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5話 入れ替わり生活

 アレクシアは、よろよろ、壁に手をつきながら廊下を歩く。


「こ、の、雑魚ナメクジぃぃぃぃ……ッ!」


 事故から二週間。〈プリシア〉としての生活は、とにかく困窮を極めた。

 お嬢様、お嬢様、とメイドたちが世話を焼き、身の回りに不自由がないのはいいのだが、いかんせん身体が弱すぎる。

 空腹では力が出ないのだが、この身体(プリシア)には肝心の食欲が、つまりは食の喜びというものをまるで知らないことが原因だ。

 食い、動かねば、心身が弱る――三食に三度のティータイムを満喫、昼間は剣や馬、メイドたちで遊んでいたアレクシアにとって、これは辛い。


 ――お嬢様は、この青汁を好んでおりました


 初日の朝食。事情を聞いたメイド・サマンサは言い、目の前に置いたのは緑の水が入ったグラス一つ。アレクシアは思わず『ボケにしては雑ですわ』と睨んだ。

 イルティム国は祖国・マダンに比べると裕福な国だ。

 そんな王女様の食事は、柔らかなパンにバター、卵や肉、季節のフルーツなどもあるか――などと期待していた矢先の、池の臭いがする液体である。

 恰幅のいいメイドの目は『マジです』と告げており、アレクシアは生まれて初めて天に祈った。


『神よ……私の行いはすべて償い、これから正しい生き方をしたいと思います。親孝行もしたいと思います。だから、だからこの地獄の悪夢から、覚ましてくださいまし……』

『本物のプリシア様が、きっと正しく生きて下さいますよ』


 神の代弁にしか聞こえない、絶望的な言葉であった。

 精神と肉体が別々のためか、アレクシアが拒絶しても〈プリシア〉の身体が欲し、えづきながら飲み干すしかなかった。


 ――近く、この身体に殺される


 身体が弱ければ精神も弱い。

 頭に浮かぶのは、とにかく“死”について。どのように前向きに考えても『でも――』と悲観・否定する。

 そんなタイプが一番嫌いなアレクシアは次第にムカムカし、ある夜、ついに決断した。


 ――この身体をびいびい泣かしてやるッ


 これまですべて、自分の力で解決してきた。

 誰かの力を借り、依存して生きる……いや、生かされるのなんて屈辱以外ない。


「この私が負けるなんて、ありえません、の……ッ」


 重い足、身体に鞭を打ち、アレクシアは歩き続けた。

 直前。胃に納めたものが逆流しそうになるのを、ぐっと押さえ込む。パンやサラダ、肉や魚、スープなどのたくさんの料理を運ばせ、拒絶しようが、えづこうが、涙しようが、無理やり口に運んだ。


 これは自分(プリシア)との戦い――。


 拒絶し、嘔吐しても押し込む。胃に無理やり押し込み、吐いたらまた押し込む。

 その光景は、傍目で見れば頭のおかしくなった女である。

 サマンサをはじめ、父母までも止めさせようとするが、


『娘を想うなら止めないでくださいまし……ッ、あなたがたが過保護であったから、こいつが軟弱になったんですの……ッ』


 強い言葉で、アレクシアは拒絶した。

 食えない身体を食わせるのは、まさに拷問だった。

 無理やり口に入れるアレクシア。

 涙を浮かべながら、嘔吐を繰り返すプリシア。

 一人二役をやりながら、身体を調教してゆく。他人が無理やり食わせると食事が嫌になるが、どちらも自分なのでその心配はない。


(し、しかし、これは逆にチャンスですわね)


 食後はひたすら歩いて運動、吐いたらそのぶん押し込む。

 二週間これを繰り返した結果、一般的に“小食”にあたるほどの食欲と、“ナメクジ”レベルの体力を得た。それにつれ、ちょっとずつ、自身が“悪女(アレクシア)”であったことを思い出してくる。


「ちょ、ちょっとそこの……」


 若い男の使用人を見つけると、口を押さえながら呼び止める。

 ハッと気付いた男は慌てて、周囲でバケツか何かを探すのだが、


「手を」

「……は?」

「手を」


 男は理解したのか、椀状にした手を前に差し出した。


(この身体では、これもご褒美のようですわね。うふふ……)


 イルティム国の支配はそう難しくなさそうだ。

 嘔吐したアレクシアは、人知れずニヤリと悪辣な微笑みを浮かべるのだった。


 ◇


 また〈アレクシア〉ことプリシアも、マダン国の屋敷にて困惑していた。

 部屋には彼女の母が用意したと思われる絵画と、書物が山積みに。

 帰りの馬車の中、『シャフィールの詩集が好きで』と話すと、同じ本の虫だったらしく、話が弾んだのである。


「名簿や帳簿を眺めているだけでは退屈でしょう、とのことです」


 屋敷の管理と、世話を担っている老人・ジャンが言う。

 事情を話すもすぐには信じず、今もなお疑いの目を向けている。


「あ、この本って、もしかして」

「クマンの『屋根の下』ですな。定番の男女の物語で、貴族の娘たちは――」


 山積みの本から取り出した本の、その題を見た直後、プリシアの目がカッと見開かれた。


「よ、四巻!? 四巻があるんですか!?」

「それは奥様の自慢の一品ですな。子孫から直接譲り受けたと」

「ああ、やはり続巻があったのですね……! 何度読んでも二巻の『雨音の調べ』と、三巻の皇帝の妾が慈悲で奏でたレクイエムは繋がっているはずなのに、あの終わり方は変――」

「お嬢様の、タチの悪いイタズラと疑って申し訳ありませんでした」

「そんなになんですか……?」


 ジャンは「()()の一行も読めないので」と言う。

 まさか、と思うプリシアであったが、それよりも『四巻がある、ない』で論争が起こるほど希少なそれが、手に握られていることに感動を覚えてしまっていた。

 早く読みたい。胸に本を抱え、ニマっと笑みを浮かべたその瞬間――


『きゃあっ!?』


 外から悲鳴と、何かが割れるような音が。

 何ごとか、とプリシアが外に出ると――


「も、申し訳ございませんッ、お皿を、お皿を割ってしまいました……ッ」


 メイドがガタガタと震えながら、床に這いつくばって謝罪している。


「えぇっと、貴方はダリアでございましたね」

「は、はい……っ、何とぞ、何とぞご容赦を……っ」


 いったい、この身〈アレクシア〉は何をしてきたのか。

 皿の一枚や二枚。どうってことはないものの、この怯え方は異常だ。


『この中で泣かされなかった者は誰一人としておりませぬ。このマダン国の支配者は国王ではなく、アレクシアお嬢様なのです』


 横からそっと、ジャンが耳打ちをする。

 そして、馬上鞭が手渡された。


『この馬上鞭は……?』

『メイドの折檻用です』

『そう言えば、この廊下に置かれているベルと手綱は……?』

『お嬢様がメイドに乗馬するためです』

『各所に置かれた椅子と砂時計は……?』

『お嬢様の休憩用です。砂時計が落ちるまで気づかねば、全員懲罰です』

『……誇張ではなく?』

『事実です』


 プリシアは試しに、馬上鞭をひゅんと振ってみた。


「う゛ッ……う゛う゛う゛ー……ッ、ご、ごめんなざい……ごめんなざい……ッ」


 とんでもなく身体を震わせ、嗚咽まで漏らし始めるではないか。

 しかもその指先は、赤滲んだ古いぼろ切れが巻かれている。


 ――極力、お嬢様として振る舞われるよう


 大臣はそう告げた。

 しかし自身は〈アレクシア〉であって、彼女ではない。

 振る舞うのは他の面ですればいいだろう。

 プリシアは鞭を置いて、震える彼女の前に腰を落とした。


「ダリア。顔を上げなさい」

「は、はい……っ」


 メイドの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。


「皿の一枚や二枚、気にすることはありません。罪に(あたい)するのは、それを黙っていること。正直に打ち明けてくれたのですから、今回は許します」

「え……」

「ですが、この屋敷のものは国のもの。壊したならその償いを――みなに、何かミスをしたり、要望があれば私か大臣に言うように告げなさい。それに対する罰は小さなものに、隠した場合はこれまでの鞭を与えます。いいですね?」

「は……? は、は……はい……っ」

「それと……その手、ボロ切れでは傷が余計に悪くなります。ちゃんとした包帯を用意させましょう」


 そう告げ、メイドの脇を抜けて廊下を歩いてゆく。

 後ろから追いかけてきたジャンは、静かにプリシアを窺った。


「――よろしいので?」

「これぐらい、アレクシア様も許してくれるでしょう」


 曲がり角でメイドを確認すると、まだ呆然と跪いたままの恰好だった。


(やはり、恐怖政治で支配していたのですね)


 馬上鞭は至る所に置かれ、どれも恐ろしく手に馴染む。

 人でなしは本当なのかしらと、冷や汗をかいてしまうのだった。

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