第143話 愚かな女
再び2階と3階の中間踊場に差掛かったとき本日最後の障害が待ち構えていた。
ヴァージルだ。ここで翔太に代わる事だけは出来ない。今のヴァージルならすべてを暴露しかねない。そんな危さがある。傍にはネリーもいる。ネリーはちらりと刺すような視線をショウに向けて来る。そういえば、髪を下ろしたままだった。翔太と勘違いしているようだ。
フラフラした足取りでヴァージルの傍を通り過ぎようとするが抱き付かれる。ネリーは顔を顰めながらも大きなため息をつく。
その幸せ一杯のヴァージルの表情とは対照的にネリーは強烈な嫌悪の視線をショウに向けて来る。頭に手を置き、数時間前の様に優しく語り掛ける。
「俺は。ショウだ。翔太じゃねぇよ」
ネリーから嫌悪感と警戒心がとける。逆にヴァージルの顔からは生気が失われた。実に分かりやすい構図だ。ネリーは翔太を嫌悪し、ヴァージルはショウではなく翔太を求める。
確証までは持てないがヴァージルがショウに会ってから一時的に機嫌が好転したのは、翔太の一連の拒絶の行為は全てショウが原因だと判断したからだろう。ショウを食事に誘ったのも、翔太の事をショウの口から聞き出すためだ。というより、ショウの口から今までヴァージルを拒絶してきたのがショウのせいだという言葉を聞きたかったのかもしれない。翔太が真に好きなのはヴァージルだと聞きたかったのかもしれない。
「今晩にでも話はゆっくり聞いてやる。だから、今は帰らしてくれ」
「ヴァージル。今晩ショウ君に聞いてもらおう。ね?」
「うん……」
頷いているのにショウから離れる気配すらないヴァージル。助けの視線をネリーに求めるが、首を左右に振られる。
もう意識を保つ臨界はとっくの昔に超えている。今こうして立っているのも奇跡に近い。ヴァージルを振りほどくのは最も単純な方法であると同時に最も難解な方法だ。翔太は過去に本気でヴァージルに惚れていた。それは誓っても良い。
そして、今も少なからず思っている。その証拠にショウもヴァージルへの気持ちに多少なりとも引っ張られている。身体を振りほどけない程度には。
「すまん。離してくれ。頼む」
呻き声のようなショウの声に一度はビクッとしてショウの顔を見上げるが、また顔をショウの胸に埋めてしまう。ネリーもショウの額に浮かぶ玉のような汗に気付き慌て始める。
「ちょっと、ショウ君、顔真っ青よ。ヴァージル、我侭言わないの! 早く離してあげなさい」
「うん……」
離すつもりは微塵もないだろう。このままこうしていれば大好きな翔太に会える事が本能でわかっているのだ。
どうしてこの女はこうも愚かなのだろうか。翔太のような下種な奴よりオットーの方がいくら良いかわからない。あんないい奴には一生かかっても巡り会うことなど出来はしないのに――。
「ネリー、悪い。そろそろ翔太に代わる。絶対に俺の存在を知らせないでくれ。知らせれば俺は――」
正直今のヴァージルの前でこの事を話すのは自殺の名所の崖から頭からダイブするようなものだ。だが今はそう言ってもいられない。ネリーを信じるしかない。
「わ、わかったわ。任せておいて」
ネリーは済まなそうな顔をショウに向けて来る。
「ありが……とう」
グニャグニャと捻じ曲がる視界に顔を歪めながらネリーに微笑むショウ。
「まったく……なぜヴァージルは貴方を好きにならなかったのかしら」
そんなネリーの言葉と共にショウの意識は深淵へと落ちて行く。