猫はなく
三歳の時に両親が亡くなり、わたしは子どものいなかった遠い親戚であり名門のハノーヴァー伯爵家に養子として引き取られることになった。
幼いながらに両親の死を理解していたわたしは新しくできた親に懐くことができなかった。
可愛げのない態度ばかりをとるわたしを義両親は早々に見限ると、必要最低限のことしか関わってこないようになった。
そもそも引き取る際も渋っていたと聞く。そうなるのも仕方ないことなのかもしれなかった。
豪奢な家、綺麗なドレスや美しい宝石、家庭教師がついたりと、今までと比べ物にならないほど贅沢な生活にはなった。
けれどいつもつかみどころのない悲しむが胸を燻っていた。
義父と義母は時を重ねてもわたしを見てくれることはなかった。愛情というものを注いでくれることはなかったし、感じることは一つもなかった。
一番愛情に飢えていた時期にそれを与えられなかったのだ。
わたしはどこかひねくれていて、沈鬱な女と成り果てた。
そんなわたしに敬意を払う人間など一人もいなかった。彼らにとってわたしは空気の存在が見えないように、その程度のものであったのであろう。
泣きたくても泣けない、叫びたくても叫べなかった幼少期はわたしの記憶と心に大きな傷を残した。
六歳の時に、義弟になるクレイオが生まれた。義両親ができないと諦めていた実子で、しかも男の子だ。周囲も歓喜に沸き、連日のように祝福の言葉や品が家に届けられた。
クレイオの誕生日は、義両親が完全にわたしを見ることがなくなった日だった。
周囲の関心が完全にクレイオに集まってしまったことで、僅かに抱いていた愛されるのではないかという期待は粉々に砕け散った。
それとともにクレイオを見ると、憎悪と羨望と嫉妬に満ちた感情に駆られるようになった。
「あねうえ!」
「……」
「ほんをいっしょによみませんか?」
姉を慕う純粋な言葉を無視する。しゅんとしおれた花のような表情を見ても可哀想という気持ちは一つも湧いてこなかった。
常日頃からクレイオはわたしに積極的に話しかけようとしてきた。たとえ義両親に良い目で見られなかったとしても。
純粋無垢な笑顔を向けられて懐柔されない人などいないだろうが、養子としての引け目と愛されない劣等感も相まってわたしは義弟が苦手で、嫌いだった。
ただの嫉妬と言えばそれまでだが、輝かんばかりの眩しい笑顔も苛立ちの材料の一つにしかならず、クレイオを無視し続け、時には鋭く睨んだりもした。
さすがに他人がいる前では良い姉として振舞ったが、義両親はそんなわたしの小賢しさを見抜いていたのだろう、ちくりと釘を刺してくることがあったりもした。
そんな言葉などわたしにとっては何の意味のないものだったけれど。
年を重ねれば次第にクレイオは話しかけてくることはなくなり、代わりにわたしを目を細めて見てくるようになった。きっとそれは心底侮蔑を込めた視線だったに違いない。
それでいいと思った。それでいいと思っていた。
クレイオがわたしを恨めば、わたしのどうしようもない劣等感とくだらない嫉妬心も少しはマシになると思っていた。
しかし常に視線を送ってくるとなると話は別だった。
どこに行こうが付き纏う視線を感じるたびに最初こそ鬱陶しいと思っていたが、それが何年も続くとなるとそれは不快より恐怖に近いものとなり、心理的な圧迫感を感じるようになった。
成長していくにつれ流石のわたしも単純にクレイオが嫌いだいう気持ちは薄れていったが、その代わりにクレイオの存在自体に恐怖を抱くようになり、義弟の姿が目に入るたびに身体を固くして目を逸らした。
クレイオは一言で言ってしまえば、稀代の美少年だった。その美しさはデビュー前にもかかわらず社交界でも話題になるほどで、加えて歴史ある名門伯爵家の跡取りとなれば縁談がひっきりなしに舞い込むのも当然のことだった。
わたしは義弟の美しさにすら恐怖を抱いていた。自分が醜いのは十分承知の上で比べてしまい、目を閉ざしたくなるような惨めさに何度も襲われた。
低い鼻にソバカスが散った肌。視力が弱く目を細めて見る癖がついてしまったせいか、目つきも悪い。嫌に細く全体的にどことなく子供っぽい体つきもコンプレックスの一つだった。
「何でわたしはこんなに醜いのかしらね……」
「ニャー」
「慰めてくれるの?クロ」
ふらりと現れてはいつの間にか消えている自由気ままなこの黒猫は、わたしの唯一の癒しで小さな幸せだった。
艶々とした真っ黒な毛並みを撫でれば咽頭を鳴らす低い音が聞こえ、つい口角を上げる。
わたしは自由で美しいクロが羨ましくて仕方なかった。撫でる手を止め、周囲が気付かないぐらいに小さく口を開けた。
「わたしがもっと綺麗だったら、素直だったら……誰か、愛してくれるのかしら」
その言葉にクロはキョトンと紫紺の瞳でこちらを見上げるだけで、その理解してない様子に少しホッとした。
こんな恥ずかしいこと、人の前では言えやしない。
ただこの子がそばにいてくれているという事実があればそれで良かった。
泥を噛むより辛いことは度々あったけれど、そんな時でさえクロの前で泣くことはなかった。
「ねえ、クロ……あなただけはずっとわたしのそばにいてくれる?」
「ニャーン」
「ふふ、ありがとう。大好きよ」
抱き上げて小さいキスを落とすと、クロはくすぐったそうに身じろいだ。
クレイオが十六歳の時、王家に彼自身の魔法の才を見初められた。クレイオは家を出ることを大層渋っていたが、義両親や周囲の人も大層喜んだ上、流石に王家の誘いを断ることもできず出仕することになった。
完全に離れ離れになるのはクレイオが生まれてから初めての事だった。
あの視線をもう感じずに済むのだ。恐怖と劣等感がこれ以上増えることは無いのだ。
ようやく呪縛から解き放たれたのだと思うと、思わず涙が出そうになった。
クレイオが家を出る時にはわたしは二十二歳になっていた。行き遅れと言っても過言ではない歳になり、クレイオがいなくなったことで義両親もそろそろ世間体を気にし始めたのか、口煩くなった。
むしろ今までそのような話が一切上がらなかったのが不思議なくらいだ。
進展のなさそうなわたしの様子に痺れを切らした二人はとうとう縁談を持ってきた。相手は二十歳年上の伯爵家当主で傲慢醜悪、女を人として見ないと有名な男だった。
義両親のことを最初から信頼してなどいなかったが、これはあまりにも酷い仕打ちだと絶望に打ちひしがれた。きっと彼らの目にはわたしは嫌悪感の対象としてか映らなくなっていたのだろう。
今まで育ててくれた恩を今こそ返すべき時なのだろうが、縁談相手と会った際に本能的な不快感を味わってしまった。それこそこの男と結婚するぐらいなら死んだほうがましだと思うぐらいには。
義両親に訴えて別の相手に代わったとしても結果は同じだろう。
わたしに断る術など持ち合わせていなかった。実の両親はおらず、頼れる人など存在していなかったわたしに、選択肢など一つしかなかった。
わたしは恩を仇で返すように、手紙の一つすら書かずに家を出た。
*
持っていた宝石を全てお金に換え、何とか資金を捻出し自分の街から離れることかできた。
縁談から逃れるために家を出てきたのはいいものの、その後の計画はあってないようなものだ。
どうしようかと三つ離れた街に来たところで足を止めた時、視界に何か黒いものが映り込んだ。
ドキリとしてその正体に視線を持っていくと、わたしはハッと息を漏らした。
「クロ!?」
足元にすり寄って来る黒猫は間違いなくあのクロだ。クレイオの登城の話が出てきたあたりから見なくなったと思っていたのに、こんな時にひょっこりやって来るとは。
「……ついてきちゃったの?」
「ニャッ」
わたしの意思を汲むように返事をするのもいつものことだった。
相変わらずの愛くるしさに相互を崩しそうになるも、なんとか顔を引き締める。
「だめ、帰って」
「ニャー!」
「だめったらだめなの!」
「ニャオ」
ダメだ、理解してくれそうにない。
ついムキになってしまったが、相手は猫だという事実に気づき肩を落とす。
「もう、しょうがないなあ」
連れていくしかないかと思わず頰を緩めてだらしなく笑ってしまうと、クロはわたしの足に頰を擦り付けた。その様子が愛しくて、思わず持ち上げ抱き締めた。
そばにいるというあの約束を守ってくれているかのようなクロの様子にくすぐったい気持ちになった。
ゴロゴロと喉を鳴らすクロにわたしはすっかり骨抜きにされてしまっていた。
宿などすぐ見つかると思っていたがペット同伴を許可している宿がなかなか無いことに日が落ちてから気付いた。焦って駆けずり回るも可能な宿に限ってもう部屋は埋まってしまっている。
ハッと我に返ればいつのまにか夜も更けていて、沈黙に包まれる街に時折犬か狼かの遠吠えが響き渡った。
初めて経験する外で感じる夜の空気に息を呑み、無意識に足音を小さくしたその時、ようやくクロがそばにいないことに気づいた。
独りぼっちになってしまっていた事実が全身に動揺を走らせ、どうしようとうろうろ宿の周りをうろつくことしかできなかった。
わたしは理解していなかったのだ。夜に女一人でいることの危険さを。
背後から忍び寄る足音に気付いた時には遅かった。
あっという間に三人の男に囲まれ、腕を掴まれる。
「な、何!?」
「おお、こりゃ上玉だな」
「いやっ!!」
「お貴族様じゃねえか!」
「離して……っ」
「こいつは高く売れそうだな!」
男達の言葉に心臓が冷えた。
最近よく耳にする人身売買。まさかこれがそうだと言うのか。
ピンチだ。これはまさにピンチだ。
元より周囲に人などいなかったし、真っ暗な路地裏に連れ込まれ、救けは絶望的だ。
わたしの抵抗はあってないようなものだった。腕を振り回そうとするも非力な腕ではビクともしない。
汗なのか脂なのか分からないねっとりした手に口を塞がれ鳥肌が立った。
抵抗も虚しく猿轡をされ全身を縛られ、もうだめだと思ったその時だった。
「やだなあ。僕がちょっと目を離した隙に、なんて」
どこかで聞き覚えのある声が聞こえ、ハッと顔を上げれば驚愕に目を見開いた。
青年と呼ぶにはまだ早い、美しい少年がそれはそれは綺麗な笑みを携えてそこにいた。憎いほど真っ黒で艶のある髪、長い睫毛と神秘的な紫紺の瞳。月明かりに照らされたその姿は品性があるも、どこか物悲しげだった。
彼が発した怒りを含んでいることが分かる静かな声は、この場を支配するに足る力を持っていた。
何故、何故ここにいるのだ。いるはずのない存在に思わず目を瞬く。常に携帯していたはずの恐怖心は今ばかりは忘れてしまっていた。
「あーあ、こんな跡つけられちゃって」
男はゆっくり近づいて来るとわたしの腕をとり、強く掴まれたことで痣になったそこをスルリと撫でた。
そしてポッと男の指が光ったかと思うと、パラりと縄が解け猿轡から解放された。
その瞬間恐ろしいものが体中を走り抜けるのを感じ、凍り付いたように足が動かなくなった。
男の姿に見覚えがある。いや、見覚えもあるもない。
目の前にいる美しい男は疑いようもなく、わたしが恐怖を抱き続けた相手――義弟、その人だ。
「な、なんで……」
「なんだてめえは!!」
「獲物を横取りする気か!?」
わたしの言葉はすぐに殺気立った男たちの声に掻き消されるも、クレイオはわたしの腕を引き壁際へ寄らせた。
疑問が限りなく頭の中に思い浮かぶが、それを口に出せる時ではなかった。
「僕のモノに触ったのは君?」
「うぎゃあ!!」
「それとも君?」
「ひぎっ」
「それとも君かな?」
「あ、あ、ああああああ!!」
クレイオの手から出た氷が刃物の形に変形した瞬間男たちの体を貫ぬいていく。血を吹き出した男たちはすぐに事切れていった。
目の前で繰り広げられる男達を殺戮する一部始終を、わたしは腰を抜かしただ呆然と見るだけしかできなかった。
クレイオがこちらを振り向いた瞬間我に返り、ひっと喉の奥が引き攣り変な音が漏れ出た。
無表情でこちらに近づいて来るクレイオが知らない男のようだった。
全身が心臓になったようで、バクバクとした大きな音が頭の中に響く。
次はわたしが殺される番だと思った。今ここになって今までの事が思い返される。
こうして目の前にしてわたしはクレイオが凄い魔法使いになったのだと、簡単にわたしのことなど殺せるのだと、ようやく理解したのだ。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ!」
「……」
随分と身勝手な謝罪に応えは無い。
コツリと音が耳に入った瞬間、わたしは後ずさりをした。こちらに向かって歩いてくる足音はまるで死刑宣告のようであった。
「勝手に出ていくなんてて、お仕置きされて当然だよね?」
クスクスと笑いながら、クレイオはわたしの背中と膝裏に手を回した。
グッと持ち上げられパニックに陥る。
「やだっ、やめて!お願い!」
無情にも叫ぶ自分の声は届くことなく、景色が一瞬にして変わったかと思うと、クレイオはわたしを柔らかいベッドに押し付けた。
ここはどこなのだ。明らかに自分の家ではない場所で押し倒されてさらに困惑する。
魔法を使ったことまでは分かるが、興奮したわたしの思考は正常に動かなかった。
何か情報を得ようと見上げた先にあったクレイオの目は恐ろしい程に笑っておらず、勢いよく顔を逸らした。
それが気に入らなかったのか、クレイオはわたしの顎を掴みぐいっと無理矢理目を合わせられた。
「ねえ、どうして目を逸らすの?」
「っ、ごめんなさい!ごめんなさい!!」
余りにも取り乱した震えるわたしを見てクレイオは舌打ちをしたかと思うと、ポンと音を立てて目の前から消えた。
――いや、消えたんじゃない。
猫になったのだ。
いつもの純粋な眼差しとは違った紫紺の瞳がこちらを睨み見据えている。
ガチガチと歯まで音を立て始める。体の震えはもうどうしようもなかった。
あんなに可愛がっていたというのに、わたしはもう目の前にいる猫がもう恐ろしいものにしか見えなかった。
今まで義弟にずっと話しかけていた行為に対しての羞恥心は、それより遥かに強大な絶望と恐怖に飲み込まれ、視界がぐにゃりと歪んだ。
それでも僅かに残っていたプライドが無意識に涙は流させまいと口を堅く引き締めさせた。
そんなわたしの様子を人間の姿に戻って目を見開いて食い入るように見てきたかと思うと、突如顔を近付けわたしの目尻に舌を這わせた。
唖然として見上げると、クレイオの口は愉快そうに歪んでいる。次いで血のように赤い自分の唇でペロリとわたしの唇を舐め上げた。
「ダメだよ、他の男なんかに触らせちゃ。視線も、息も、声も体も……心も、全て僕のものなんだから」
クレイオは手首を掴む力をゆっくりとかけていった。つけられた痣をわざと刺激され、痛みに顔を顰めるも恍惚とした表情を浮かべるだけで、それは一層恐怖心を煽った。
「ねえ、ないてよ。僕の猫」
そう言った声は甘くもどこか毒々しくて一度味わえば抜け出せなくなるようで、それはまるで不穏な未来を示唆しているようでもあった。
しかしわたしはそれが現実となるとは夢にも思ってみなかったのだ。
この後クレイオに軟禁されいつの間にか用意されていたこの家から出られなくなるとか。クレイオの狂気的なまでの想いに触れ段々絆されていき、怖くなって逃げだして再び捕まり今度こそ逃げられなくなるとか。
――わたしが望んだ愛情がある意味別の形となってやってくるなんて、今のわたしは知る由もない。
「わたし」が家を出た直後、クレイオは転移魔法を使い家へ帰っていた。姉につけていた追跡魔法が家を離れ不審に思ったからだ。
両親は顔面蒼白の状態で慌てて息子を出迎えた。
「ねえ、姉上はどうしたの」
「あ、ああの子が勝手に出ていったのよ!?」
「そ、そうだ。俺たちが悪いのではない……!」
大層狼狽える様子はさぞかし見ものであったが、クレイオはそれを冷たく切り捨てた。
「貴方達が姉上を結婚させようとしたことを僕が知らないとでも?」
「ひっ」
「……今回ばかりは許してあげるよ。ただこれからは絶対に僕たちに干渉してこないで。しててきたらどうなるか、分かってるよね?」
ぶんぶんとちぎれそうになる程首を縦に振る両親を一瞥するとクレイオは家を出て、猫の姿となった。
頭の中はもう一人の女でいっぱいだった。
「ずっとそばにいるって言ったから、ね?姉上」
妖しげに笑う黒猫は一鳴きすると、その場から消えた。
「なく」……泣く、鳴く、啼く