デシーブ・マーガレット
私は目が覚めると、真っ白なマーガレットの花畑で仰向けに寝転んでいた。
なんでこんなところにいるんだろう。
そんなことが、ふと、頭をよぎったが、風がそよぐたびに鼻にこびりつくマーガレットの優しい香りを吸っては、肺を大きく膨らまし、そんなことはもうどうでもいいやと、考えるのをやめた。
私の目の前には、青い空が広がっている。
小さな雲が上から下へと流れていく様をみては、あぁ、あれに乗れたら気持ちよさそうだなと、雲の形を指でなぞる。
なんて私は幸せなんだろうか。
私は瞼を閉じ、もう一度目一杯呼吸をし、マーガレットの香りを肺へと詰め込む。
体中が花の香りで満たされる。
そんな幸せに包まれていると、ふと、不安に襲われた。
私は、こんなにも幸せでよいのだろうかと。
何もしていない私が、こんな幸せでいることが罪なのではないかと。
ありもしない不安が、ゆっくりと頭の中で広がっていき、私の焦りを掻き立てる。
とうとう、それに耐えられなくなった私は、むくりと上体を起き上がらせた。
私の視点は、先ほどまで見ていた青い空から、一面に広がるマーガレットの白い花畑へと変わった。
私はてっきり寝ころんでいる間は、ここは永遠に続くマーガレットの花畑なんじゃないかと思っていたが、実際はそうではなかった。
少し遠くのほうではあったが、私の視界には大きな湖が見えた。
そして、その湖のほとりに、古びた小さな小屋のようなものが見える。
なんだろう、と私はゆっくりと立ち上がると、その湖のあるほうへ、ゆっくりと歩きだした。
湖が近づくにつれ、足を進めるスピードは速まる。
マーガレットを踏みつけることをお構いなしに、私はパタパタと走っていき、とうとう湖のほとりにまで辿り着いた。
湖は、あまりにも雄大で、静かな深い青色をしていた。
私は畔に座り込み、湖の水面を見つめる。
その綺麗な湖の水面に、私は人差し指を突っ込んでみた。
突っ込んだ場所からは、円形に波紋が広がり、私の指を中心に波が生まれる。
だが、そんな現象も長くは続かず、私が指を水面から抜いた。
そしてまた、湖に平静が訪れる。
静かな水面を私は、またじっと見つめる。
どこまでも続く深い青に、私の瞳は吸い込まれるような感覚に陥ったが、「沈み込んではだめよ」という誰かの言葉に諭され、一歩足を引いた。
危うく、湖へと飲み込まれるところだった。
私は胸を撫でおろすと、次は左手の方向にある小さな小屋へと視点を移した。
小屋の入り口まで歩いていくと、入り口のすぐ横には水車がちゃぽんちゃぽんと規則的な音を立てながら、ゆっくりと回っている。
私はそんな光景を特に不思議と思わずに、小屋の入り口をキイと開けた。
小屋へ一歩、足を踏み入れた途端、私が先ほどまで着ていた赤いTシャツと黒いスキニーが、柔らかな白い布地のドレスへと変わっていた。
なんだこれと驚いたが、これはこれで可愛いし、私は自分がお人形さんみたいになったことが嬉しくて、つい興奮をしてしまった。
私の興奮は徐々に熱を失っていき、冷静になっていくほどに、小屋の様子を観察することが出来た。
小屋の真ん中には、木製のテーブルとイスだけが用意されていて、真ん中にはガラス製の丸い白熱電球だけが吊るされている。
そして、先ほど水車が回っていたちょうど向かい側の壁には、大きな時計がたけ掛けられていて、その針がチクチクと進む音だけが、小屋の中に静かに反響していた。
私は真ん中のテーブルまで歩いていく。
そして、イスを引き、そこに着席する。
すると、魔法のように、白いお皿に乗ったパンが一つと、黄色いコーンポタージュ、そしてよく焼けたステーキが一枚の食事が現れた。
しかも、その横にはお行儀よく、スプーンとフォークとナイフが並んでいる。
そんな食事を目の前にして、私のお腹は虫の音を鳴らした。
私は頂きますと食事の前で手を合わせる。
まず、素手でパンを掴み、それを少しちぎって、口の中へと放り込む。
小麦の香りが口の中へと広がり、幸せが口を犯していく。
もう一度、パンを小さくちぎると、次にコーンポタージュへとそれを浸し、そして口へと運ぶ。
先ほどとは違った美味しさに、私は思わず悶えた。
パンをちぎりは浸し、ちぎりは浸しを繰り返していると、いつの間にか、手の中のパンはすでに無くなっていた。
あれっと、私は少し悲しさを覚えると、パンのカスが少し浮いたコーンポタージュを、お行儀悪く、お皿に口をつけ一気に飲み干した。
ふぅ、と私はそれも空にすると、フォークとナイフを手に取った。
お待ちかねの良く焼けたステーキが私の目に映る。
そのステーキをフォークで押さえ、ナイフで切り取る。
ステーキからは肉汁が滴り落ち、そのあふれ出す香りが、私の食欲を掻き立てる麻薬のように誘惑する。
私は一気に、それを口の中へと頬張ると、何とも言えぬ美味しさが広がり、私は絶頂を迎えた。
止まることなく、もう一口、もう一口と食べ進め、ついにステーキは最後の一切れとなった。
私はそれをじっと見つめ、口に頬張ろうとした。
カランカランカラン。
床に刃物が落ちる音がした。
私はハッと目を覚ました。
手に持っていたナイフが床に落ちたのだろうかと、下を向く。
そこには、赤黒く、べっとりとした血のついた包丁が一本転がっていた。
「あれ、ステーキは?」と眠気眼で呟くが、私は血なまぐさい匂いに、すぐに正気に戻った。
あたりを見渡すと、そこは小さないつもの私の部屋で、煌々と白い照明が部屋の中を照らしている。
テレビはつけっぱなしだようで、面白くもないお笑い芸人が、下品に大声で笑っている。
いつもと違う点と言えば、私に映るものすべてに、赤い点々とした血飛沫が付着していることぐらいだろうか。
先ほどのテレビも、画面の半分は大いに血が飛んでおり、ところどころテレビの画面が虹色に点滅している。
その他にも、白い壁や天井、カーテン、テーブル、本棚にいたるものすべてに、べっとりと血が飛んでいた。
そして、私が眠っているいつもの白いベッドの上。
もはや白ではなく、赤黒く変色しているのだが、そこには彼氏だったものが仰向けに横たわっている。
下腹部から大量の血を流し、刺し傷からは小腸や大腸がぽこぽこと顔を出し、飛び出している。
顔面は、もはや元の形状がわからぬほど、引き裂かれていて、パックリと割れた柘榴のように、皮膚の裏側の気持ち悪いミミズのような血管や、鼻骨であろう白いものが見えている。
そして、もう一人。
見知らぬ女が、彼氏だったものの横で口から舌を出しながら絶命していた。
そいつも同様に下腹部から、大量に血を流している。
私は自分の両手を見つめた。
べっとりと血が付着し、生臭い。
何より、着ていたお気に入りの白いTシャツが真っ赤に染まり、水分を吸っているからだろうか、少し重く感じた。
私はソファーに座りながら、天井をボーと見つめていると、ふいにお腹の虫が声を上げた。
「あ、そういえばステーキ」と、私は血の付く素足でぺちょぺちょと足裏を鳴らしながら、台所へと向かう。
冷蔵庫を開けると、お誕生日のために買ってきたステーキが一枚入っていた。
私は鼻歌を歌いながら、そのステーキをフライパンで焼いた。
肉の焦げるいい匂いが立ち込め、私の食欲をそそる。
ここだという頃合いを見計らい、私は焼けたステーキを白いお皿の上に置いた。
途中、付け合わせはないかと冷蔵庫を開けたが、中には、記念日用に買ったホールケーキだけが鎮座していて、それ以外の物は入っていなかった。
このケーキ邪魔だなと、私は箱から中身を出すと、ケーキをそのまま、横たわる不細工な女の顔に思い切り叩きつけた。
これでスッキリしたと、私は台所へと戻り、食器棚からフォークとナイフを取り出した。
そしてステーキを一切れ、ナイフで切り取ると、それを口の中へと頬張った。
その何とも言えぬ美味しさに、私は絶頂を迎える。
そして、もう一口、もう一口と食べ進めると、とうとうステーキは最後の一切れとなった。
あの時、食べることの出来なかった一切れ。
私はそれを口にゆっくりと運ぼうとした。
すると、玄関の扉を誰か何度も叩きつけ、「警察です!大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と叫んでいた。
それもそうか。
あれだけ彼氏だったものが絶叫して、横にいた女も絶叫していたもんな。
隣に聞こえても仕方ないと、私は納得した。
まぁでも、浮気したのが悪いんだし、これもお互い様だよねと私は心の中で呟くと、ステーキの最後の一切れを口の中へと頬張った。
「ごちそうさまでした」
私はそういうと、白いお皿の前で手を合わせた。
そして、包丁を一本取り出すと、私は自分の喉へと刃先を当てた。
「いい様だね。ばいばい」
そういうと、私は一気にその包丁の刃先を喉の奥へと突き立てた。
血飛沫が放物線を描いて、飛んでいく。
台所に飾ってあったマーガレットは、すでに赤く染まっていた。
マーガレットの花言葉:「真実の愛」
Twitter:@kiriitishizuka