笛吹き男の妹が今日も私を殺しに来る。
カラメル色の空にかすんだ河原を見下ろしながら歩くと、5年前のあの日を思い出す。
あの人の指が軽やかに動くと、柔らかな笛の音色が草をなでる風のように走る。
二人だけの秘密の場所がそこにあったのだ……。
家柄も良く品行方正に育てられた私だったが、幼少期は過度な家柄が周囲との溝を作り、学校帰りの河川敷を歩く時間だけが、心穏やかになれる唯一の安らぎだった。
誰にも会わない静かな秘密の場所。
そこでは普段、誰にも見せられない自分を解放し、さなぎから蝶になったかのように草のトンネルを通り抜ける事も出来たし、風に震えた草が空に放り投げた水滴の間を舞い踊る事も出来たのだった。
だが、そんなある日の事。
草の向こうからやさしい笛の音が聞こえてきたのだ。
黄昏に染まった草むらの向こうが浮春の里へ繋がったかのような柔らかな調。
その笛の音に惹かれて、草の簾をかき分けると、
そこに、あの人がいたのだった。
思い出の中の彼の顔は、カラメル色の空に溶け込んでいる。
ただ笛の上を軽やかに動く美しい指先だけが鮮明に思い出された。
あの頃もはっきりと顔を見たわけではない。
草の簾に隔たれた向こう側で、あの人の奏でる笛の音の温かい手で包み込むような柔らかな曲に、妖精の笑い声が草の間から聞こえてくるような心躍る曲に、胡蝶の夢を重ねていたのだろう。
それで満足だった。
それで、私の心は満たされていた。
そんな満たされた思いが、大人たちの警告を幼い私の頭から抜け落ちさせるのは容易であった。
学校や家で幾たびも「小さな子供を連れまわす不審者が出る」と教えられていたのだ。
知らない人に近づいてはいけないと……。
突然、笛の音が途切れ私は大きな影に抱きすくめられた。
凄い力だった。
抗えぬまま抱え上げられると、大勢の大人たちの声が濁流となって耳をふさいだ。
「怖かったね」、「もう大丈夫だから」、「怪我はない?」 「もう怖くないよ」、「大丈夫」、「大丈夫」、「大丈夫」……。
呪文のように繰り返され、頭の中をがんがんとかき回す。
何が大丈夫なのか?
私はただ悲しかったのだ。
笛の音が遮られた事が。
草の簾が踏みつけられた事が。
蝶の羽を美しく輝かせて舞っていた自分の服が靴が泥にまみれていた事が。
だから私は、大声で泣いた。
笛の音も、大人の声も、聞こえなくなるまで大声で泣いた。
その日、笛吹き男と呼ばれた不審者が捕まったという話を知ったのはかなり後になってからだった。
あれほど優しい笛の音を奏でた人が不審者だったのか、今はもう分からない。
でも、あの日の美しい笛の音は今でも……。
えっ? 笛の音が聞こえる!
あの時と同じように、カラメル色に染まった草むらの向こうから。
まさか、あの人が?
「ブベー、プペー」
……うん、絶対違う。
子供が吹いているにしても余りにも下手すぎた。
近所の子供が吹いてるんだろうと思ったが念のため姿を確認してみると、やはり小学生の女の子が縦笛を吹いていた。
だがカラメル色の空に溶けかけた輪郭を持つその子は並々ならぬ禍々しさを備えて自らに深い闇を集めているようであった……。
「ふふっふっふ、やっと来たわね。この曲を吹いていれば、必ず引き寄せられると思っていたわ」
なに言ってるのこの子。
曲って言った?
今の笛の音は何か曲を吹いてたの?
「ブベー、ベッ、ズッ、プー。やはり覚えがあるようね、……あの女に間違いないわ」
笛に詰まった唾を吸い込む音が混じり、どんなメロディーを奏でているのか分かる者は人間の可聴領域の耳を持つ生物にはいないだろう。
「何の話なの? よく分からないけど、違うわ」
「誤魔化すつもり? この曲を聴きなさい、これでも、しらばっくれられて? プーペッベッ、ズッ、ゲッホゲッホ……」
笛から唾を吸い込んでむせている。
今のうちに立ち去ったほうがいいのか、むせている子供を気遣ったほうがいいのか、悩んでいる間に女の子は口元を袖で拭きながら復活したようだ。
「今のタイミングで逃げ出さなかったのは、殊勝な心掛けね……まぁ、逃げ出したりすれば、ベリュドリニの結界で切り刻まれただけだけどね」
結界? 切り刻む?
この子いったい何を言っているの?
ものすごく嫌な予感がする。
何がしたいの?
この草の間の闇から湧き出たような少女は……本当に、人間なの?
やっぱり立ち去ったほうが良かったのでは?
「どこへ行こうというの?」
知らぬ間に後ずさろうとしていた足が草を踏みつけた瞬間、背後から少女の声がした。
今まで目の前にいたのに?
「ブーップッペ」
振り向くより早く背後に回った少女は後ろで縦笛を吹いていた。
「なんで? いつの間に? あなたは?……」
人間がそんなに速く動けるはずがない……。
「やっと、分かったようね。プップー、ここで、ペーッペプ、この曲を吹いてた笛吹き男は私のお兄ちゃんよ!」
「え? どういう事?」
「ペペッペーブペー、ッペーズッズッペ」
「何? 何なの?」
「私がせがんだからお兄ちゃんは……、笛吹き男はここで練習していたのよ……私のために……。
でもね、通りがかった一人の女に罪を着せられて笛吹き男は捕まったわ。妹のために一人笛の練習をしていた兄は、変質者・笛吹き男として捕まったのよ!」
まさか、あの日のあの人が、この子の兄なの?
そしてあの人が、笛吹き男として捕まったのは、私のせいなの?
「ベッベーズッズー、プー! こうしてこの曲を引いていれば、あの女がやって来ると分かっていたのよ」
分からない、でもその笛の音が聞いた事もない曲だという事だけはわかるわ!
「この曲でおびき寄せて、お兄ちゃんに罪を着せた女に償わさせるために……待ってたのよ。5年間、ここで笛を吹いて待っていたのよ!」
5年もここで? いやそれより、それだけ笛を吹いててそんなに下手なの?
確かにその人には心当たりがあるけど……。
その変な曲に引き寄せられたと思われるのは、嫌よ!
「違うわ、私はたまたま通りかかっただけよ」
「今さら、そんな言い逃れが出来ると思って? ベリュドリニ逃げ道をふさぎなさい!」
……ベリュドリって何?
「ふふっ、青色のベリュドリニほど高位の魔物を使役している私の恐ろしさがようやくわかったようね」
魔物?
女の子はな見えない何かに話しかけるような動作をしている。
何かがそこにいるの?
未知なるものに対する恐怖が沸き上がる。
「これから、ゆっくりと切り刻んで……。はっ、もうこんな時間? 仕方ないわね、今日のところはこれくらいにして置きましょう。あの女を楽に殺すつもりはありませんからね、それは覚えておきなさい。次に会ったときは……時間をかけて、ゆっくりと……プベー、ププペー」
何をしに来たんだろうか?
縦笛を吹きながら黄昏に染まった草むらに消えていく少女を見送っていた。
その後ろ姿に考えるまでもなく目的は分かっていた。
とりあえず、今は助かったみたいだけど、
少女はもう一度、現れるだろう。
いや、少女は何度でもやって来る。
私を殺すまで何度でも……笛吹き男の妹がやって来る……。