情景描写1
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お客様は神様です。
この言葉を作った人間を尊敬する。俺にはできない芸当だ。
なぜって? コンビニと言わず、レストランと言わず。客商売をした人間なら、誰もがわかるだろう。
その一例として、たった今ネギを万引きしそこねた神様が、俺の目の前でいきりたっている。
あぁ、とため息をついて、ありもしない神様のいる場所に思いを馳せる。
きっとあれだな。神様が生まれすぎたんだ。日本には八百万の神がいるって言ったって、やっぱ限界があったんだよ。1柱あたりの価値がさがって、休日には神様がバーゲンで安売りされ、人通りの多い通りでは、中古のものがビニールシートの上に並ぶ。結果、神様の質というか、威厳は落ちてしまって、しかも落ちるところまで落ちて、このような状況――つまり万引きをするまでに至ってしまったのだ。
かわいそうな神様。
自業自得だ。
聞こえることのない呪詛、何度目とも数え切れない言葉を、俺は再び心の中でつぶやいた。
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さて、と牧野が腰を上げた。長い金髪を重力に逆らわせて、外見はいかにもありそうなヴィジュアル系のバンドマン。バンドをやっているという話を本人の口から聞いたことがある。中身は普通――という言葉が当てはまるか分からないが、とりわけ害のない青年である。
「藤堂さん、俺あがりますよ」
「おう、お疲れ」
「藤堂さん、ロックとか興味あります? 」
「ミスチルしか聞かないな」
うわ、と言って牧野が笑った。
「渋いっすね」
「だろ」
「皮肉なんだけどなぁ」
「分かってる。んで? 」
「今度の日曜、そこのハコでライブするんです」
日曜、という単語を頭の中で検索する。
その日は幸いなことに――あるいはいつものように、スケジュールは入っていなかった。
「行くよ」
「んじゃ、チケットは当日渡します」
「何やんの? 」
牧野は一瞬呆けて、続けて笑みを浮かべた。
「ロックです」
あぁ、と俺は思った。
最近こうして心の中で感嘆することがよくある。若いとはなんと素晴らしいことなんだろう。人生に一片の曇りもなく、「ロックです」と言い切るその自信。若いということに他ならない……。まだ十七、八だというが、夢を見ている人間はいいなぁ。
と、このようなことを書くと、まるで俺が人生に絶望して夢も希望も(未来も)ない中年コンビニ店員のように思えるが、それは違う。俺にだって「小説家」あるいは「モノ書き」になるという具体的かつ素晴らしい夢がある。まだ若いし。まぁ、夢ぐらいはある。お金はなくとも。
夢があれば生きていける。彼女がいなくても。夢さえあれば……。きっと。考えるのをやめる。
もうそんなことを考えられる年齢ではないのだろうか。まだ、大丈夫なのかはわからない。けれど、幼少のころに見た夢のひとつを、俺はまだ持っている。
深夜一時。
店内には誰もいない。別に珍しいことではないし、俺はそのほうが好きだ。仕事がはかどるし。いっそのこと防犯シャッターを下ろしてしまいたい。図書館にも似た静謐な空気の中で、俺は「発売前の週刊誌を読む」という仕事にとりかかった。
読了。
そしてはたと、俺はある考えを思いつく。
やはり小説家を目指している以上は、漫画ではなく文章を読むべきではないのか、という疑念。すかさずその考えを実行にうつすべく、俺はカウンター内から雑誌コーナーへと移動する。
文芸。
このあたりだろう。とりあえず「文」という字が入っていれば間違いないはずだ。
そして俺の手は隣にある週刊郵便を手にとる。「女優Sが水もしたたる朝帰り」というアオリ。しばらくぱらぱらと(おもに写真)めくり、雑誌をおいた。
そのまま俺の手は横へスライドする。金曜日と銘打たれた雑誌、先週の週刊誌……そしてアダルトコーナーへとたどり着き俺の手は歓喜にうちふるえる。
しかし、ここで問題点が一つある。
防犯カメラが俺の姿を映し続けているということだ。
カメラは被写体があるかぎり、録画を続ける。バレルことをおそれた俺は記録の改ざんを試みたことがあるが、失敗。そのあと俺は店長にこっぴどくしかられ、「彼女がいないのか……」と同情され、「これで風呂でも行きなさい」と一万円と割引チケットをもらった。大きなお世話だ。人間、家族を持つとおせっかいになるらしい。店長、俺が入ったときには鬼のように怖かったが、あれは恐らく独身だったからだろう。結婚したとバイトに宣言したあと、入れ歯のオオカミみたいに駄目になってしまった。もう元のような野生は彼に残っていないに違いない。
けど、こんなに楽な職場もない。結婚してから一度も怒られたことがない。ビバ文明化。さよなら野生。
なんだか馬鹿馬鹿しくなって、俺は「文冬」という雑誌を手にとり、カウンターへと戻った。
別に雑誌なんてどれでもいい。だんだんと深夜の意味のないハイテンションになってきたが、まぁ黙殺。このままカウンターに突っ伏して朝まで寝たいが、そうもいかないだろう。
あきらめて雑誌をめくる。一つ目は「錆色の女」。俺は読書に使う以外の全ての思考をオフにして、文章に集中した。
なんだこれ。
マイ批評。おもしろくもつまらなくもない。ただ、意欲作であると思う。
錆とは酸化した銅、つまり赤褐色のものである。君は僕にまとわりつく錆だ、と主人公が不倫相手に断言、言われた女のほうは怒りのために頬を紅潮させ、「かのようにして女は錆色(紅く)になったのである」という一文でしめくくられる。
馬鹿にしてんのか。
違うな。
俺が馬鹿なのか。
脱力感とともに雑誌を放ると、テーブルの上で携帯がふるえてるのに気づいた。
ディスプレイには「真下」と表示されている。俺は高校時代の真下を思い浮かべながら、通話ボタンを押した。
「もしもし? 」
機嫌のよさそうな声。
「なんだ」
「藤堂っち久しぶり」
「そうだな」
「あいかわらず冷たいー」
「拗ねんなよ。気持ち悪い。男だろ」
「あのころはあんなに愛してくれたのに」
「あ、悪い電波が」
通話を切る。
十秒きっかり。
携帯は再びバイブし、画面には「真下」と表示されている。
通話ボタンをおす。
「この番号は現在使われておりません。番号をお確かめになってください馬鹿やろう」
「ひどいよね、藤堂だろ」
「この番号からの通知は拒否されています」
「つながってるじゃない」
「この人物からの連絡は拒絶されています。人生をやり直した上で、再度ご連絡は結構です」
「ひどっ」
「で、何のようだ」
「……その切り替えの早さにね、たまにあこがれる。
僕結婚するんだ」
「マジで? 誰と」
「カエデちゃん」
楓、楓……。俺は高校時代のクラスメートを順番に思い出していき、カエデなる人物を捜した。
「誰だよ」
「ほら、3年のとき1組だった……よく五代たちが噂してた」
「ああ! 」
俺は思わず頷いた。
「あの楓ちゃんか。学年一美人だと言われてた」
意外すぎる相手だ。真下と仲がいいところを見たこともなかったから、連想することができなかった。
「楓ちゃんは当時から数学教師とかT大の大学生とつきあってるって噂だったぞ」
「それね、全部嘘だよ」
「へえ。美人だってのも? 」
「それは本当。僕が保証する」
「草津にでも行ってくれ」
なんとかの病でも治しに。
「クサツ……?
それがどうしたの」
「なんでもない」
「それでね、彼女すごい傷ついてたんだよ」
「そこをお前がつけいった……いや慰めた、じゃなくって」
「励ました」
「そう、それ」
「藤堂、変わってないね。一番言いたいことは分かってくれる」
「俺のことは誰も分かってくれない」
「まあまあ。そんな中学生みたいなこと言わないで」
「そこに楓居るのか? 」
「あ、うん」
それがどんな意味を持つのか……。思考はクリア。
余計な記憶はいらない。
浴衣。
花火。
水ヨーヨー。
結い上げた長髪。すくいあげた金魚。
打ち上げられる花火。響く低温と、刹那の間、うつしだされる彼女の――。
全てをデリート。フォルダを隔離。俺の中の防御機構は、今日も快調である。
「代わってくれない? 」
「どうして」
「当時のことを謝りたい」
「なにそれ。ま、いいけど」
息をもらすようにして笑い、声が遠くなる。
時間は午前三時に近づいていた。
「何? 」
次にあらわれた電話越しの声は、不機嫌そうだった。
「俺」
「分かってるわよ。何か用? 」
「元気かなと思って」
「元気よ」
「あ、そう」
「それで何なの」
「真下はどう」
「いいやつよ。頼れるし」
「あいつが? 俺と居るときは全然だけど」
「いざという時には助けてくれるから」
「そんな『いざ』は来ないに限るな」
何かあったのか――と聞こうとして、やめた。
プライバシーの問題とかではなくて。
たんなる情報だからではなくて。
これは二人の、当事者にしか理解できない問題だと、そう思うから。
「こうやって話すのなんて、何年ぶりだっけ? 」
電話越しに楓が笑う。
「中学生のとき以来だな。たしか中3の夏休みが最後」
「よく覚えてるわね、そんなこと」
そんなこと、じゃないから覚えているのだ。
自分は馬鹿だと思う。
けれど、馬鹿になりきれない。
昔のことを忘れられない。
いらないことを思い出す。
必要のない重荷を背負いこむ。
受ける必要のない傷がつく。
癒えた傷痕を思い出し――感傷的な記憶に触れるたび、まっすぐと入った傷が俺に存在を訴えかける。見えない血液が、温泉のように景気よく吹き出される。
全部、出してしまえばいい。中身を全部。傷痕から。そうして死んでしまえばいい。
中学生の自分。
思い出の中で、美化された彼女。
全部、消えてしまえばいい。
そうすれば、きっともっと楽に生きられるだろう。
「どうしたの? 大丈夫」
心配そうな声を出されると、余計にいろいろな事を考えてしまう。
「何が? 全然」
「昔からそうだよね。強がるのだけは得意だった」
昔の話を持ち出されると、台風のあとの河川のように、記憶が連鎖していく。その記憶に流され、感情に飲み込まれそうになる。記憶の奔流がきれいだと、ふとそんなことを思ってしまう。
「いや、俺が言いたかったのは……つまり、あれだよ。
真下をよろしくってこった」
「ああ、はいはい」
「友人として、それが言いたかった」
「まかせて。絶対幸せになってやるから」
絶対幸せになるから――。
記憶の中で浴衣を着た楓が、強気に笑う。
俺は頭を振り、その幻想を振り払った。
「じゃあ真下に代わって」
声が遠くなる。
認識しろ。俺は自分に囁きかける。
これが、今の自分と楓の距離だ。
近いように見えるのは錯覚だ。
時間に隔たれ、電波にとばされ。もう自分が逢瀬を重ねた彼女に会うことは二度とない。
「もしもし、藤堂? 」
「ああ」
「楓と知り合いだったんだ」
「中学、同じだったからな」
「へー。じゃあ早く言えばよかったかな」
「ちょうどいいさ。式はいつ? 」
「もちろん六月」
「んじゃ、式には呼んでくれ」
「分かった。……ねぇ藤堂」
真下が声を潜める。
「死なないでね」
「はあ? 俺が? どうして」
「なんかさ、最初に電話に出たときの藤堂、死にそうな声だったよ」
「バイトがだるいからな。つうか午前三時だし、もう」
「そうかもね」
「そうだよ。なに馬鹿みたいなこと言ってんだ」
「ごめん。それじゃあ、またね藤堂」
「ああ」
電話を切る。
死ぬわけないだろ、と俺はまた真下を笑った。
どうして。
なぜ。
俺が死ななければならない?
理由がない。
いつもみたいに寝て。
飯食って。バイトして。
時間が空けば小説を読んで。
ネットサーフィンの傍ら小説を書く。
神様に死んでくれって頼まれても嫌だね。
絶対に死ぬか。
誰が死んでなどやるものか。
朝の六時。
交代で高坂が入ってきた
すっきりとした顔立ちに、短髪。500ccのバイクを乗り回し、清潔感あふれる服装に、やわらかな物腰。女にモテそうなやつだ。ひがみだけど。
「んじゃ、あとよろしく」
「はい」
店を出る。
朝日がまぶしい。よく朝日がきれいだと言う輩が居るけど、それはきっと嘘だ。朝日はまぶしいだけで何の感慨もわいてこない。たぶん、きれいだと思える、あるいは直視できる範囲では月がぎりぎりだろう。朝日も夕日ももちろん真昼の太陽も、目に痛すぎるだけだ。
と、自然に対する個人の偏見を並べ立てたところで俺は変なものを見つけた。
眠くて頭が動かないのだ。文章で物事を考えることができない。
単語で整理すると、
人(恐らく少女)
うずくまる。
制服。
紅いスカーフ。
金髪。制服。
紅い唇。
崩れ落ちた缶ビール。制服。
バッグルーズソックス制服―――。
駄目だ。
制服のことしか思い浮かばない。女に飢えてるのだろうか。別に否定する理由もないから、「俺は女に飢えて今にも襲いかかりそうです」と判断しておこう。
コンビニエンスストアー。
つまりコンビニとは「便利な店」という意味から端を発したと言う。
それならばコンビニの店員は「便利屋」となるのではなかろうか。
……いや、ならない。
まぁ、と俺は気を取り直す。別に人を手助けするのに、「便利屋」である必要はない。誰だってできることなのだ。
これは誰に対するでもなく、自分を含めた世間にむけた皮肉だけど。
俺は少女を担ぎ、コンビニへとカムバックする。
高坂は俺を見て一瞬驚き、けれど決してそれを表に出さない声音で言った。
「奥、開いてますから」
「ありがと。俺、けっこう高坂のそういうとこ気に入ってる」
高坂は、少しだけ笑った。
「そういう趣味はありませんから」
「このやろ」
休憩室(名前が卑猥だと、いつも思う)にその少女を横たえる。ちらりとめくれたスカートから見える太股がセクシー……などとは夢にも思わない。だって僕紳士だし。
押入に入ってる毛布を取り出し、かけてやる。
いつも思うのだが、この部屋は一体何のために作られたのだろう。
六畳ほどのスペースに、コタツが一つ。ガチャガチャとチャンネルを変えるタイプのテレビが一つ。仮眠をとる場所と考えるしかないのだが、今まで仮眠を取らなければならないような仕事は一度もなかった。
それにそれは……法とかにふれないのか?
出会ったばかりの店長を思い出すと、なんとも言えない。
眠りこける少女を見ると、どうも気分が落ち着かないというわけでもない。むしろ逆だ。とても落ち着く。ペパーミントの香りみたいな顔をしてる。
いつまでもこうして人の寝顔を見呆けているのも、さすがに変態的なのでやめることにする。失礼ながらバッグの中から、身分証明なるものを探さなければならない。どう見たって未成年だし、保護者に連絡をしたほうがいいだろう。
他人のバッグをあさる、なんてことは俺の沽券にかかわる。だってほら、僕紳士だし。だから「人のため」に「嫌々やっている」ことを忘れないように。
出てきたモノ。
赤い携帯。剃刀(何に使うんだ)。ピンク色の財布。タブレット。胃腸薬。筆箱。あとは鏡や化粧道具(他に適当な言葉を思い浮かばなかった)に、香水。
まずは携帯。パカッとあけるとディスプレイの下に、プリクラが貼ってある。うつってるのは持ち主であるこの子と――まぁ、それなりに格好いいと言える野郎。悔しいとか殺意なんて言葉は浮かんでこない。だってほら、僕紳士だし。
とりあえずキー操作をしてみるが、電源が入らない。おそらく電池が切れてるのだろう。
あきらめ、財布を見る。札のほうには……レシートしか入っていない。お前は家計簿をつけるおばちゃんか、とつっこみつつも、少しだけ親近感が沸く。続いてカードを全て取り出す。名前と、住所が分かればいいだろう。
楠木耳鼻科の受付カード。あそこの看護婦はかわいい。関係ないか。名前は……日野胤子。読めない。住所はけっこう近く。バスに乗って二駅くらい。歩いたとしても、三十分はかからないだろう。
続けて番号が書いてあるものを探すが、見つからず。
あきらめて元通り財布にしまうと、ていねいにバッグの中に戻した。
カツンと、中指とバッグのロゴがぶつかる。うろ覚えの知識と経験を総動員してそのロゴを判断すれば、ブランドであることが知れる。
けっ。
急速に俺はどうでもよくなり、むしろほっぽといておけばよかったという後悔すらわき上がり、少女の反対側、入り口の近くに腰を下ろすと、毛布をかぶって目をつぶった。
夢を見た。
誰かが自分をよんでいるような、
かすかな鈴の音のような金属音。
悲鳴のようでもあり、懇願のようでもある。
助けを求めている、そのことだけがはっきりと分かる。
状況を把握する。
部屋の中にコタツ。たぶん、季節は冬。目の前にいる「彼女」が白いセーターの上にちゃんちゃんこを羽織っている。ミカンを噛んで、口を動かしている。テレビで何をやってるのかは分からない。ちかちかと明滅を繰り返していた。
けれど幸せだと、「俺」は思う。
けれどどこかで、無意識の誰かが、ずっと、ずっと、ずっと、俺に言い続ける。
これじゃあ幸せになれないと。
絶対になれない。
コタツの中で触れた彼女の感触は、硬くて、冷たい。
破裂しそうな鼓動と、不快感で俺は目を覚ました。夢の中の光景と、現実が重なって気持ちが悪くなる。俺は部屋を出て、トイレへと向かった。
洗面台に向かうと一人、少女が髪をとかしているところだった。よかった、とどこかで安堵する。
俺は少女の横を通り、個室に入る。便器に向かい口を開ける。
しかし、何も出ない。あたりまえだ。それほど体はやわにできていないものだ。
俺はあきらめて、個室を出た。鏡に向かった少女は、まだそこに居た。
「どうかした? 」
「あんた、だいじょうぶ? 」
「あぁ。それよりそっちは」
「あたしは、全然。あんたが運んでくれたの? 」
「外で倒れてたから気になってね。夏が近いとは言っても、まだ寒いから。
悪いけど勝手にバッグの中見たよ。家に連絡しようと思って」
「連絡!? 」
少女が声を張り上げる。
「したの? 」
「いや、してない。見つからなかったから」
「そ。しなくていいから。家には友達と旅行するって言ってる」
「んで、どうすんの? だったら家に帰れないわけじゃない」
「ここに泊まっちゃ駄目? さっきのとこ。
昼は適当に時間つぶすからさ、夜だけ」
お願い、と少女が手を合わせる。
「……俺に言われてもなぁ。店長が来たら、相談してみないと」
「それ、レジの人にも言われた。だからあんたに頼んでるのに」
「俺だってバイトだし。まぁ、昼になったらまた来て。
それまでは時間つぶせるんだろ? 」
「うん。あんたはどうすんの? 」
「家帰って寝る。朝まで仕事だったから」
「あんたの家は? 」
「無理。だいたいさ、俺一人暮らし」
「いいじゃん。あたし気にしないよ」
「アホか気にしろ」
「だっていい人そうじゃん」
「なんかいろいろあんだろ」
「襲われる、とか?
あたしとしたいの? 」
日野〜子(読めなかった)は、流し目を送ってきた。
同い年ぐらいなら多少は効果があっただろう。だが俺は過去様々な視線を受けたことがあり、目線で殺されかけたことは一度や二度ではない。こんな小娘の色仕掛けなど月と太陽の光の明るさぐらいの差がある。
「コーコーセーには興味がない」
「あんたホモ? まあいいや、あたし守ってるし」
「というわけでさっさと帰れ」
「えー」
俺は背を向けた。
「あのさ、ありがとう」
少女は殊勝にも(そう思うのは完全な偏見だけど)頭を下げた。
「外で寝るなよ」
そうだ、と俺ははたと気がつく。
「名前は? 」
「日野」
「そっちじゃなくて、下の名前」
「インコ」
「ああ、なるほど」
「何がなるほどなの? 」
「読めなかった。んじゃ、また」
何それサイテーという言葉が後ろから聞こえてくるが、無視。
今日は久しぶりにぐっすり眠れそうだ。
バイト時間はいつも午後の九時から午前の六時まで。理由は二つあって、時給がいいということが一つ。地理的な問題から深夜にやってくる客が少ないことがもう一つの理由。
朝、家に帰り昼まで睡眠をとる。午後の時間が自由に使えるというのも、大きな利点ではある。
テレビをつけると、いつものようにグラサンさんが出ている。ぼーっとしながらカップラーメンを食べ、このままライオんを見ようかと思ったが……インコ(呼びやすい)との約束を思い出す。時計を見ると、一時をまわったところだった。
店に入ると、いらっしゃいませぇ、という元気な挨拶が聞こえてくる。誰だろう、と俺が判断するまでもなく、声の人物はこちらを向いた。
インコが働いている。白い制服の上に、コンビニ指定のエプロンをつけて。カウンターの中からにこやかに声を発している。
「何やってんだお前」
「働いてる」
馬鹿じゃないの、彼女の目がそう語っている。
「店長は? 」
「一週間ぐらいならいいって。金ないって言ったらついでに働けって」
「確かに人手は不足してるけど……。なかなか適当だなうちの店」
「いい人じゃん、あのおっさん」
「いい人なのにおっさん呼ばわりかよ」
「うぜーこまけー。ちっさい男」
「つうか一つ言いたい」
「なによ」
「あのバッグ売れば」
「あんったねえ。節穴? その目。
あれ偽物だし。一目見て分かんない?
あんなの売れるわけないじゃん。あたしこう見えても貧乏人よ? 」
どう見えるというのだ。
高校生にしか見えない。
「ああ、悪かった」
俺は店の奥のドアを抜け、「関係者以外立ち入り禁止」とかかれた扉を開ける。
事務室では店長が神経質そうに書類をにらんでいる。
胸には「富田」とかかれたネームプレートが光っている。
三十代半ばで店を任される、そのことがどれほどすごいことなのかはよく分からない。何がすごいのか、言葉に出して表現するのは難しいけど、人間としての生きざまというか、潔さで俺は彼のことを尊敬している。
「ちょっと店長」
「なに? 」
「あの子雇うって本当ですか」
「ああ、そのこと。別に構わないんじゃない?
寝るときも、奥の部屋使っていいって言ってあるし」
「何が起きるか分からないじゃないすか」
店長は、こちらをむいてにやりと笑った。
「それはね、君の仕事。何かが起きて責任を取るのが僕の仕事。
期待してるから」
「ずっるいなあ富田さん」
俺は笑う。
「そんなこと言われたら、断れない」
「行く当てもなくさまよわれるよりも、目に届く場所に居させたほうが安心、ていう判断でもあったんだけどね」
「なるほど」
「ま、一段落ついたら飲みに行こう。いい店見つけたんだ」
「奥さんは? 」
富田さんは苦笑した。
「大丈夫、彼女が働いてる店だから」
日野胤子は数日奥の部屋に泊まり込んだが、ついに制服→制服の連鎖にたえきれず帰宅。適当ないいわけをして(最初から帰れよ、という反論は却下された)、ことなきを得たとの報告を聞いた。それで全く彼女との縁が切れたかといえば――そんなことは全くなく。小遣い稼ぎに丁度いいとほざき彼女はバイトを続けていたりする。
そして一週間ほど経ったある日。
俺がその日コンビニについたのは九時前だった。いつも少し早めに来て、雑用をこなすことに決めている。その日は雨が降っていて、俺は濡れた傘を適当なイスに立てかけた。
ジャケットを脱ぎ、水滴を払う。
コンビニの制服に着替え、鏡の前に立つ。湿気のせいで髪にまとまりが無かったが、いつものことだとあきらめる。遠くからインコのでかい声が聞こえる。
九時。牧野に挨拶して、交代する。牧野と一緒にインコが帰った。最近仲がいいようだ。類似点をあげるとすれば二人の金髪だろうか。
誰もいない店内。
だからといって「この店は俺のものだー!」という訳の分からない高笑いをするわけでもなく、俺は黙々と雑誌漫画を読んでいた。雨のせいで店内は暗く、じめじめしていて、少しだけ気分が沈む。湿ったポテトチップでも許せてしまうような無気力感。
雨だから人が来ないかと言えば、そうではなく――むしろ多かったりもする。傘を買ったり、雑誌のついでに出来合いの弁当を買ったりする。だから、その男が来たときも別段俺は気にしなかった。
まず男の外見について。
二十代後半ぐらいだろうか、その割には広いでこ、神経質そうな顔の上にメガネをかけている。たっぷりと水分を吸った七三から、水滴が垂れて落ちた。
隣に抱えてるのは少女ともいえる年齢の女の子で、こちらはインコのエセ金髪とは違い、ナチュラルな色をしている。表情はわからないが、少なくとも健康ではなさそうだった。
なんとなく予感はしていた。そのときは「あーめんどくせえ床ふかなきゃ」ぐらいにしか思わなかったが、それは不吉な出来事を予感していたのではないかと、今になれば思う。
男は、何も買わずに、俺に説明する。この子は、とある重要な人物ですが、とある理由によって不都合な存在となり、さる組織に狙われている。だから預かって欲しい。
断った。
指示語多すぎるし、話が抽象的でよく分からない。男の素性も分からないし、こんな一介のコンビニとその店員に何ができるものか。保護とか安全を求めるなら警察にでも行け。そう言った。
けれど男もなかなか折れない。
危険はないし、警察に連れて行くほどのことでもない。警察に頼れるようなことでもない。わけあって素性を明かすわけにはいかないが、どうかこの子を頼まれて欲しい。
全然だよ。
全然話がかみ合わない。
まず第一、男の目的とか理念が理解できない。
何のためにその子をここに置きたいのか。
んで、本当にお前は誰なのか。
そんなやりとりが、かれこれ三十分は続いた。
俺はあきらめ、それよりも先に雨にずぶ濡れている少女がひどく気になって、富田さんに電話をした。
すぐだった。
俺が状況を説明するとすぐに「いいよ」って。
しかたなく、俺は承諾することにした。
男は何度も礼を言って、一枚の名刺を差し出すと、店を出て、傘もささずに走っていった。
というのが、今に至るまでの説明。少しだけ頭の中を整理する。
どうしよう、という困惑よりも、まず少女をどうすべきかが問題だ。まさか俺が裸にひんむいて世話をしてやるわけにもいかないし、言い逃れする方法もない。時計を見ると深夜の十二時に近くて、ため息とともに俺は日野インコの携帯に電話をした。
「もしもし? 」
「俺」
「あーはいはい。何? こんな時間に」
「悪い、今からこれないか」
「今から? ……別にいいけど。仕事? 」
「うーん、なんつうかな。ボランティアだよ」
「似合わねー」
声を上げて笑う姿が目に浮かぶ。
「分かったよ。んじゃ、すぐ行く」
携帯をしまい、俺は水道近くにある清潔そうなタオルを絞り、目についた範囲で少女の水を拭いてやる。歳は十歳前後だろうか。眉目秀麗という言葉で片づけてしまうのは簡単だから、そうではない言葉を探す。彼女は髪の毛の色素が薄い――というか、「黒くない」。すっきりとした目鼻の通りに、高い鼻。こじんまりとした唇。それら全てが相まって、彼女はとても日本人には見えないのである。
犯罪だ、と俺は思う。
もし外人の少女がみんなこんな外見をしているなら、それは犯罪だと。
何に罪があるのか、どんな法律で決められているのかは定かではない。ただ、なんとなく日本に住む不条理を感じてしまう(もちろん、日本に住む女性の大半が、俺と逆のことを思っているだろうことは想像に難くない)。
フスマという古典的なドアを開け、人が入ってきた。インコである。彼女は傘をたたみながら、自分の肩が濡れているのにも頓着せずにまっすぐへとこちらへと来た。
「どうしたの、これ」
声はかすかに怒気を帯びていた。
「頼まれた」
「頼まれたって誰に……、ああ、もういいから!
早くお湯沸かして。それから替えの下着……はあたしが用意するから。
とにかく出て行って」
「あ、ああ……」
俺は言われるがままに部屋を後にする。
どうして彼女が怒っているのか分からなかった。
渋々給湯室へ赴き、使い込んだ金色のやかんに水を入れる。コンロにのせ、点火。沸き立つまでには少し時間がかかるだろう。
そのとき店を放り出していることに気づく。慌てて戻ろうとするとき、清潔そうなタオルが水道のわきに重ねられていたので、必要になるだろうとの判断から、それをとる。
「おい、インコ? 俺、店に出てるから」
ノックして、フスマを開ける。
「何入ってきてんのよ変態」
状況はちょうど……インコが少女の服を脱がしているところだった。
「ほら、タオル」
「あんた、もしかしてロリ? 」
こちらに目をむけず、作業を続けながらインコが言う。
「ちげえよ」
「だってなんか優しいし」
「どんな勘違いだ」
「わざわざ中まで見に来るし」
「偶然だ。何怒ってんの? 」
「別に……」
「悪いけど、俺そういうわけだから。その子のこと任せる」
「うん、分かった」
インコの返答に満足し、その場を後にする。
急いで来た割に、人影は無かった。なんだ、もう少し居てやればよかった。
雨が降っている。こんな日の夜中、外出する人間も珍しいだろう。視界は悪いし、走りにくい。よほどの理由が無ければ外へ出たくなくなるでは?
雨が人間を孤立させる。それはたとえば、傘を持った人間だとか、そういう意味でも構わない。普段見えない自分のテリトリーを傘によって強調することになる。見知らぬ人が近づいてきて、不快になる距離を、明確に示すのだ。一般に親しい仲になるほどその距離は密接になっていく。もしかしたら相合い傘なんて行動も、起源はそこにあるのかもしれない。他人に見えるテリトリーを作り、「恋人」という「他人」を、テリトリーの中に居れることによって、二人の関係を形で示す、という役割。
雨による音の遮断。妨害。視界不良。それによる孤立。湿って肌にまとわりつく空気が、むしろ不快。
準備中でも、閉店でもいいから、外へと示すプレートが欲しかった。
遠くでやかんの音が聞こえる。
「ああ! 」
自然といらだちで声が漏れる。
濡れることに頓着し、傘を買いにコンビニへ来る大人の相手をするよりも、行く当てなく、意識朦朧とするまで濡れた子どもの世話をすべきでは、と思う。
客なんて待たせてしばえばいい。
嫌なら違う店にでも行けばいいのだし、濡れたって家に帰ればシャワーを浴びて、着替えることができる。
それができない人間はどうなんだ。
そう思いつつも、体は一歩も動き出せないでいた。
客が入ってきたので思考をとめる。ふるえる右手を、ポケットの中にねじこんで無理矢理黙らせる。いらっしゃいませ、その声で俺はコンビニの店員に戻る。
しばらくして、店に富田さんが現れる。
青いレインコートを着て、後ろには女性が一人。きっと彼女が、富田さんの奥さんなのだろうと推測する。目につくような美人、というわけではないが、話してればクセになりそうな、どの場にも一人は欲しいような愛嬌のある顔。美しいよりかわいい、かわいいよりもかわいらしいといった感じだった。
「お疲れ」
富田さんが、傘をしまいながらこちらに声をかける。
「女の子は? 」
「奥です。さっき、インコを呼んで……世話頼んでます」
「大丈夫なの? 」
「たぶん……。雨に濡れて疲れただけだと思いますけど」
「ほら、ぼさっとしないでイチ」
隣に居た女性が、横から口を挟んだ。
「あの、失礼ですが……」
「私? 」
女の人は自分を指さし、目を丸くした。
「言ってなかった? まぁいいか。
わたしはそこの男のツマをやってます。名前は葉」
「葉さん、ですか」
「そうよ。よろしくね。いろいろと話したいのも山々だけど、後にしましょう。
イチは店番ね」
「はい」
どうして敬語なんですか?
あわただしく彼女は、奥へと消えていった。
富田さんの立ち姿は、雨に消え入りそうなほど暗い。
「あの……、活発な方ですね」
「ああみえても怖いんだ」
「ご結婚はいつ? 」
それが一番知りたい問題だったりするが、その事実は黙っておく。
「そうだね、君がバイトを始めてから……二年あとくらいかな。
彼女と知り合ったのは高校の時だから、結構つきあい自体は古いんだけどね」
「まさか富田さんが来るとは思いませんでしたけど」
「情けは人のためならず、てね。
人手は少しでも多いほうがいいと思って 」
「そりゃそうだけど……。奥さんだって寝てたんでしょう? 」
「彼女はね、今から仕事に行くところだったんだ。
だから丁度いい。僕はまぁ……いいよ」
「今から仕事って。何の仕事ですか? 」
聞かない方がいいと思いつつも、俺は質問を口にしていた。
どうも、夜中になるとこういった細かいブレーキがきかなくなる。
「夜のお仕事」
彼はそうつぶやくと、しみじみとため息をついた。
日が明け始める。
結局、俺はいつも通りの仕事をした。富田さんは午前三時ごろまで俺につきあっていたが、奥さんの「帰るよ」の一言で、あっさりと彼は帰宅した。もしかしたらここに来たのも、全て奥さんが原因なのかもしれない。
六時頃、いつものように高坂が店に顔を出した。
「昨日の子、どうですか」
無表情に、高坂が言う。
「うん、店長とか、それから奥さんとか来たから大丈夫だろう。
インコも呼んだし」
「代わりますよ」
高坂は素早く制服に着替えて出てくる。
「まだ一時間もあるけど……」
「心配でしょう? 」
「ああ、悪い頼む」
エプロンを脱ぎ、しまう。
手を洗う。
何を緊張してるんだ、俺は。
奥の部屋へと向かう。
部屋の中では、インコと少女が折り重なるようにして寝ていた。毛布にくるまっているものの、布団もない部屋での雑魚寝は寒いだろう。アホかインコ。エアコンのスイッチをつける。
少女の顔を見ると、昨日よりもだいぶよくなったようだ。顔には赤みがさしているし、頬に触れてみても熱っぽい感触はしない。は、と安堵のため息をつく。
インコが身じろぎをする。
いつみても彼女の制服姿はセクシー。
なわけないな。
まず制服ですらないし。黒いジーパンに青いブラウスの上に、白いジャケット。全体的に色彩が淡い感じを受ける。まるで天使のようだ、と言ったら俺はたぶん恥ずかしさで死ねると思う。
それにしても。
こいつほど中身と外見にギャップがあるやつも珍しいと思う。
中身はどこにでもいそうな単なる女子高生だ。よくも悪くも純粋で、若い。
インコが目を開けた。
「あれ……いつの間に居たの」
「今来たばっかだ」
「たぶん大丈夫だと思うけど……。あーあ、今日サボろうかな」
「学校には行けよ」
「はいはい」
めんどくさ、と彼女は体を起こした。
「夕方、いつもの時間に来るから。変なことすんなよ」
「誰がするか。アホか」
んじゃばいばい、と寝ている少女に手を振った。
さて。
俺も少し寝ておこうか。家に帰ろうかとも思ったが、少女が起きたとき誰もいないのでは話にならない。
入り口の近く、いつものように目を閉じた。
それが夢であることをまず、認識する。
あるいは思いこむ。望んで錯覚する。
妄想する。まぁ、なんでもいい。現実に関係のないことさえ分かってれば。あとは何の問題もないのだ。
それは、たぶん夏だった。
「彼女」は青いノースリーブのサマーセーターを着ていて、ジーパンを膝までまくっていたから。
そしてそこは、たぶん海だった。
ひっそりと人影のない赤い砂に、遠目に見える岩肌。足下にうちよせる白い波。残念ながら、波の音は聞こえない。
「彼女」は「俺」のことを君、と呼んだ。ねぇ君、元気? 恋してる? 僕は黙って首を振り、それが嫌でたまらないと言うように毒づいた。うるせえ、姉貴には関係ねーだろ。
あら関係ならあるわよ。言って「彼女」は微笑む。心の中を見透かされているようで嫌だった。けれど俺は、その笑みに抗うことができない。いつものことだ。そうやっていつも姉貴にペースを握られる。
唇に触れる柔らかな感触。甘い匂い。体臭。声。それから、いつも遠目に見てる漆黒の髪にふれる。誰よりも暗く、誰よりも優しい色。姉貴の全て、「彼女」が彼女である全ての条件に僕は打ちのめされ、呼吸が苦しくなるほど心臓が脈打つ。
俺は、とても悲しい。そしてむなしい。
それでは駄目なんだと、俺は叫ぶ。
それじゃあ誰も幸せになれない。
きっと、誰も――。
目を覚ます。気持ち悪い。不安? 恐らく、限りなくそれに近く、けれど異質な感情。恐怖と未知と、それからいらだち、最後に無力感をブレンドしてこの感情ができあがる。口当たりは最悪。できることならもう二度と味わいたくない。
目をつぶり口を押さえ、トイレに駆け込む。中に誰もいないことを確認してから、水道に向かって口を開ける。口から唾液がたれる。一瞬、それが黄色い訳のわからない液体だと錯覚する。エイリアンにでもなった気分だった。
こうやって、不安も恐れも何もかも、感情をはき出してしまえばいいのに。
そうすればすっきりして、クリアな気分で生活ができる。
蛇口をひねり、手で水をすくって口の中をすすぐ。かびくさい水道水が、今は桃のような甘い味がする。魔法だ、と思った。例えそれが詐欺であっても、信じることで体内が満たされるなら信じよう。魔法が体内を浄化している。そんな錯覚を持って、俺は水を飲み干した。
鏡を見ると、いつもと同じ平然とした顔。
先ほどまでの感情、胸の中に渦巻く黒々としたモノなど何も無かったかのような表情。一瞬ほど前の出来事だったのに、俺にさえそれが疑わしく思える。
だから自然と笑みがこぼれ、寝癖を直してトイレを後にした。
少女は、体を起こして窓に乗り出すようにして外を眺めている。昼近い今の時間では、人通りは少ない。たまに通る白い車、自転車を見て一つ一つを彼女は目で追っていた。
「大丈夫? 」
俺の言葉に、少女は小さく身を震わせた。
こちらを向く。
「あ、はい。あの、ありがとうございました……」
「君のせいじゃないから。文句はあの変な男に言うことにする。
んで、聞きたいことはいっぱいあるんだけど……」
俺は頭をかいた。
「とりあえず、一つ目。君は誰? 」
「名前ですか? 」
「それ以外に何がある」
「名前は、えっと……。ソラです」
「日本人には見えないけど」
「あの、本当はとても発音しにくい名前なんです。
だから、言いやすいように、ソラ」
「そういうことにしようか、ソラ。じゃあ二つ目。
男の言ったことの意味するところ、君の置かれた境遇……ていうかどうして雨にうたれてたのか、とか色々だけど……。
まぁ簡単に、君の置かれてる状況を説明して欲しい」
「答えづらいなぁ」
ソラは笑みを作る。
「パスです」
「するな。じゃあ質問を変えよう。どうして、ここに居るの? 」
「連れて来られました。私が頼んだんです」
「何故雨にうたれてた? 」
「濡れたくて雨にうたれたわけじゃありません。
捨ててある猫を助けようとして、歩きまわりました」
「次。俺に何を望む」
「私の拾った猫の飼い主を募集してください」
「よし、分かった」
「分かってもらえましたか」
ソラが息を吐く。
俺は携帯を取り出した。
「110番だな」
「ちょっと待って! どうして? なんでですか。
今分かったって……」
「お前が不審者だってことがな。
見知らぬおっさんにそこまで流ちょうに説明できるガキは知らん。
しかも質問に対して、ほとんどノータイムで答えたろ、お前。前もって理由を考えておいた証拠だ」
「あの、私……」
「実際に何かあったのなら、お前は俺に説明なんてするべきじゃなかったんだよ。
何も言わずに泣くか、どんな質問にも答えず『助けて』って言えばよかった」
ソラから表情が消える。
「んじゃ、もう一回聞こうか。
お前は誰だ。何をしに来た」
「私は、」
少女が息をとめる。そしてゆっくりと、言葉をはき出した。
「カミです」
「神? 神様のこと? 」
「ええ。一口にカミと言っても、たくさん居るのです。
そりゃあ日本にはわんさか居ます。私はその中の端くれでしかない。
名前はソラ」
「あ、そこは譲んないんだ」
「ええと、まぁ、譲れません」
ソラが苦笑する。
「んで、何をしに? 」
「あなたを、殺しに」
ソラの顔が、少女のソレから得たいの知れない表情になる。年相応の表情が一変して、年齢の分からない魔女のような笑みになる。
「そう言ったら、信じてもらえますか? 」
「信じないって言ったら? 」
「別に。どうもしません」
「最初から全然期待してなかったけどさ、もっとマシな嘘つけないわけ?
俺を殺すつもりならこんな回りくどい方法取らずに、一思いにやればいいのに」
「嘘じゃないんです」
「俺、殺されんの? 」
「あ、それは嘘です」
「信じられんなー……ともかく。俺は一番君の頭の中が疑わしいよ。
花畑でもつまってんじゃないの」
「ええととにかく、説明は以上です。証拠はありません。わりとあなたが信じる必要性もなかったりします。けれど、私がカミであることは真実なのです」
「証拠も無いのに? 」
「ええ。必要ありませんから。
だって背の高い人がわざわざ保険証を持って、自分の身長を示しますか?
男である人、女である人がわざわざ性別を証明しますか?
人間であることが見てわかりませんか? わざわざ人間であるか否かを問いたりしないでしょう。
本当に間違いなくカミであるならば、証明する必要など何一つない。あなたに信じてもらっても、そうでなくても、私の存在はゆるがない」
「ああ、その説明が今までで一番納得できる」
俺は笑った。
「そうですか? 」
「独善的なとことかな。気にしないで続けて」
「そうですね、私の行動理由を理解するためには、たぶんあなたの置かれている状況を説明するのが一番だと思います」
「俺のこと? 」
「はい。とても不安定だということ。たとえばですね、あなたには『運命』というものに関係をもっていないのです。名前がない」
「名前なら、あるけど」
「魂が組み込まれてる、という話は仏教的ですね。キリスト教的に言えば、あなたの存在は異端……つまり悪魔に位置づけられます。私たちの説明で言えば、あなたは人間よりもむしろ我々に近い。
私たちは『因果』や『運命』といった縛りがありません。縛りがないから。あなたは人がもてない力を持つことができるとも言えますが、同様に守るものがないからあなたはとても危険です。粘膜みたいなものです。外界と隔てる膜がとても薄い」
「俺が、カミ? 」
「ええ。けれどそれは、同時にとても危うい」
「ああ、分かった……。
水素ガスのつまった風船みたいなもんだろ?
手から離れた風船は、上がるときはどこまでも上がるけど、いつ爆発するか分からない。
墜ちるときは、どこまで行くかわからない」
「ええ、ええそうです。よく自分の立場を理解してますね」
「けれど、どっちつかずの存在なんてありえない」
「そうです――ご存じですか? 水素ガスの入った風船の威力を」
「割られる前に割ろうと? なるほど。だからさっき『殺しにきた』なんてうそぶいたんだな」
少女はためいきをついた。
「そうです。けれど、今までのやりとりを見てるうちに、考えを改めました。
あなたは危なくない。危ないのはあなたの置かれている状態だ、と」
「それで俺はどうなるわけ? 」
「どうにもなりません。生きてください。私が守ります」
「何から? 」
本当、と彼女は表情を和らげた。
「何からでしょうね。
でもあなたも身に覚えがありますでしょう?
他人の感覚を、自分のものと錯覚するような状況。まるで自分が幽霊になって、他人にのりうつったかのような錯覚。
憎悪とか怒り、悲しみなんて単純な感情ではなく、一言では説明しきれない、闇鍋のような感情。
それらを見た、聞いた、体験したことがあるはずです。
そのたびにあなたは思ったはず。『幸せになれない』と」
「たまにそんな夢を見る。
……待ってくれ」
俺は頭を押さえる。けど、本当に苦しいのは心臓だ。
「その説明からすると、俺が夢でみた状況は実在するのか? 」
「します。そのなかの何割が本当の夢なのかはわかりませんが、あなたは無意識のうちに他人の感情に同調しています」
「彼ら、彼女らは……どうなったんだ。幸せには、なれなかった? 」
ソラは目を伏せた。
「それは、どうでしょう。
運命は分かりませんから。あなたの能力は、『運命を見る』ことではありません」
「けど、きっとあいつらは幸せにはなれなかった」
それだけは断言できる。
「幸福」は手に入らなかった。
そんなもの、客観的に見ればすぐに分かるのに。
彼らは必至すぎて、見えなくなっていた。
みんなが幸せの入った箱を持っているのに。
自分たちの中身は空だった。
そしてそれは、
バケツの中を水が満たすように、溜まるわけではなかった。
温泉や油田のように、勢いよく吹き出すわけでもなかった。
ろ化するように、じわりじわりとしみ出すわけでもなかった。
だから、
誰もが必死で。
誰もが捨て身で。
環境をすて。うとまれ。反対され。自分と相手以外の全てをなげうって。
そうしてやっと中身を手に入れようとした。
そこではじめて気がつくんだ。
箱には穴があいていて。
結局、やはり、箱は、空のままだってことに。
トイレにかけこんで、今度こそ吐いた。
何が出たのかすら覚えていない。
前と同じことを思った。
こうして少しでも感情が発散されれば、いいと。
俺はふらつきながら、台所の下にある賞味期限切れのワンカップを取り出した。
飲んで、忘れてしまおうと思った。
一口で飲みきる。頭がぼうっとした。頬が熱くなる。次第に全てがどうでもよくなる。調子がいい。俺は二つ目をあけ、それも一気に飲み干した。
胃に熱い液体がたまる。それは機械にさす油のように、俺の感情をコントロールしやすくする。集中力のとぎれた感情を操るのは、とても簡単。そして全てを忘れてしまえ。
三本目。
酔いが回る。
まぶたが重くなる。
視界がくるくると回転。
俺は、目を閉じた。
まず、それが夢であることを認識する。
季節は、恐らく秋。
地面いっぱいに広がる紅葉。黒い髪をなびかせ、「彼女」が前を歩く。紫色に唐草模様の着物。黄色い帯。己は腰に手をあて、ゆっくりとそのあとを追う。
お願いします。「彼女」が言う。
どうか戦になど行かず、私と逃げてください。
戦も、人もいない、そんな僻地で暮らしましょう。
「俺」は、首を振る。
それはできない。
闘うこと。戦に行くこと。
それが、自分にできる唯一の恩返しだから。
けれど、君を喪いたくはない。
だから、どうか。
例え独りになっても、逃げて生き残って欲しい。
俺は背を向ける。
後ろから「彼女」のすすり泣く声が聞こえる。
聞こえないフリをする。足が鉛のように重い。心臓が痛い。息苦しい。
頬に触れて、泣いていることに気づく。男は勇敢で、決してどんなときも、一度たりとも泣いたことなど無かったというのに。
それは男の涙じゃなくて、「俺」の涙であるのだけれど。
そして、いつものように俺は思う。
そんなことを思いたくない。必死に考えないようにするけれど。
まるで、それが本能のように。
まるで、それが運命のように。
俺に定められた機能であるかのように、いつもの一言を繰り返すのだ。
それじゃあ、幸せになれない――。




