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情景描写  作者: 雲鈍
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子守唄

例えば、疲れた体を休めるための子守歌。




 体が重い。

 二日酔いの頭で、泥のように動きづらい手足を動かす。

 どうして酒なんか……。

 理由を思い立って、体が震える。


 ソラという少女の言葉を思い出す。俺は「運命」から外れていて、保護されることもないという。保護とはつまり、極端に成功することや、極端に失敗すること。「因果」と呼ばれるルールの中で、一定の振幅を持って人生は続けられる。けど、俺にはそれがない。

 だから振幅に限りがない。一方的に上昇することもあれば、下降することもありえる。

  いや、本当はそんなことはどうだっていい。

 問題は夢だと思っていた光景が、現実にあったこと。

 幸せになれなかった人間。それが手に入らないと気づいた人間が、次に向かうのが死だ。山の天辺に届かないと知ったから、今度はどうすれば下がらないかを考える。

 その結果が、死だ――。

 とまってしまえば。それ以上動くことがない。

 幸福になることはないかもしれないが、不幸になることもない。

 停止して、静死して……。



 何故か笑える。

 俺はガキじゃないんだ。

 他人の不幸を背負う必要はない。

 感傷的になる理由もない。感情移入したって、意味がない。

 やめよう、と気持ちを切り替える。

 髪をとかして、寝癖を直す。

 歯をみがいて、顔を洗った。

 適当に服を選び、着替えると、俺はいつものように家を出た。





「ちょっとあんた」

 店につくと、一人インコが怒っていた。

「責任感ないし。サイテー」

「はぁ? 何の話だよ」

「ソラちゃん置いて帰ったろ」

「ああ、うん」

 俺が頷くと、火がついたように彼女は手を振り回した。

「どーして、そういうことするワケ? 

 かわいそうとか思わない? ていうかだいたいあんたが頼まれたんじゃん」

「つってもな、知り合いでもないし」

「だから見捨てんの? 」

「見捨てたつもりはない」

「それはあんたの理屈じゃん。

 向こうからすれば変わんないよ。

 もういい。どっか行ってて。頭にくる。あーもうムカツク」

 俺に背を向けて、奥へと消えた。

「彼女、結構本気で心配してたんですよ」

「え、何が? 」

 横に居た牧野が、苦笑しながら俺に説明する。

「たぶん、ね。たぶんすけど……あの女の子に自分と似たところを感じてるんじゃないかな。だから、放っておけないんだと思う」

「境遇も同じ、か」

「ですよ。だからなんつーか……あんまり」

「分かったよ」

 俺は背を向けた。


 その日、真下から再び電話があった。

 近所に寄ったから今度飲みに行かないか、というもの。

 俺は二つ返事で答えた。


 久しぶりに会う友人はほとんど変わっていない。

 背は俺より高いのに、いつも好奇心にあふれてる子どものような目。

 猫背で姿勢が悪くて、並んで立つと俺と同じくらいの身長に見える。

 真下は、俺を見て笑みを浮かべた。

「全然変わってないね」

「お前もな」

「うん、そうかな……。いろいろ変わった気がするんだけど」

「こっちだってそうだよ。自分では変わったつもりでもな、そう見えない」

「外見なんて高校をさかいに、ほとんど変わらないしね」

「いやー、そうでもない」

 俺はベルトをゆるめる。

「だいぶ太ったからな」

「またまたー。藤堂が太ってたら僕はなにさ」

「中年、だな」

「お互いそんな歳? 」

「十年は経ったからな、卒業して」

「そうだね……」

 俺と真下はイスに座り、カクテルを二つ頼んだ。

 シェーカーを振る店員を横目に、真下がつぶやくように言う。

「最近、どう? 」

「ぼちぼちかな……。そっちは? 」

「うん、こっちも似たようなもの」

「楓は? 」

「彼女もね、元気だよ。最近子どもができたんだ」

「へえ、よかったじゃない。なんでそんな沈んでんの? 」

「僕の子じゃないかもしれない」

 真下は、運ばれてきたカクテルに口をつけた。中には乳白色の液体が入っていて、氷が小気味よい音を立てた。

「なんで? そんなことわかんないだろ」

「分かるんだ。藤堂には、理解できないかもしれない。

 だけど、僕と彼女はそういうんじゃないんだ」

 真下がもう一口、カクテルを飲む。

「僕は彼女が好きだし、彼女も好きだと言ってくれてる。

 だけどね、そういった関係になったことは一度もない。

 だから、彼女が妊娠するなんてありえない」

「……楓は、知ってるのか? 」

「本人から聞いたから」

「疑われてるってこと」

「そっちも。捨てないでとも言わなかったし、泣きもしなかった。

 ただ、ひたすら謝るんだ。『ごめんなさい』って。

 この子は悪くないって」

 はあ、と俺はため息をつく。

「謝って欲しくなんてないよなぁ。

 謝るようなことをしないで欲しいな」

「……うん」

「で、どうするの」

「結婚は、するよ」

 俺もカクテルに口をつけた。

 けばけばしい緑色の液体が、体内にしみわたっていく。

 感情がアルコールに汚染される。

「生まれる子と、血がつながってなくても? 」

「それでもだよ」

「あーあ」

 俺はカクテルを飲み干した。

「前言撤回。いい男になったなぁ、お前。何があった」

「そう? 別に何も無かったと思うけど……」

 言いながら口を歪める。

「子どもが出来たからかな」

「のろけんなよ」

 そして俺は真下と二人で、朝まで飲んだ。



 帰りに、酔って自分の家に帰れなくなった真下をタクシーで送った。

 目を半分ほど開けながら、うわごとをつぶやく真下。何を言っているのかは、分からない。

 真下の指示に従ってついたのは一軒家で、家の前には楓が立っていた。

 彼女も、高校のときから変わってない。整然とした顔立ち。印象的な美人である。

「あぁ、ほらもう」

 楓を手伝って、真下をタクシーから降ろす。

 金は俺が払った。

「ごめんね、うちの人がこんなになっちゃって」

「久しぶりだったからな……」

 彼女のお腹は、まだふくらんでいないように思える。

「お前、子どもができたって……」

「うん、本当」

 意外に、彼女は笑ってそういった。

「彼の子じゃないかもしれない」

「責めるつもりはないよ。

 じゃあ、誰の? 」

「勤務先の上司。そういえば納得する? 

 知ってても関係ないでしょ。ただ自分が安心したいからって、私に理由を求めないでくれる? 」

「変わんないな、お前も」

「あなたもね」

「結婚するって本当に? 」

「本当よ。絶対に、しあわせになるから」

「あ、ああ……」

 楓の表情にたじろぐ。

 それはなんというか、幸福そうな笑顔ではなくて。

 必死の形相?

 そういった表情。

「じゃあ、また」

「うん」

 楓に手を振り、俺はタクシーの運転手にコンビニの場所を告げた。


 何か、違和感。

 結婚する。子どもができた。自分の血が繋がっていない。幸せになる……。

 どこかが可笑しい。何かが違う。

 どうしてか、二人は全然幸せそうに見えないのだ。

 目的と手段がすりかわってる。

 本当に、それでいいのだろうか。

 俺は関係者じゃないから、これは余計な思考だ。大きなお世話。当事者からしてみれば。

 でもそうやって結婚して、理由づけて幸せを求めて、誰が幸せになるのだろう?




 時間は、九時。

 朝日が目にまぶしい。

 俺は運賃を払い、店の中に入る。

 中には高坂とインコが居た。

「あー、ちょっとおっさん、飲んでんの」

「悪いかよ。金ならあるんだ」

「からまないでよね。うざ」

「藤堂さん、奥あいてますよ」

「あんがと」

 部屋の中には誰もいない。

 後ろから、インコがついてきた。

「なんだよ。何もでねえぞ」

「馬鹿? はい、水。

 それから飲むんだったら薬」

「気がきくなぁ」

 俺は受け取り、冷たい水を飲んだ。

「酒くさいよ」

「そりゃあしょうがねえよ」

「あの子ね、帰ったよ」

「そうか……」

「なんかまた遊びに来るって。

 家近いって言ってたし。電話も聞いたんだ」

「ソラ、だっけか名前」

「そうそう。ちょーウケるよね。私同じ名前の友達居るんだよ? 」

 んで。

 あいつは結局何をしに来たんだ?

「そっか、楽しいな。きっと次は海って名前の知り合いができるな」

「バカじゃない」

「あーあー、バカでいいですよ。少し寝っから俺」

「はいはい」

 言ってインコが立ち上がる。

「夜はちゃんと働きなさいよ」

「お前は俺のかーちゃんか」

 目を閉じる。




 まず、それが夢であることを認識する。

 こうやって、夢を見るのは何度目だろう。

 すでにその光景は夢なんかじゃない。ソラの言葉を信じれば。

 けれど、俺は未だに「夢」と呼んでいる。

 なんとなく、それがおかしい。


 季節は、たぶん春。

 視界を桜がピンクに染め上げて、肌に触れる柔らかな風は黄金色をしていた。

 緑色に芽吹く植物が、風に吹かれるたびに身をよじって笑っている。

 幸せだ、と目の前にいる「彼女」が目をつぶった。

 風が気持ちいい。暖かい。花がきれい。桜が。あなたと居られる、その全てが幸せ。

 僕は「彼女」を抱き留める。腕の中に感じる、暖かい生き物。漆黒の髪が鼻をくすぐる。

 下から見上げるその顔は、見知っている人間にそっくりで――。


 楓?


 僕が思わず見つめていると、「彼女」はそっと腕の中から離れる。

 どうしたの、変な顔。そういって、やっぱりまた、笑った。



 どうして楓がここに?

 いや、夢に知り合いが出てくることは不自然じゃない……。

 けれど、ここに出てきたってことは。

 俺が知らない誰かを通して楓を見てるということは……。

 俺はいつものあの台詞を飲み込んだ。



 場面が変わる。

 時間は夜。

 場所は公園。

 うつむいた楓の表情は分からない。

 肩が小さく震えている。

 僕が声をかける。大丈夫?

 楓は、振り向いて頷いた。

 大丈夫。全然気にしてないから。

 仕方なかったんだよ。

 誰も悪くない。

 私も、あなたも……。たぶん、きっと。

 ごめんなさいと言い、彼女は泣き崩れた。



 そして場面が変わる。

 暗く異臭のする室内。

 男が、女を組み敷いている。

 ガラスが割れて、フローリングの上に散らばっている。

 かすかに差し込む月光で、女が楓であることが知れる。

 僕は震えている。無力感に。

 額から流れる血。

 声は出ない。

 楓の顔が苦悶に歪む。

 涙が床に落ちる。

 殺してやりたい。

 僕が思う。

 けど、僕は動けない。階段から落ちて左腕を骨折していた。

 頭を殴られて、どこかがおかしくなってしまったらしい。指示が届かない。体が動かないのだ。

 喉は蹴ってつぶされた。

 だから、声は出ない。

 ただ涙だけが流れた。

 男の顔を覚える。

 許せない。殺してやる。

 ぐったりとした楓の姿を見て、僕は叫び声をあげた――。



「ああああああああああ!」

 思わず我を忘れて身を起こす。

 背中をつたう汗。胸に淀んだ不快感。

 しばらくして、叫んでいるのが自分であることに気づいた。

 一人で何やってんだろう。バカみたいだ。

 頭痛に顔をしかめ、額を手で押さえると、赤い血が掌から流れていた。

 拳を握りしめていたらしい。

 うっすらと疼く掌が心地良い。

 ほんの少しだけ、感覚を現実に引き戻してくれる。

 今みた夢は――?

 いや、もはや夢ではない。

 現実だ。

 記憶だ。

記録だ。

 恐らく、真下が見た光景。

 自分の子じゃない。

 暗い表情で言った真下を思い出した。それは、こういう意味だったのか? それでも、結婚してその子どもを育てるのか。

 見なければよかったという後悔と、罪悪感にうちひしがれて俺は半身を起こしていた。

 いつの間にか部屋に入ってきたインコは、目を丸くしていた。

「ちょっとあんた、大丈夫? 」

「悪い、どうかしたか」

「いきなり叫び声が聞こえて……。

 変な薬とかやったんじゃないの? 」

「酒しか飲んでない」

 あれが幻覚だったらどんなにいいことか。

 けれど、現実であるという証拠も無いのだ。

 俺がそう思ってしまっただけで。

「やばい夢? 」

「やばいっていうか……見たくない感じの夢だな」

 思い出したくもない。

「大丈夫? 」

 インコは繰り返した。

「大丈夫じゃないって答えたらどうするんだよ」

「がんばれって応援してあげる」

「アホか。大丈夫だ」

「うん、がんばれ」

 真剣な表情でインコはそう言った。

「今朝? つうか昨日か。悪かったな。

 俺がお前に頼んだのに……」

「うんいいよ」

 とたん、彼女は顔をゆがめた。

「なんて言うわけないし。ばーかばーか。

 あたしじゃなく女の子に言えっての」

「だよな」

「勘違いもはなはだしいよね」

「おお、インコが難しい言葉を使ってる」

「現役の学生っすよわたくしは」

「奇々怪々」

「魔法使いでしょ? 」

「お前なぁ」

 キキか……。

「今から俺がセクハラをします」

「ちょ、何言ってんのよサイテー。

 いくら超絶美女が居るからって」

「美女って柄じゃないよな。

 なあ……」

 俺の顔が真剣になったのを見て取って、インコが黙る。

「全然好きでもない男の、子どもを産むってどう思う? 」

「何それ。高校生にする質問?

 マジサイテー」

「悪い」

「それ、マジな話? 」

「マジもマジ。大マジだよ」

「……そうかな、あたしは嫌だけど」

「産まない? 」

「人の話聞けよ。『けど』っつってんじゃん。

 嫌だけど、子どもがかわいそうじゃん。

 おろすにしてもさ、何か自分の都合しか考えてないみたいでさ、やっぱり嫌だよね。

 だから多分、あたしなら産んじゃう」

 ま、あたしはそうならないようにがんばるけど、とインコは冗談めかして笑った。

「そうか……」

「んじゃさ、マジな話ついでにもう一つしていい? 」

「俺でよければ」

 強気な言葉とは裏腹に、内心びびりまくる俺。

 そんな人生経験豊富じゃないんだからさ、別に聖人君子なわけでもないし。

 立派な言葉とか人を納得させる言葉とか期待されても無理だよ、俺。

 自己防衛完了。

 けれどインコの表情を見てると、何も言えなくなる。

 うつむいたまま、唇だけを無理矢理両端に持ち上げて笑みを突くって、彼女はぽつりぽつりと語り出した。

「あたしね、親父居ないんだ。

 あたしこう見えてもね、クリスチャンなんだよ。

 なんでかっていうと、母がそうだから。

 母の家系はね、代々神父だった。でも母の代だけ男が生まれなくて、しょうがなく婿を取ることにして……母は強引に結婚させられた。

 そこで、あたしを妊娠した。

 なんつーの、でも、やっぱり嫌だったらしくて、新しく男作って、そいつと逃げた。

 不倫なんて許されないから、母は家を追い出された。

 んで、あたしを妊娠してることを知った相手は、逃げた。

 ガキ作るきは無かったとかね。そんな感じ。

 しょうがないから母は家に泣きついた。

 やっぱ実の娘だから見捨てるわけにも行かなくて、家は母を受け入れた。

 元ダンナはもちろん敬虔なクリスチャンだから、二度と母のとこに来なかった。

 母は、二度と教えを破らないって約束で、家に居ることを許された。

 あたしは、家の薦めで幼稚園からずっとミッション系のガッコ。

 でもあたしには父親が居ない」

 声を震わせながら、インコが言う。

「ほんっと、誰か一人でよかったのにね。

 誰かさ、一人でいいから母のこと見捨てないであげればさ、こんなことになんなかったのに」

 彼女の頬を涙が落ちる。

 悔し涙?

 同情。

 けれどそれは、当事者にしか――彼女にしかする権利はない。


 そして唐突に、俺は気づいてしまった。

 だからといって何もない。

 普段通り生活すればいいだけのことだけど。

 おそらく、俺の予想は正しいだろう。

 インコは俺に、父親像を求めているだけだ――。

 それで?

 どうする俺。

「俺はお前の父親じゃない」って見捨てんのか?

 これまでのインコの父親と同じように。

 それとも、無責任に慰めんのか?

 お前は家族でも血縁でもない、ただの他人なのに。

 本当にインコが困ったとき頼れるのはお前じゃない。

 お前じゃ何も、彼女を救えないのに。


 ――いいさ。

 俺はため息をつく。長い長い深呼吸。

 例えこれが偽善でも。

 俺がナルシストでも。

 自己満足でもいい。

 目の前で悲しんでる彼女を救うため――というと、少し大きいかもしれない。けど、俺の一言で誰かが笑うなら……それで多少でも、救われた気分になるのなら。

泥をかぶってやろう。無責任だとののしられても、後悔しても。それは全て俺一人の問題だから。

 そんな気分になった。


 俺はインコの頭に手をのせて、ぐじゃぐじゃとかきまわしてやる。

「ほら、」

 何がほらなのか。

 言葉が続かない。

「あー……あれだ。

 気にすんな」

「無理」

 しゃくり上げながら、インコが言う。

「がんばれ」

「やだ」

「忘れろ」

「できない」

「ふっきれ」

「……」

 言葉が尽きた。

 これは……あれだと判断。

 まとも過ぎることを言うから駄目なんだな。

 きっとドラマや漫画、小説のように流ちょうに美辞麗句を並べ立てて背筋に鳥肌が立つような言葉で慰めればいいのだ。

「よく聞け」

 俺は腕を組む。

「お前の人生は今月の無い暗い夜道を歩くがごとく不安とおそれと恐怖がないまぜにミックスされた状態だ、だがしかし朝の来ない夜などないようにお前の行く先にも必ず希望という名の光が咲き乱れていてお前はそれを手にするために生きているのだとも言える。だから例えば今までの人生が暗いから振り返って鬱々とするよりはこれから先必ずある希望を見つけ喜び歌い踊りながら胸躍らせて生きていく方が君のためでもあると思うし、俺もその方が嬉しい。アサガオが咲くために必要なのは朝日なんかじゃなくてむしろ逆に絶えることのない一定期間の暗闇が必要なんだ。理科的にいうと光中断されない暗期。だからお前という花がきれいに咲くためにもこの暗闇は絶対に必要なんだと俺には思えてならないだからそんなに悲しむなよほら雨上がりだって虹がかかるんだからさ、きっと悪いことばっかじゃない」

「何それ」

「俺の人生をかけた」

「慰め? 」

 そう身も蓋もないことを言われると……。

「うん、まぁ……そう思ってもらっても構わない感じ」

「ださ」

 胸が痛い。

「くさ」

 肺が痛い。

「恥ずかしくない? 」

 あぁ。

 痛いのは俺の存在か……。

「穴があったら入りたい」

「きもい」

 たぶん、穴の名前は「墓穴」だな。

 俺が今掘った穴だ。入場料は無料。出口はない。多少暗い。

 もう片足つっこんでる感じだよ。


 あ、おじいさん……今行きます……。


「まぁ、でもありがとう」

「どういたしまして……ていうかここまでに来る過程が長い

ストレートに『ありがとう』と言えんのか」

「ありがとう」

 素直に言われると、なんかね。

 いい雰囲気になってしまう(主に俺だけ)。

「こーやって慰められたこと無かったからさ、なんか……」

 照れたようにインコが笑う。

 よしここでキスだ!


 しないけど。


 俺が逡巡していると、フスマを開け、牧野が現れた。

「藤堂さーん。インコ知りませんか……って」

 俺とインコを見て、固まる。

「インコならここに……」

「あんた何やってんだ! 」

 有無を言わさず殴られる俺。

 ふんばりがきかず、そのまま後方へ転ぶ。

 俺の右手がインコの頭から離れる。

 入り口、牧野が立っていて、俺、俺の後ろにインコが居る。

 入り口方向から殴られ、俺が後ろに下がると……。

 「なんだかよく分からないもの」につまづき、俺はさらに体勢を崩す。

 「なんだかよく分からないけどあったかいもの」をさけ、俺は畳に手をついた。

 「なんだかよく分からないけどあったかくて良い匂いがするもの」は俺の下で身じろぎし、俺は殴られた頬に手を当てると、「なんだかよく分からないけどあったかくていいにおいがする柔らかいもの」が俺の胸にあたる感触がした。


 りせいに こうか は ばつぐんだ !!


「おい、この変態野郎! 手を離せ」

「ふざけんな誰が変たっ」

 ぶっ、と俺の口からつばが出る。

 2発目、クリーンヒット。

「このっ、このっ、このっ、俺らの天使を汚しやがって! 」

「痛い痛いいた……」

 本気で天使なんて言えるお前がすげーよ。

 とか思ったが、冗談抜きで痛かったので、俺は抵抗をやめた。




「ふう……」

 窓から見る景色はきれいだ。

 通りを歩く黄色い帽子の幼稚園児、杖を頼りに歩くバーさん。

 大根が飛び出したスーパー袋をさげて必死でチャリこぐおばさん。

 あぁ、全てがいとおしい。

「あの……、外がどうかしました……? 」

「あぁ、ほっぺが痛いなぁ」

 俺の言葉に、牧野はうぐっ、と黙り込んだ。

 勘違い野郎は俺の下にいたインコの説得により、宇宙空間の彼方にまで吹き飛んだ理性を取り戻し、事なきを得た。

 アザだらけになった俺の顔が、ことなきと言うかどうかは知らんが。

「心についた傷も痛いなぁ」

「あ、あの……本当にすいません」

「奥歯が痛い。キリキリする。

 歯って高いんだってね。差し歯だったりすると、一本三十万はかたいって」

「ごめんなさい! 」

「そんなね、大声出しても駄目だよ牧野くん。

 もっと誠意をみせてよせーいを」

 牧野は従順にも地べたにはいつくばり、両手をついて頭を下げた。

「すいません、この通り! 」

 はぁー……、と俺は長いため息をついて言った。

「誠意ってね、言葉の意味分かる? 

 頭下げりゃいいなんてのは子どもの理屈だよ牧野くん。

 大人の世界じゃね、誠意つったら金だよ金」

「あの、金なんてあんまないんですけど……」

「ああ、歯が痛い。

 三十万かかる歯の治療を、今ある所持金だけで許してやろうなんてなんて俺は心が広いんだろう。

 それなのにどうして、ああ歯が痛い、俺だけがこんな苦しみを歯が痛い」

「分かりました! 」

 言って牧野は走って自分の財布を取って戻ってきた。

ペリペリ、とマジックテープをはがし、中身を見る。

 金額は……まぁ……高校生ってこんなもんだよね、って感じの量。

「ちっ」

「足りませんか」

「足りるわけないだろう。

 しょうがない、これだけは言いたくなかったんだが……」

 俺の言葉に、牧野が青ざめる。

「なんでしょう」

「お前のギター持ってこい」

「ちょっと待ってくださいよ! アレはまじ勘弁してください。

 俺がどれだけ苦労して買ったか知ってるでしょう!? 」

「ああ、歯が痛い。

 別にどうもせんからギター持ってきて欲しいな。歯が痛い」

「分かりましたよ、もう」

 たしか奴のギターは……。

 バイトして、バイト代を一銭も使わずに買ったとなれば……二十万近いだろう。

 俺はこそこそと、押入の中からアンプを出した。

 何故ここに?

 不真面目だった牧野というバイトの私物を没収したからだ。

 バイト中にギターをひくなんてけしからん。

 三千円ぐらいの安物だから問題はないと思われる。

 本人も忘れてるし。

「はいはい」

 牧野は丁寧にギターを取り出すと、青い布で指紋をふき取ってから俺に手渡した。

 白いレスポール。いつも思うんだけど、キザ仕様だよな、このギター。

「おう。そしてインコはどこじゃ……私のかわいいインコや」

「何キャラ? 」

 半眼で笑いながら、インコがこちらを向く。

 彼女はよく分からないが、とにかく体育座りでじっとしていた。何か思うことがあったのだろう。

「いいか、聞いとけよ」

「つうかさ、あんた牧野にそんなこと言うならあたしも言うよ?

 セクハラ」

「俺がいつ何をした」

「あたしの大事な体に触った」

「紛らわしい言い方をすんな」

「ちょっと親父臭かったし」

「死のう。このギターと一緒に」

 俺がギターを持って窓から飛び降りるフリをすると、慌てて牧野が後ろから俺を引き留めた。

 ちなみに、ここ一階。

「馬鹿インコ、何言ってんだよ、謝れよ」

 さすがにインコも俺の行動に驚いたらしくて、目を丸くしてこちらを見ていた。

「ごめん、やっぱ訂正。

 トイレの匂いがした」

「死のう」

「馬鹿、もっとマシなこと言えねーのかよ」

「あ……とね、トイレはトイレでも、あのなんつーの?

 芳香剤の匂い」

「どんな匂いだよ! 」

 俺はいい加減頭に来て後ろを振り向いた。

 瞬間、俺の視界が青につつまれる。

 インコの匂い(っていうとイヤらしいよね)が俺の鼻孔をくすぐった。

 胸がドキドキするとか、そういったことは全くない。

 ただ、全ての気力が萎える。萎え果てる。

 極端な話、生命活動を停止させられるような感じ。麻薬というより麻酔薬。

 俺の動きがとまったのを見計らって、インコは俺から体を離した。

 俺の顔をのぞきこみ、計算し尽くされた表情で

「駄目だよ」

 と言った。

 なんつーの?

 俺、そのうちコイツのことぶん殴ろうと思う。

 頭に来るね。

 そうやってなんでもかんでも男が言いなりになると思いやがって……。

 ちくしょう!

 言いなりになるんだよ!


 悔しいからそのうち頭をどつこうと思う。

 世界はこんなにも理不尽に満ちている。


「おい、牧野鼻血出てる」

「え……あっ」

 今のやりとりのどこに鼻血が出る余地があるのだろう。

 これだから男子高校生は大変……ていうかむしろ変態だよな。

「いいからお前ら座れ。とにかく座れ。

 俺の膝の上に座って可愛いこぶろうとするなインコお前も座れ。

 お前特に忍耐なさそうだから正座」

「えー、まじウザい」

「はいはいウザくて結構」

 ギターを鳴らす。

 E、A、……チューニングはずれてない。

 あ、あ、と声のチューニングもする。

 実際はそんなことはできないが……まぁ、クセみたいなものだ。

「んじゃあ聞いとけよ」

 俺は、久しぶりのFコードから始めた。



 最後のドの音で、曲が終わった。

 実にいい曲だ。

 呆けて聞いていたインコがつぶやく。

「きもい」

「おい待てよ、他に感想ねーのかよ」

「ちょっとナルシスト入ってて……」

「お前……」

 牧野が、横からフォローをいれてくれる。

「いや、うまいっすね。

 弦もビビんないし、声もかすれないし。

 ビートルズでしたっけ? 」

「洋楽だけど、違う。でもたぶん知らないよ」

「教えてください。俺、今度探してみます」

「あー……違う、本当はもっとエレキとかロックぽいのを、アコギ一本で歌えるように編曲したんだ。だから、同じ演奏はどこを探してもない」

「じゃあ今度教えてくださいよ。俺、絶対ライブでやりますから」

「気がむいたらな」

 俺は苦笑しながら言った。

 なんかいいなぁ。若いってのは。

 こうやって純粋にいいものを認めて、自分の力にしていこうとする。

「でもつまんない」

 インコが言う。

 俺がにらみつけると、首をふった。

「だって歌詞が」

「お前……英語分かるのか? 」

 意外な事実に驚く。

 ぜってぇこいつはバカだと思ってた。

 あなどってた。

「ドント……アイ、ウィッシュ……なんたらかんたら、でしょ? 」

「分かってねー。

 リスニングもだけど発音も駄目駄目だな。よかった、インコは俺の思った通りのインコで」

「はぁ!? バカにしてんの!? 」

「いや全然」

 はい、と俺は牧野にギターを返す。

「昔何かやってたんすか」

「少しね」

 うまいなぁ、今度教えてくださいよ。

 俺は笑ってごまかした。


 まさか、言えないよなぁ。

 オリジナルだなんて……。

 ふと、昔の仲間を思い出す。

 うち一人に、真下が居る。あいつの叩くドラムは、本人に似て無くてしっかりと芯が通ってる感じ。

 偏屈なベーシスト。

 理屈っぽくて無口で、リズムはめちゃくちゃだけどすごくおもしろいベースラインを引いた。

 それから、軽薄なギターボーカル。

 俺か。

 紙よりも薄っぺらいけどリズム隊がしっかりしてたからどんな曲もできた。

 最後に、……。

 レン。

 すかすかの金髪。

 いつも不満そうにまがった口元。

 女のクセにやたらと低い音域。

 思い出すほど懐かしい。けれど彼女の記憶と一緒に出てくるのは後悔だ。


 俺はふと、目の前にある金髪を掴んでいた。

 それはかつての彼女のように脱色を重ね乾燥した髪ではなく、上から塗り重ねたしっとりとした髪だった。

 と、俺が感慨にふけっていると、

「痛いってバカ」

 インコは俺に拳を振り上げた。




 それが、夢のようだと認識しそうになる。

 暗い店内。黒服のマスター。透明なグラスの中に、蠱惑色の液体が揺れる。

 陰気に落とされた照明の中で、ブルースが淡々と流れている。俺は暇つぶしにグラスをつめで弾いた。

 彼女は俺の隣に来ると、ベージュ色のコートを脱ぎ、マスターにカクテルを注文した。昔と違う長い黒髪が、一挙一動にあわせてなびいた。昔と同じ、口元をかすかにゆがめて笑うと、彼女はこちらを向いた。

 犬井レン――。

 彼女の名前は、そうだったように思う。

 けれど俺を含めてバンドメンバーは誰もレンの本名を知らない。

 とてもかわいい名前だと、噂で聞いただけだ。レンが蓮華なのか、それとも可憐に由来したものなのか。

「久しぶり、と」

 彼女はカクテルを口に運んだ。

「きみから連絡くるなんて、思わなかったな」

「暇だったんだ……つい、な。真下が結婚するらしい」

「へえ」

 まず最初に、レンがとても美人であることを言っておく。

 人によってはキツい印象をあたえるつり目に、挑発的な赤い口紅。背中までまっすぐおろされた黒髪。

 だから、さあ落ち着け。俺は自分に言い聞かせる。

 この動揺はきっと、きっと彼女が美人だからに他ならないと。

 レンの指が、俺の目の下を撫でる。

 視界が赤く塞がれ、それが彼女の爪の色であることが分かった。

「寝てないね」

「ああ……」

「また夢? 

 昔からそうだよね、嫌な夢があると見たくないからって、寝ないようにする……。

 変わってない」

「ああそうか」

 俺は多少投げやり気味に答える。

 正直、高校までの十八年間を経ても、それから十年を過ごしても、それが一番適切な方法だと思えたからだ。逃避。俺は他に、この現象に対抗し得る術を知らない。

 真下の目を通して、陰惨な光景を見た。

 その続きを見ないように、俺は丸一日寝ていない。

 もしかしたら突発的にレンに連絡を取ってしまったのも、そのせいかもしれない。

「そうよ、変わってない」

「そっちはどうなんだ」

「駄目、トウドウ」

 レンはカクテルを含んで頬をふくらませた。

「久しぶりにあった友人が女だったら、『変わってないね』って言わなきゃ」

「変わってない、昔通りきれいだ」

「そうそう上出来」

 レンは満足そうに笑う。

 それは本心なのであるけど――きっと彼女には伝わらないのだろう。昔から、そういうやつだった。別に恨みはない。

「昔はもっと……希少さ、絶滅保護指定みたいな感じだったけどな」

「今は? 」

「パンダ」

「腹黒い? 」

「いや、ポピュラーで人気がある」

「言うようになったね」

「そうかな」

「ま、トウドウも大人になったって事」

 そして長い、ため息をついた。

「もちろん、私も。

 さてトウドウ、その原因は何だと思う? 」

「時間の経過」

「つまんない」

「悪かったな、昔からだよ」

「そうそう、昔からつまらなかった。

 でも今さらだけどさ、そんなつまんないトウドウと話すの、結構好きだったよ」

「俺は絶対嫌だけど」

「そんな卑下しないでって。

 トウドウってさ、何でもかんでも理屈つけるから。

 それがまたつまんない理屈なんだけどね、平凡でありふれた理屈なんだけど、

 でもその理屈を聞いてるうちに『あぁ、人生って実はこんなつまんないことで

 できてるんだ』って思えてくる」

「それは……良いことか? 」

「感情的に同情されたり、慰められたりするよりはよっぽど……優しいかな。

 私にとってはね」

「嫌なガキだったな」

「何よー、私が悪いみたいな言い方して」

 俺は新しくビールを頼んだ。

「それで、今日は何? 」

「暇つぶし」

「じゃなくって」

 レンはこめかみに指をつきつけた。

 何を言おうか、思案しているときに出る癖だ。

「ほら、他に言いたいことあったんじゃないの? 」

「夢の話」

「話してごらんなさい」

「ヤだよ」

「はぁ、あんたって……つくづくバカ」

 レンは盛大にため息をついた。

「私に言って、私がどうにかなると思ってるでしょう?

 自分が不幸だと、他人も不幸になると思って背負いこむタイプだもんね。

 この場では幸いに、冷血女だから、私。社会的に見ればひどい奴なんだろうけど。

 だからトウドウに何があったって、どんな話だって聞ける。

トウドウが泣いてても私は泣かない。ごめんね? 」

「いや、いい」

 それでいい。

彼女は冷たい?

 知るか。

 同情?

 されて何になる。

 肌がささくれだつ。激しく脈打つ。自然に手は拳を握る。肩に力が入る。それは昔の、高校生のときの俺の姿。

 友人と一緒に泣くことが優しさなものか。

 悲しみを分け合うことが友情なものか。

 昔から――そして今も、俺はそんなことを思っている。

「そうだな、まず――」

 俺は夢の話を始めた。



 ふうん、とレンは、話が始まったときと同じ表情でタバコに火をつけた。

「あ、ごめん、タバコいい? 」

「俺は吸わないけど……まぁ、いい」

 近くの灰皿でまだ長いタバコをもみ消した。

「今の話を総合するとね……トウドウは疲れてるな」

「まあ、疲れてるよ」

「一番いい方法はね、忘れること」

 レンは言った。

「忘却ってのはね、人間で一番大切な能力だと思う。

 記憶もね、もちろん大切。だけど記憶は大切だけど『必須』なものでしょう?

 だからなんていうか、欠けたら生きていけない。

 でも、忘却はしなくても生きていける。覚えてるのは簡単なんだよ。嫌なことも、嬉しいことも。それに浸ることも次に簡単。

 だけど、忘却することは難しい。記憶を消して、新しいことを求めるのは難しい。

 けれど人間はそれができる。トウドウみたいな人はね、もっと都合よく生きていいの」

「そんなもんか」

「だってさ、私から見たらトウドウ絶対幸せになれないタイプの人間だよね」

 あ、と彼女は両手を広げた。

「いらない苦労を背負いこむでしょ? 」

「ああ」

「他人の不幸を、自分と重ねるでしょ? 今みたいに」

「ああ」

「ほらね。私は幸せになれる側の人間だけど」

「そうやって生きていける? 」

「そうやって生きてきたのよ」

 言って彼女は微笑んだ。


 帰り際、俺は彼女に携帯の番号を聞いた。

「髪は、もう金髪にしないのか」

 俺は勢いで、ずっと気になってたそのことを聞いた。

「私今何やってると思う?

 ピアノのせんせーよ」

「お前がピアノの先生、ねぇ……」

「柄じゃないなんて分かってます。

 昔から見れば、想像もつかない。

 なんかさ、あのころは」

 遠くを見ながらレンが言う。

「こんなに長く生きるなんて思わなかったね」

「さあ。どうだか知らないけど、一日一日が必死だったな。

 明日なんかないような気がしてた」

「『若者には未来がある』なんてよく言うけど……、若いころは未来なんて信じられなかったなぁ」

 同感だった。

 すでに過去形。

 当時の俺もきっと、そんなふうに考えていたのだろう。

 刹那的だった。

 享楽的だった。

 今あるものが全てだった。

 目の前にあるものが世界だった。

 だから世界はありふれた平凡で、ひどく狭く、そして最悪につまらなかった。

 だから俺は音楽を……やっていたのだと思う。

 明日が続く保証なんてどこにある?

 今日と同じ自分が、明日も存在する可能性は?

 その答えを知らないまま、あるいは結論を出さないまま、結局俺はこうして大人になってしまった。

「また会いましょ。今度はどこか、明るい店で」

「酒嫌いだっけ? 」

「お酒は好き。でもなんか……」

 言いよどんで、表情を消した。

 それは俺がしばらく見ないうちに身につけた、レンの新しい表情。

「かんちがいしそうじゃない」

「ああ、今度からはそうする」

 じゃあな、と俺はタクシーまで彼女を見送る。



 全部忘れればいい、か。

 その通りだと思った。

 忘却は、すなわち消去だ。

 体験ではない。俺の知ったこと、知識はつまるところ単なる記録で、記録は削除されれば戻らない。

 そんな、単純なこと。

 けれど、それは本当に可能なのか?

 記憶は、記録ではない。データではない。デジタルでもなければ、数字でもない。

 記憶は、再現できない。それができるのは記録だ。記憶はもっと曖昧なもので、二度と再現することはできないもの。ただの事象を覚えてるだけでなく、感情を含んだ現象を憶えている。

 俺が消したいのは記録じゃない。

 記憶だ。

 いや……。

 感情だ。

 不快感。

 せめてこの感情を、どうにかしたい。

 俺は……耐えかねて携帯を取り出した。怒濤の勢いで真下のアドレスを探し、電話をかける。歩きながらコール音を聞く。

 さあさあと流れる風の音がきれいだ。

 夜の闇を照らすコンビニのネオンがまぶしい。

 足の向くまま歩くと、バイト先のコンビニ近くにあるコンビニについた。

 見慣れた街灯を見て、俺は笑った。

 なんだ、またここに頼るのか。


 そして、真下の声が聞こえた。

「何? 藤堂だよね」

「藤堂だ。少し……話がしたい」

「大事な話? 」

「大事な話だ」


 目をつぶり――。

 それは暗闇の中、あまり意味のある行為ではないけれど。

 俺は初めて意識して夢想した。


 目がちかちかと、何の光かよく分からない明滅を繰り返す。

 眼孔が痛い。頭が痛い。公園の湿った空気で現実に引き戻される。

 まだだ。

 俺は開いてしまった目を、再び閉じる。

 今度はおのずと開かれることがないように、両手でまぶたを押さえつける。

 そして今度こそ――。



 まず、それが夢であることを認識する。

 季節は……きっと夏に近い。

 時間は、夜。

 ここには、「彼女」が居ない。

 それどころか、周りを見渡しても、どこにも人影がない。

 僕は穴を掘る。

 ざくざく。

 ざくざく。

 スコップをつきたて。

 ざくざく。

 ざくざく。

 地面に突き刺し。

 ざくざく。

 ざくざく。

 そして僕は穴を掘る。

 ざくざく。

 ざくざく。

 広く、深く、憎しみも悲しみも全てここに。

 暗く、憂いを込めて土で埋め立てる。

 ざく。

 ざくっ。


 穴は小さな棺桶。

 眠ったようにして横たわる、

 一人の男が、

 月明かりの下に照らされた。




「おわっ」

 俺は肩に何かが触れた感触で飛び上がった。

 気持ち悪い。

 腕に鳥肌が立っている。

 全身から冷や汗が吹き出てる。

 俺は額の汗を拭いながら、後ろを振り返った。

「ああ、真下……」

「どうしたの、藤堂。汗だくになって」

 真下は笑顔で俺と向かい合った。

 ぼんやりと、白い街灯が真下の顔を照らす。

 これが、本当に?

 人を殺した人間なのか……?


 俺はゆっくりと一歩、後ずさる。

 こいつはそんなことをしないという気持ちとは裏腹に、体が勝手に防衛反応を起こす。近づきたくない。

「それで、大事な話って? 」

「楓の、ことだ」

 俺は息を大きく吸うと、これ以上後ろに下がらない決心をした。

 真下は、俺の「夢」のことを知っていたか?

 知らないはずだ。どうやって説明すべきか、考えながら俺は言葉をつむぐ。

「楓が孕んだのは知りもしない男か? 」

「何言い出すの藤堂」

「答えてくれ……。俺だって、聞きたいわけじゃない」

「楓の子の父親は……僕の兄」

「それで、そいつはどうしてる」

 全身。

 両手に力がこもる。俺は思わず、真下の襟元を掴んで叫んでいた。

「なあ! 生きてるんだろ。

 むかついて最低最悪の人でなしだけど、社会の理不尽と不公平の間でバカみたいにのうのうと生きてんだろ!? 」

「その質問は困るなぁ……。ねえ藤堂。僕たちってさ、ずっと友達だよね? 」

「友達だよ。腐れ縁。たぶんこれからも」

「だからできれば、聞かないで欲しい。

 嘘をつくこともできるけど……昔からだよね。

 どうやって知ったのか僕には分からないけど、藤堂が知っていることは事実だ」

「殺したのか」

「まだ死んではいない」

「よかった」

 俺がため息をつくと、真下は間髪をいれずに言葉を継いだ。

「死んではいないってだけで、安全な状態ではない。

 瀕死だよ。僕がやった。今は病院で、集中治療室にいる」

「俺は、別にお前を逮捕する権限なんてないよ」

「じゃあ、何しに来たの? 」

「確かめたかった」

 たぶん、きっと。

「楓には悪いと思ってる。けれど、多分警察が動けば、あの男から僕と、それから楓のことも事件になると思う。僕は幸福にはなれないかもしれないけど、それでもいい。

 あいつもきっと檻の中」

「それで……お前はいいかもしれない。楓はどうするんだ」

「もう、話してある。

 一番信頼の置ける友人のとこに行けってね」

「それは、まさか……」

 俺の後頭部が、何か硬いモノで殴られる。

 俺はうめいて地面に座り込んだ。耳鳴りがする。音が遠い。

 言葉が、続かない。

 目が光りを失う。

 遠くの方で、真下の声が聞こえた。

「僕は、これから自首しに行く。

 藤堂。君は今のやりとりをいっさい忘れて。

 警察に聞かれても答えないで。

 そして一切合切記憶を消して、君を頼ってきた楓を助けてあげて」

 身勝手だけど、と真下が笑った。

「それじゃあさよなら」

 ざくざく。

 穴を掘るのと、同じ音を立てて。

 真下は俺から遠ざかっていく。

 あるいは、自首とは同じことなのかもしれない。

 真下にとっては。

 なんだか、イメージが浮かんだ。

 ざくざく、ざくざくと。

 真下はスコップを持って、穴を掘ってる。

 苦しみながら、穴を掘っている。

 苦悶の表情で、土をかき分けている。

 自分が埋まるための穴を、必死になって掘っている……。

 ざくざく。ざくざく。ざくざく。

 ざく……。




 そして俺は、それが夢であることを願望する。

 哀願し、懇願する。

 切望し、希望する。

 季節は、きっと春。

 時間は、きっと昼。

 男は、太陽のまばゆさに目を細めながら歩いている。

 溢れんばかりの木漏れ日の中で、楓が男に向かって手を振る。楓の左手は、まだ幼い子どもとつながれている。

 少し小走りになって、男は楓の元に急いだ。

 そして楓の横に居る子どもを見て、少しだけ眉を寄せた。

 そして少しだけ、上を向いた。俺には分かる。きっと男は、悔しかったのだ。

 頭に来て、悔しくて、よく分からないけど涙が出て、空を見上げた。

 大声で怒鳴ろうかと思ったけど、男は踏みとどまる。

 そして笑顔で――、人生で一番努力した笑顔で小さな子どもをむかえる。

 楓の腰よりも低いその子の頭を、ぐしゃぐしゃにかきまぜる。

 子どもは怯えて、楓の後ろに隠れた。

 大声で子どもが泣き出して、今度は逆に男は困った。さっきまでの怒りとは反対に、困り切った男は頭をかく。

 そんな様子を見て、楓は笑った。


 それが、現実だと錯覚しそうになる。

 きっと、いつかは――。



 願いながら、目を開ける。

 するとそこは、いつものように……見慣れたコンビニのあの部屋。

 ゆっくりと身を起こすと、首筋から背中にかけて激痛が走る。

「ちょっとおとなしくしてなよ」

 インコが、やんわりと俺を押しとどめた。

「お前が運んでくれたのか」

「ううん、あたしじゃなくて高坂さん。

 朝方、公園で倒れてるあんたを見て担いできた。

 心配したんだから」

「高坂が? 」

「バーカ」

 パチンと、俺はテレビのスイッチを入れた。

 無意識の行動だった。朝起きたらいつもしていた習慣だった。

 スーツを着た男のキャスターが、何かを読み上げている。

 画面には、長方形で、背景が青い真下の写真がうつっていた。

 ああ、そうか。

 お前は、やるべきことをやったんだ。

 キャスターが続ける。

 事件は、ただの傷害にとどまらない、犯人の動機を追及するのに警察当局は動きだしている……。

 きっと事件は解決されると信じて、俺はスイッチを切った。

「なあインコ」

「何よバカ」

「ありがとうな」

「はっ、キモっ」

「飯食い行こうぜ」

「カニ食べたいカニー」

「お前なぁ……情緒とかないの? 」

「だってさあ、おごりでしょ?

 高いもん食っとかないと損じゃん」

「カニはねえよカニは。

 カニかまで勘弁」

「しかもおごりかい。

 いいよ、あたしもお腹空いたし、適当に食いにいっか」

「吉野屋な」

「COCO’Sじゃなきゃやだ」

 さてと。

 俺は思い腰を上げよう。




 それは、夢ではない。

 かといって現実かどうかも判別できない。

 俺に残されたのはただただ事実のみだ。

「ソラ! 居るんだろ! 」

 俺は、叫んでいた。

 何もない空間、俺の正面が歪み、十歳前後の少女の形になる。

 不思議だとか、そんなことを思う必要はない。

 どうせ理解できないのだから、考えるだけ無駄だ。

 一つだけ知っておけばいい。「彼女はそういう存在なのだ」と。

 鳥が空を飛ぶ。虫が空を飛ぶ。

 どうしてなのか分からなくても、見慣れていけば……、あるいはそういうものだと認識すれば生きていける。

 俺の人生にそれらは全く持って関係がないから。

 だから俺はそうやって、彼女の存在を認識して生きている。

「何よ、うるさいなぁ」

 彼女は眠たそうに顔の前で手を振った。

「君の夢の話? 」

「そうだ。あれは確かに現実のはずだった。けれど、実際には違った」

「あなたお人好しってよく言われるでしょ? 」

「言われるけど……」

「君の友人が嘘をついてるとか、その可能性は考えなかったわけ?

 本当にニュースをちゃんと聞いた? 事件はどうなってた? 」

「分からない」

 インコと飯を食いに言って、その後仮眠をとって。

 だから全く情報は手に入れてない。

「ま、今回に限っては、あなたの夢が間違ってたんだけどね」

「その夢が間違うというのが、おかしいと思うんだ」

「そりゃあ、ねえ。ところで」

 少女は笑みを口元だけに残した。

「どうしてそれが異常だって思うの? 」

「だってこれは……予知夢レベルだろ?

 俺の経験してたものとは、違う。

 未来まで見るなんてことはどこか異常だ」

「自分で分かるんだ、そういうこと。

 その通りよ。あなたのその現象はすでに常軌を逸してる」

「何故外れた? 」

「確実な未来なんてない」

「カミなのに? 」

「あのね、カミはカミでも、そういったことは私の管轄外なの。

 役が違う。不得意。ま、どんな言葉だっていいけどさ、関係を持てない世界なわけ。

 だって普通、外国語は話せないでしょう? 能力がないから 」

「お前は普通なのか? カミだろ。人間じゃない」

「さあ、どうかしら」

 言ってソラは微笑んだ。

「どちらにせよ、気をつけてね。それでなくてもあなたの行動は、こちらからすれば目をひくんだから」

「一般的な質問をしようか。『こちら』ってどこ? 監視されてる? 」

「一般的……ああ、無駄だって分かってるのに質問をしたのね」

「答えないだろ」

「そうね」

「じゃあ、個人的な質問。

 俺が見ている『夢』は何なのか」

「あなたには夢に見えるのね? 」

 そうか、俺は詳しく話してなかったのだ。

「害のあるようなものじゃない」

 ソラは俺に背を向けた。

「気にしないことね」

「気になる……っておい、待てよ」

 ソラは窓から外に身を乗り出し、姿を消した。



 ドタドタと、店の方から足音が聞こえる。

 今は誰が店番をしているのだろう。

 さあ、ゆっくりと深呼吸。

 気分を落ち着けろ。

 そして友人の最後の頼みを、

 そして自分の微かな願いをもって、楓をむかえよう。




正義の味方は結局水掛論で。

 俺にはあまり関係がない。

 たとえ世界を救う力を持ってたってさ。

 救うべき世界を知らなかったんじゃ、意味がないし。

 価値も無い。

 けれどこれからの話はそんな馬鹿な男の。

 ちっぽけで。

 つまらない話だ。

 同情は人を救うか

 悲しみは人を悼むが。

 けれど誰も救えないだろう。

 だから。

 また、このことを忘れて明日から笑って生きていけばいいと、俺は思う。

 さぁ、まだ幕は上がったばかり。

 はじまりの鐘は鳴ったばかりだ――。



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