ヒスイ
アパタイトは足を止める。そしたら隣にいたコーラルまで立ち止まった。
「どうしたんですか? 早くいかないと授業に遅れてしまいますよ」
進みたくとも進めない。
「す、スピネル?」
正面、前からやってきたスピネルがアパタイトの前に立ちはだかったのだ。初めて会ったときのことが脳裏をよぎる。
一緒にいたヒスイが引っ張っていこうとするが、どうも力が足りていない。
「どいてもらえますか?」
見かねたコーラルが前に出るとスピネルはじりじりと後退した。本能的にコーラルをおそれているのかもしれない。
「それではヒスイ、また」
アパタイトはぺこりと頭を下げ、無事にスピネルの横を通り抜けることができた。
「よかったんですか?」
「なにがですか?」
コーラルはにこにことアパタイトを見下ろした。
「ヒスイと話すチャンスだったのでは? 俺がいればスピネルはもっと大人しくなるようですし」
「授業に遅れると言ったのはコーラルじゃないですか」
「授業がなければ話していましたか?」
アパタイトは少し考える。
「スピネルはヒスイと一緒にいないといけません」
「おや、誰がそんなことを言ったんですか?」
「僕がそう思っているんです。みんな、思っているんじゃないですか?」
「あいにく、俺は思っていませんね。むしろ離すべきだと思います。と、この話はいったん終わりましょう」
真意を尋ねる前に食堂についてしまった。
今日、アパタイトたちは厨房で料理を習う。以前、料理を習っていた友人に食事を振舞われ、自分でも作ってみたいと思ったからだ。
セオドアに相談しようとしていたところをコーラルに話しかけられ、一緒に習うことになった。
「コーラルはなんでもできるんですね」
「なんでもはできないと思いますが、生きていくのに必要なことはできるようにしましたよ」
コーラルの包丁さばきは見事なものだった。アパタイトよりも二倍、三倍の速さで切っていくのだ。
「アパタイトはまだ半年ほどしか寮にいないじゃないですか。俺よりもはるかに教わる機会は少ないですし。そう落ち込むことないですよ」
「落ち込んでいません」
軽口を交わしながら料理を作っていく二人を、教師役をしている厨房の料理人がにこやかに見守っている。半分ほど教える立場をコーラルに奪われているが、不満はなさそうだ。
「では、味見をしてみましょうか」
アパタイトとコーラルが作ったのはシチューだ。寒い日にはちょうどいい。
「おいしいですね」
そう言いながら、アパタイトは微妙な顔をする。
「おいしくありませんか?」
「そんなはずはないと思うけどなあ」
ひょいっと横から料理人が味見をした。うんうんとうなずいているのだが、アパタイトは不服そうに口を尖らせる。
「なにがそんなに気に食わないんですか?」
「ほとんどコーラルが作りましたから、おいしいに決まっています」
コーラルと料理人はきょとんと顔を見合わせた。
「嬉しいことを言ってくれますね」
「次は一人でもできる、もっと簡単な料理に挑戦してみようか! これは今晩の夕食に振舞おうと思うけど、二人ともいいかな?」
料理人に礼を言い、二人は食堂をあとにする。
「先ほどの話の続きですが、アパタイトはなぜヒスイとスピネルが一緒にいるべきだと思うんですか?」
コーラルが話を戻すとは思っておらず、それどころかそんなことを話していたのをすっかり忘れてすらいた。
「スピネルはヒスイと一緒にいるときが一番穏やかだからです。ヒスイがいなければ、友人たちも嫌厭するものが多いです」
「それは、ヒスイを犠牲にしているのでは?」
「犠牲?」
コーラルはこくりとうなずく。
「考えてみてください。本当にスピネルは改心したんでしょうか? まあ、あの殊勝な態度からここは改心したとしましょう。けれどスピネルが衝動的に誰かを殴りつける可能性は? その対象にヒスイが含まれないと確信はありますか? 僕は、スピネルという爆弾をヒスイ一人が抱えているようにしか思えません。俺たちが押しつけているだけでは?」
アパタイトは考える。たしかに、その可能性は捨てきれない。アパタイトは二度も衝動的に殴られているのだから。
「それに、今後のスピネルのことを考えるのならヒスイから引きはがすべきです。それで証明しなければなりません。スピネルはもう理由なく人を殴らないと。そうしてやっと、スピネルはほかの人たちと肩を並べることができます」
「……スピネルにも、殴る理由があるのでは?」
「周りが……殴られた本人が納得できる理由があるのなら、俺はいくらでも殴ればいいと思います。けれど納得できないのならそれは、どんなに正当な理由があろうと被害者からは理不尽でしかないじゃないですか」
「なるほど」
コーラルの言い分は正しいとアパタイトは思う。
「ではコーラルが証明してみせればいいんじゃないですか?」
「願い下げですね。スピネルのお守りをするくらいなら……そうですね、ヒスイの卑下を小一時間くらい聞いていたほうがまだましです」
そもそも、とコーラルはからかうような意地悪い笑みを浮かべる。
「俺では証明になりませんよ。スピネルは俺より弱いですから」
はっきりと言ってのけた。
――スピネルよりもコーラルのほうが、強い。
殴り合いでコーラルがスピネルに勝つ光景がどうしても描けない。アパタイトがスピネルの拳を受けたからだろうか。どうしてもスピネルを贔屓目に見てしまう。
「どうしてわざわざ俺がスピネルの土俵に下りなければならないんです? 甘いですよ、アパタイト。たしかに素手同士の殴り合いでは勝てないでしょうが、俺にはレイピアがあります。短剣もね。ほら、俺が勝つでしょう?」
練武場にコーラルとスピネルを配置する。素手だったコーラルにレイピアを持たせ、開始の合図を出す。が、そこから想像を進ませることができない。
「僕は、コーラルが剣を振るっているところを見たことがありません」
「ああ、たしかに。失念していました。では、実際にやってみましょうか」
数日後、アパタイトはコーラルに練武場へ呼び出された。すでに人だかりができていて、中央にレイピアを抜いたコーラルとグローブをつけたスピネルが立っていた。
「ああ、アパタイト。やっと来ましたね。それじゃあ、始めましょう。ヒスイ、開始の合図をお願いします」
「う、うん。二人とも、怪我をしないように……もし怪我をしたらテディがどれだけ悲しむか……いや、許可はとっているけどテディもまさか怪我を負うまでやるなんて思っていないよね。うん、もし怪我をしてしまったら僕なんかが責任をとれるわけがないけど」
「ヒスイ、しつこいですよ」
「ご、ごめん!」
謝罪の勢いのままに鐘が鳴らされる。
最初に動いたのは、どちらでもない。開始のゴングが鳴り響いたにも関わらず、二人は構えたまま微動だにしなかった。
「え、は、始まっている、よ?」
たまらずヒスイが声をかけるが、応答もない。
すると突然、張りつめていた糸を切るようにコーラルが動いた。踏み込み、腕を伸ばし、スピネルの喉元に切っ先を突き立てんとする。
「ッ」
剣身がのどを突きさす前にスピネルはその場から大きく後ろに退き、体勢を立て直すと地面を蹴った。大きく振りかぶったスピネルの拳がコーラルの横面を叩きつけんとするが。
「があッ」
コーラルはそれをレイピアの持っていない腕で受け止め、軽々と弾いた。ぐらりとスピネルの体が傾く。
コーラルが追撃を畳みかけるが、スピネルにはわずかには届かない。それを瞬時に勝機ととらえたスピネルが気合いで踏ん張り、再び拳を入れようと腕を引いた。
「!?」
が、スピネルの拳もまた、コーラルには届かなかった。届く寸前、スピネルが急ブレーキをかけたのだ。
「お、まえ」
でなければ間違いなく、スピネルは自らつけた勢いのせいで、血管の通る首筋を掻っ切られていただろうから。
「さすが、闘技場で生き残ってきただけありますね」
いつの間に抜いたのか、なにも持っていなかったはずのコーラルの手には短剣が握られていた。それが、スピネルののどにあてがわれている。
「俺の勝ちでいいですね? あなたは今、足を止めたんですから」
「……いけすかねぇ」
「ふふ。負け惜しみは痛くも痒くもありません」
わっと歓声が上がる。短剣とレイピアを鞘に納めるコーラルを見物していた友人たちが取り囲んだ。
コーラルはそれらに涼しい顔で応えていた。
「アパタイトはコーラルのところに行かないの?」
「行く必要がありませんから。ヒスイはスピネルのところに行かなくていいんですか?」
ヒスイはばつが悪そうに頬をかく。
「今は一人にしてあげたほうがいいかなって」
スピネルはすでにこの場を離れ、練武場に常設してある人型の土袋に拳や蹴りを入れていた。避ける動作をしているところを見ると、コーラルの動きを思い出しているのかもしれない。
「なんだか、アパタイトと話すのは久しぶりだ」
「ヒスイはスピネルと行動することが多かったですから」
「もしかして、怒っている……?」
「どうして僕が怒るんですか?」
沈黙ののち、わっとヒスイが喋り出す。
「そ、そうだよね! アパタイトが僕に怒る理由なんてなくて、むしろアパタイトはコーラルと一緒だから寂しく思うこともなくて」
「寂しくはありましたよ」
「うん、寂しくなく……え!?」
信じられない、とヒスイは目を見開く。
「で、でもアパタイトはなにも……」
「言ったら僕と一緒にいてくれたんですか?」
ヒスイの視線が右へ左へと動く。
「スピネルがいたから、無理かも」
ヒスイは肩を下げる。
「で、でもだって……スピネルを連れ出したんだから僕が面倒を見なくちゃいけなくて。もしスピネルが誰かにまた暴力を振るったら今度こそ居場所を奪われちゃうかもしれなくて、それだけはだめだと僕も思うから」
「それはヒスイでなければいけないんですか?」
ヒスイは目を丸くする。
「コーラルが、ヒスイとスピネルは引きはがすべきだと言っていました。僕もそう思いました」
「そ、それってアパタイトがもっと僕といたいってこと?」
「違います」
はっきり否定され、ヒスイはまた肩を下げてしょんぼりする。
「そ、そんなはっきり言わなくたって……たしかに僕はいつも暗くてなんの役にも立てないお荷物で足手まといで」
「そういうことを言いたいわけではありません。スピネルは付きっきりで面倒を見てあげなければならないほど、右も左もわからない子どもではありません。それをするのは、テディの役目です」
「え、と」
「友人とは、志をともにし、互いに心を許し合い、同等、対等に交われる親しい人だとテディは言っていました」
それはわかる、とヒスイはうなずく。
「僕は友人とは隣に立つべき存在だと思います。たまに前に立ち、手を引くときもあるでしょう。ですが、テディも常に手を引いてくれます。だからヒスイも常に手をつなぐ必要はないと僕は思います」
ヒスイは目を見開いたまま動かない。たまにぱち、ぱちと瞼が閉じている。
「で、でも大丈夫かな……? いきなり突き放したりしたら」
「縁を切るわけではないですから。それに、ヒスイが一緒にいたいのなら僕の言ったことは無視してもらって大丈夫です」
ヒスイはぶつぶつと口のなかでなにかを繰り返している。それはアパタイトの耳には届かなかったが、なにかを決めたような顔をしていた。
「僕もまたアパタイトと一緒に遊びたかったんだ。そうだよね。友人は僕だけじゃない。スピネルにもみんなと遊んでもらわないと」
「それを考えるのはヒスイではありません。スピネル自身です」
「う、ご、ごめん」
年下にさとされ、ヒスイは胸が痛くなる。
「ヒスイ。あの種はもう植えましたか?」
「あ、うん。植えたよ。見にいこうか? 今日はまだ水をあげられていないから」
「行きます」
アパタイトとヒスイはひっそりと練武場をあとにした。そして庭までやってきてじょうろに水を汲む。
「まだ芽は出ていないんだ。植えたばっかりだから当たり前なんだけどね。アパタイトはどんな色の花が咲くと思う?」
「色ですか?」
「うん」
花壇に水をやっているヒスイの後ろ姿を見ながらアパタイトは考える。市場で何色の花があったかを思い出そうとするが、すでに記憶から忘れ去られてしまっていた。
「桃色の花がいいと思います」
「桃色かあ。たしかに、まだこの花壇に桃色の花が咲いたことはないかも。うん。僕も桃色の花がいいな。すくすく育って、早く咲いてくれるといいな」
にこやかなヒスイの横顔に、アパタイトもうれしくなる。
「ねえ、アパタイト」
「なんですか?」
「僕、間違っていた?」
「なにがですか?」
アパタイトは首を傾げる。
「僕、プログラムって一回しか参加したことないんだ。だから、わからなくて」
ヒスイはじょうろの持ち手をぎゅっと強く握った。
「みんな、こんな感じなんだろうなって漠然と決めつけていたのかもしれない。スピネルにも、押しつけてしまっていたのかもしれないって。さっき、アパタイトに言われて気づいたんだよ」
なにを、とは口を挟めなかった。ヒスイの独白のようなものを、遮ってしまいたくなかった。
「僕はきっと、プログラムのまねごとをしていたんだ。もう二度とやりたくないって思ったけど、やっぱり憧れていたのかも」
ヒスイは水やりを中断し、アパタイトと向き合う。
「僕の話、聞いてくれる?」
◇◇◇
ヒスイ。八歳。家を追い出されたばかりのとき、セオドア・グリフィスと名乗る男に拾われた。どうして拾ってくれたかは、きっと迷惑で仕方なくて、黙らせるにはそうするほかなかったからだと思う。
父さん、父さんと涙と鼻水をセオドアのスーツにこすりつけてしまったから、仕方なくだと思っている。
セオドアはヒスイを連れかえったあと、「ちょうどよかった」と気さくに笑いかけてくれた。聞けば、助けを求める子どもたちの友人になってくれる子どもを探していたのだとか。
なんのために、と聞けばそれも教えてくれた。
「私ではだめなんだ」
子どもと大人とでは、決定的な差がある。子どもが真に心を開くのは親だけで、次に心を通わせられるのは同じ子どもだけだとセオドアは言った。
拾ってくれた恩もあり、深く考えずにうなずいていた。なにより、断ったらまた追い出されるのではないかと怖かった。
説明を受けてもあまり理解できなかったプログラムの初日。ヒスイは友人になるため貴族の別邸へつれていかれた。セオドアと離れ離れになるのは不安だったが、役に立てるならと我慢した。
それでも、友人ができるというのはうれしいことだ。きっと楽しいことが待っていると期待に胸を膨らませ、扉を叩いた。
セオドアにお願いされたことは二つ。依頼者である貴族の令息と友人になること。もう一つは令息の願いを叶えてやってほしいということだった。
「まあ、可愛らしいお坊ちゃん。待っていたわ」
くらくらするほど強い香水の匂い。ヒスイは顔に笑顔を貼りつけて、女性への嫌悪を隠した。
「恥ずかしい話なのだけれど、うちの子ったらもう手が付けられないほどの暴れん坊でね。いっつも怒っているんだから。なにがそんなに怒れるのか。あなた、たしかめてくれない?」
ヒスイは二つ返事でうなずいた。
けれどそれが間違いだったということに、すぐに気づかされることとなった。セオドアには悪いが、寒い路地を彷徨っているほうがまだましだったと思ってしまうほどに。
その日から、地獄の日々が始まった。
「いたっ」
件の令息の部屋に入った瞬間、おもちゃを投げつけられた。それがぬいぐるみだったら驚くだけで済んだだろうけど、それは木でできた馬車の模型であった。
当たりどころが悪かったようでこめかみのあたりが切れていた。押さえようとする間にも別のおもちゃが投げつけられる。
やめて、と言ってもやめてもらえなかった。出迎えてくれた女性に助けを求めれば、どうしてか満足そうに笑っていた。そして、ヒスイを置いて部屋を出ていってしまった。
毎日、毎日、終わることのない暴力にヒスイはわけもわからず襲われる。
「あははははッ!」
夢であってほしかった。どうか、すぐに覚める悪夢であってほしかった。
ここでは手足を動かせばものを投げられる。目を合わせれば殴られる。呼吸をすれば首を絞められる。
生きていれば、殺されかける。
存在は蔑ろにされ、人生を否定され、傷つくことを喜ばれ、死にいたるほど苦しむことを望まれた。
それでも、ヒスイは黙って耐えていた。
――だってテディにも、捨てられたくない。
セオドアの言いつけを守ろうと必死だった。自分を傷つけることが令息の願いなら、それを叶えなければならないと思い込んでいた。
そうしなければ、きっと「いらない」と追い出されてしまうから。
何日が経過したかわからない。けれどたぶん、プログラムの日数を満たしたようでセオドアが迎えにきてくれた。
ぼろぼろになったヒスイを見て、セオドアは怒っていた。後にも先にも、セオドアが誰かにあんなにも激情をぶつけていたのは、このときだけだ。
女性とセオドアが口論しているとき、ヒスイは無意識にセオドアに泣きついていた。離さないよう、ぎゅっと抱きついた。
「かえりたい」
涙とともにそれだけこぼれる。
帰りの馬車のなか、セオドアは頭を撫でてくれて、いつまでも抱きしめていてくれた。顔面蒼白になりながら、「ごめん、ごめん」とうわ言のように繰り返して。
「……捨てないで」
思わずもれた声に、自分を抱きしめる腕の力が強まる。それが答えだとわかって、ヒスイは安心してセオドアの腕のなかで眠りにつくことができた。
◇◇◇
話しながら、ヒスイは泣いていた。消えることのない傷をヒスイは抱え続けている。
「だから、テディも僕に強く言えないんだと思う。でもあのことがあったからテディのなかで僕は特別だっていう自覚も少しはあって……」
ヒスイは涙を何度も何度も拭うが、とどめなく流れるそれに追いつけない。
アパタイトがプログラムについて尋ねたとき、どうしてあんなにも打ちのめされて、おそれるような顔をしていたのか。ようやくその理由がわかった。
「プログラムに参加しなくちゃテディの役に立てないこともわかっている。だからそれを、スピネルの面倒を見ることで補おうとしていたんだ」
ずずっ、とヒスイは鼻水を吸う。
「アパタイトはもうコーラルと仲良しで、スピネルが怖い友人は僕にも近づいてこないし。スピネルから離れたら、僕は一人になると思って」
アパタイトはヒスイの手を握った。ヒスイの手は、とても冷たい。
「友人とは、一時のものではありません。と、僕は思います」
「アパタイトと話そうとするとスピネルが邪魔するし……僕もう、どうすればいいかわからなくなっちゃった」
「ヒスイがしたいようにすればいいです。僕はヒスイを尊重します。ヒスイがどう思おうと、ヒスイが僕の友人であることには変わりませんから」
ヒスイは弱々しく、けれどたしかにうなずいた。
善は急げ。思い立ったが吉日。誰が言ったかもわからない言葉。けれどヒスイは、自分を奮い立たせるにはいい言葉だと思った。
「テディ、話があるんだ!」
ノックもせず、勢いよく扉を開ける。
案の定、セオドアは目を丸くして驚いていた。ただ、記入していた書類を台無しにしてしまったことは謝った。
「それで、どうしたんだい?」
セオドアは手を止めて、いつもと同じで優しく聞いてくれる。
「僕、プログラムに参加したいんだ」
セオドアの体が強張ったのがわかる。
「誰かに、なにか言われたのかい?」
「ううん。僕はきっと、ずっとそう思っていたんだよ。コーラルやペリドットの話を聞くたびに、次こそはって」
「……ああ」
「あ、でもすぐにってわけじゃなくて。いつか、できれば一人じゃなくて誰かと一緒に……もっとできれば、アパタイトと一緒がいいなって……」
ヒスイの声がだんだんと小さくなっていく。
「じゃなくて、スピネルもいつかは僕離れしなくちゃいけないでしょ?」
弱気になってはだめだとヒスイは声の大きさを保つ。
「気づいたんだ。僕がスピネルの手を引いてあげる必要はないって。連れ出した責任があるのはわかっているけど……スピネルはもう大丈夫だって、僕わかるんだ」
ヒスイはにへらと笑った。
「怖くは、ないかい?」
「怖いよ。でもそれも大丈夫。僕はもう一人じゃないから。だからテディが、僕に負い目を感じる必要はないんだよ」
セオドアは目を見張り、安堵したように笑いながら息を吐いた。目元を押さえるテディの手の下から、つう、と涙が流れる。
「て、テディ?」
「すまない……すまない」
「テディが謝る必要はないんだよ! テディはいつだって、僕の友人で、家族でいてくれた。僕はそれがずっとうれしくて」
ヒスイもまた、負い目を感じていた。セオドアも責任を感じているのではないかと、心のどこかで思っていた。
「私を、許してくれるのか」
「許すもなにも、僕はテディに怒ってなんかいないよ。テディがいたから、僕はここにいるんだ」
「は……ははっ」
セオドアは泣きながら笑っている。けれど悲しそうではなくて。ヒスイも目頭が熱くなる。
それから二人でひたすら涙を流して、泣き止んだのは十分も経ったころだった。
セオドアは多忙な人だ。これ以上、時間を奪ってはいけないと思ってヒスイは執務室を出る。
久しぶりに、一人で静かな時間が訪れる。
ふと窓の外を見やると、庭に置いてきたアパタイトと、遊びにきたであろうエイヴァがいた。自然と足は動いていた。
「アパタイト、エイヴァさま」
何食わぬ顔をして二人に声をかける。なぜかエイヴァはいやそうな顔をした。
「なにしているの?」
「エイヴァさまが遊びにきたと言うので、話をしていました」
「話? なんの?」
「ヒスイには関係ないでしょ!」
わっとエイヴァが叫ぶ。
「ヒスイにも関係あると思いますが」
「なっ……私がないって言ったらないのよっ。どっか行って!」
エイヴァは顔を赤くしている。
「じゃあ、アパタイト。水やりの続きをしよう? さっきは途中で終わらせちゃったから」
「そうですね」
アパタイトをつれていこうとするヒスイに、エイヴァは衝撃を受けたような顔をした。ぷるぷると小さな体を震わせる。
「アパタイトは私と話してたのよっ」
ヒスイは、む、と口を尖らせた。
「もともとは僕と水やりをしていたんだよ」
「でもいなかったじゃないっ」
対抗せんばかりにエイヴァは頬を膨らませる。
「あのー……」
見かねたエイヴァの侍女が口を挟む。
「差し出がましいかと思いますが、花壇の水やりを終えてから、三人でお茶をするというのはいかがでしょうか?」
侍女はバスケットを掲げる。おいしそうなにおいがふわりと漂う。
「それなら僕はいいけど」
「僕も構いません」
アパタイトとヒスイの視線が、エイヴァの一身に注がれる。
「ま、まあ……それならいいわ。仕方ないわね!」
「じゃあ、行こうか。アパタイト」
「仲間外れにしないでよ!」
エイヴァはアパタイトの空いているほうの手を握った。
顔を赤くしてむきになっているエイヴァと珍しく対抗心を燃やしているヒスイとの板挟みになるアパタイトはやっぱり顔色が変わらなくて。
そんな三人の後ろで、エイヴァの侍女はほっとしたように微笑んでいた。




