がないので振るうことはできません」
沈黙が生まれる。
「できることを聞かれてるのに、できないことを言ってどうするのよっ」
ペリドットに肘で脇腹をつつかれ、耳打ちされる。
「それ以外なら、できるのか?」
アイリスの口角はわずかに上がっていた。
「わかりません。掃除とひとくくりにしても、できるものとできないものがありますので、一概には言えません」
「なるほどな。ウィリアム、二人の話を踏まえて仕事を振りわけるように。あとは任せる」
「はい。かしこまりました」
退出する直前、アパタイトは振り返る。アイリスはすでにペンを動かしていた。
「まずは部屋に案内します。三階の西側が女性、東側が男性の部屋わけとなっています」
トランクを抱え、三階まで上がると一人の女性が立っていた。
黒艶のある髪を前から後ろへ一つにまとめ、低い位置で結んでいる中年の女性だ。足元まですっぽりとおおう裾は、アパタイトたちに気づくまで揺れることはなかった。
「ああ、待っていたわ。あなたがペリドットね。まあ、なんて可愛らしいお嬢さん。あなたはアパタイトね。姿勢がとてもいいわ。うん、二人とも素敵ね。私はシェリー、シェリーと呼んで。侯爵家の侍女長を務めているの。よろしくね」
雰囲気がふんわりとしている優しそうな女性だ。アイリスと対面したあとだと、なおさらそう感じられる。
「お世話になります。少しでも早くここでの仕事を覚えられるように頑張ります!」
「よろしくお願いします」
シェリーはそろってお辞儀する二人を「うんうん」と満足そうに眺める。
「それではシェリー、ペリドットのことは頼みますよ。アパタイトは私についてきてください」
通された部屋は簡素な部屋で、アパタイトにとってはかなり落ち着ける空間だと思った。
「こちらのベッドは二段になっていますが、同室者はいませんからお好きなほうを使っていただいて構いません。仕事着がクローゼットに用意してありますので、起きたら着替えるように」
それから起床、食事といった時間を説明され、アパタイトは忘れないようにメモを取った。
基本的には三階が使用人の生活スペースで、食事や入浴は侯爵家の使用人と同じ時間にとっていいそうだ。
「わからないことがあれば、遠慮せずに聞いてください」
「今は、始めてみないとわからないので質問はありません」
「では、今日はゆっくりと休んで、明日に備えましょう。食事と入浴の時間に人を来させますから、それまでは思うようにお過ごしください」
「ありがとうございます」
ウィリアムが部屋を去ったあと、アパタイトは荷解きを始める。といっても、持ってきたのは今着ている服をのぞけば二、三着だけ。あとはメモ帳とペン、ヒスイが持たせてくれた押し花の栞だけだ。
出発前、ペリドットがトランク一つに荷物をまとめるのが大変だったとぼやいていたが、いったいなにをそんなに持っていくものがあるのかとアパタイトは不思議でならなかった。
本格的にプログラムが動き出せば、その疑問も解消されるのだろうか。
そんなことを考えていると、やがて睡魔に襲われた。自分では平気だと思っていたが、疲れが溜まっていたようだ。ウィリアムの言葉に甘え、アパタイトは食事の時間までベッドで眠ることにした。
翌朝、アパタイトはクローゼットにしまわれていた燕尾服に袖を通す。部屋に鏡がないため確認できないが、ウィリアムの姿を自分に置きかえて想像してみた。
――馬子にも衣裳、といったか。
アパタイトはさっと頭に手をやり、寝ぐせがないかだけ確認する。
それから朝食を食べ、ウィリアムの元に行くとすでに仕事が用意されていた。
まずは厨房で野菜や果物の皮をむく。ナイフを器用に沿わせていくと薄くて長い皮ができあがった。
それが終われば次は洗濯だ。桶いっぱいに入った冷水に服を入れ、手で揉みながら汚れを落としていく。物干し竿の高さに身長が届かないため、洗い終わった服は他の人に任せてアパタイトは次の仕事へ向かう。
ペリドットと一緒になることもあったが、ほとんど会話を交わすことはなかった。アパタイトは自分から話しかける性格ではないし、ペリドットもアパタイトを知らないものとして扱っているようだった。
「お二人がここに来られてもう数日が経ちましたが、ここでの生活には慣れましたか?」
屋敷の庭の花壇に水をやっていたアパタイトの様子をウィリアムが見にやってくる。アパタイトは手を止めた。
「はい。みなさま、とてもよくしてくれます」
「そうですか。体力的にきついと思うことはありませんか?」
「ありません。僕は他の人よりも運動量の少ない仕事を振られていますから」
ウィリアムが目尻を下げる。
「グリフィス男爵は父君の才覚を受け継いでいるようですね」
「グリフィス男爵とは、テディ……セオドアさまのことですか?」
「ええ、セオドア・グリフィスさまのことです。ご存じありませんでしたか? 先代グリフィス伯爵は爵位を複数所有しておられました。ご兄弟で爵位をそれぞれ継承されたというのは有名な話です。複数爵位を所有する先代が身罷られた場合、大抵の貴族は長男がすべての爵位を継承しますから」
じゃあ、と口から出かかった言葉を飲み込む。先代から爵位をすでに継承しているということは、そういうことだ。
「仲がよろしいのですね」
これもうなずきかけ、止まる。たまにセオドアの兄のリアムが応接室に来るが、帰るときはだいたい疲れた顔をしている。
けど、話し合いとやらをしているとき以外は仲睦まじいとアパタイトも思う。会話は弾んでいるし、笑顔もあふれている。
「友人と離れるのは寂しくありませんか?」
「寂しくありません」
アパタイトはポケットを探る。
「友人がお守りを持たせてくれましたから。『この栞は小さめに作ったから、たぶんポケットにも入るよ。だからこれを僕だと思って。そうしたらきっと寂しくないから』と言っていました」
ヒスイに渡された押し花の栞だ。ここでは本を読まないので使う機会はないが、言われた通りに肌身離さず持っている。
普段はポケットに入れるようにしているし、寝るときはベッドの脇の机に置いているくらいだ。
というのも初日、枕元に置いて眠ったときに失くしかけてしまった。寝返りを打ったのか栞が床に落下していただけで済んだのだが、それ以降は眠るときに触れないよう気をつけている。
「よき友人を持ちましたね」
「僕もそう思います」
ふいに上へ目をやると、一室のカーテンがさっと動いた。誰かが見下ろしていたのか、もうカーテンは動かない。
「あの部屋は……ルークさまの部屋です。なにか気にかかることがありましたか?」
アパタイトの視線を追ったウィリアムが教えてくれる。
「こちらを見ていたようです」
「それではそろそろ、ルークさまにもっと近づいでみましょうか」
翌日から、アパタイトは本格的にルークの侍従として過ごすことになった。