襲撃
理不尽に突きつけられた刃先を、リリコは身を後ろに引いてかわした。
後部にベンチがあったことが幸いした。体勢をを崩すことなく座し、男の腕が頭上を通る。まさに紙一重の回避。相手のリーチが人並み程度だったことも僥倖だったろう。
「くそ、なんだよてめえ!!」
突如として攻撃してきた謎の男に、リリコは吠えた。しかし、徒手空拳の彼女ががむしゃらに抗ったところで得物を持っている相手に叶うはずがない。薬にやられていた柿鐘の状態でも、そう即断したに違いないだろう。
なので、ここでリリコにできる行動は闘争ではなく逃走だった。
追撃で男の腕が頭上に振り下ろされる前に、転がるようにしてベンチから降り、這う這うの体でその場から逃げる。
「……逃がさん」
恨みのこもった声が聞こえてくると、案の定男は追走してきた。空を切る出刃包丁の音が不気味に響く辺り、手に持ったまま走っているのだろう。
「おいおいおい……ったく、なんなんだよあのクレイジー野郎は!?」
かつての自分のように、薬でもやってハイになっているのだろうか。リリコは公園を抜け、全速力で人垣の多い大通りへ向かっていった。さすがに東京の通勤ラッシュみたく雑踏が形成されているとは思えないが、目撃者の一人でもいれば公序良俗を重んじる警察官に連絡してくれるはずだ。また、男が誰かに目撃されたと思って強襲を諦めてくれる可能性もなきにしもあらず。
「まあ俺の代わりに善良な市民がぶっ殺されたとしても知ったこっちゃねえけどな。むしろ儲けもんか。いきなり見ず知らずのキチガイ野郎に殺されて人生終了なんてたまったもんじゃねえ」
後ろでは未だ男が追走を続けてきている。その手に心臓を貫ける刃物を握りながら。
こういう肝心な時に、未だ人とすれ違わないのは神のいたずらなのだろうか。だが、このまま車の行き交いがない交差点の信号を無視して、国道の標識看板が指す方へ逃げていけば大通りに出られるはずだ。
あともう少し。
信号を無視し、細い足を死にもの狂いで前に出すリリコ。徐々にその差が詰められていると足音で判る。やはりまだ、女性の体にうまく馴染めていないようだ。……特に胸。体はひたすら前に進みたいというのに、この二つの脂肪の塊は、地を踏むたびに左右へと不規則に揺れてくる。
「無駄にでけえってのも、しんどいんだな……くそっ」
大通りまで残り五十メートル。ここが胸突き八丁だ。
雑踏が形成されてる道を思い描き、一心不乱に走り――走り――走って――
「よし! 勝っ――――」
達成感で一杯の笑みになるはずだった顔面は、疑問と動揺で歪んだ。
それもそのはず。誰かいるだろうと信じて疑わなかった大通りには、
車どころか、人っ子一人いなかったのだから。
「んだよ、それ!?」
理不尽な逃走劇はまだ終わらない。
とうとう得物を振り回し始めた男を尻目に、リリコは無人の道を駆け抜けた。
一瞬安堵してしまったせいか、男との距離が一人分縮まってしまっている。
「新手のドッキリか!? リアル過ぎんだよ! ディレクター顔出しやがれや、この野郎!!」
溜まったストレスを大声を出して発散させても、虚しい無音が帰るだけ。どころか逆に疲労が倍増しに溜まってきて、自分の愚かさを呪うだけに終わった。
町は、早朝というよりゴーストタウンのような有様だ。
まるでリリコとキチガイ男を本能的に避けるように、すれ違ってもいないのに姿を見せようとしない。
と言うより、気配すら感じられない。
「はあ……はあ……」
リリコの体力は底尽きる寸前だった。やはり柿鐘の時より、だいぶスナミナが落ちている。
片や男の方はこれもまた奇妙な話で、走りづらいぶかぶかなスーツを着ているというのに、一向にスピードは落ちず、むしろ速度を増しているようで、開いた距離を確実に詰めてきていた。
ここまで来ると暴漢というより化物だ。
これ以上直進した逃走だと、確実にゼロ距離で後ろから心臓を貫かれる。否、もう後ろからいつ腕を伸ばして攻撃してくるか判ったもんじゃない。
「――死ね」
と、そう思っているうちに、後ろから聞こえてきた攻撃予告。ご丁寧に間近で言ってくれる辺り、その場を支配しているという男の余裕が伝わってくる。
相手が本当に攻撃してくるかどうか、いちいち考えている暇も体力もない。
「……っ!!」
リリコは男の言葉を真に受けて、踏み込んだ左足を軸にして横転。さっきまでいた背中辺りを男の出刃包丁が空を切った。
そして、足が止まったことで距離が零となる。
残るリリコの手段は、姑息な手段しかなかった。
相手の男は立っている状態。なので出刃包丁を振り下ろさなければリリコには当たらない。
彼女は左へ二回横転することで追撃をなんとかいなし距離を開ける。そして疲れた体で建物の間の路地裏へと逃げ込むことにした。
陽光を両側の高い建物が遮り、視界は暗くなる。
それで路地裏が錯綜していれば、残り少ない体力でもなんとか振り切ることができるだろうと考えていたが。
「うおっ――」
浅慮だった。
終始全速力で逃げていたリリコの足はもう限界に達し、路地裏の真ん中まで来た途端もつれて転んでしまった。
受け身を取れないまま地面に叩きつけられ、腹這いになる。せめてもの幸いは最初に胸が地に触れたことから、顔に大きな衝撃を受けなかったことだろう。
しかし、そんな肉体面の幸いは現実面での悲劇で払拭される。
「……くそっ」
「死ね……死ね……」
体ごと振り返ると、目の前にはにじり寄る男の姿があった。あれだけ走ったのに汗一つ流さず、初対面の時と同じ毅然とした顔を保っている。
「…………てめえ」
男を睨みながら、リリコは言った。
「なんでこんなキチガイなことやってくんだ。薬でもやってんのかよ?」
「…………」
「この顔に見覚えでもあんのか?」
「……お前は」
と、そこで。意外なことに。期待していなかった男の口が開いた。
「お前は……敵だ」
「は? はあ? じゃあやっぱ俺のこと知ってるってことか?」
「お前は……殺さねばならない」
「質問に答えろ!」
「俺が……生き残るために」
「え――――」
その言葉に、死の淵にいるリリコは呆気に取られた。
生き残るためにリリコを殺すということは、つまり男にとってのリリコは男を殺すという立場ということなのか。
こんな十八歳の少女が一体どうやってキチガイ刃物男を襲うというのか。体内に埋められた爆弾のスイッチでも持ってるとでも言うのか。全くもって理解できない。思考の袋小路である。
そして、リリコがいるこの現状もまた袋小路。退路は断たれ数秒後にはこの路地裏が惨状へと変わるのだろう。
「畜生……」
せっかく手に入れた新たな人生が、こうも呆気なく終わるのか。
苦虫を潰したような顔をして、間もなくやってくるだろう激痛を……リリコは覚悟した。
「う、ぐぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
瞬間だった。
男の体が謎の跳躍をし、路地裏の奥の方へと吹き飛ばされた。
冷静沈着だったにもかかわらず悲鳴が上がることから、不可抗力によってやられたのは推して知れる。
事実、リリコの周りの空気が熱く、直近には炎の残滓がかすかに残っていた。
「なん……だ……?」
後ろに吹き飛ばされた男よりも、男を吹き飛ばした炎の方に注意がいく。
やがて空中の火の粉がなくなると、路地裏の入口にいる一人の影を確認できた。
「キャハハ、間に合っちゃったー?」
軽快に笑いながら近づいてきたのは女性だった。栗色のミディアムヘアに灰色のダッフルコート。右手を前に突き出して近づいてくる様を見て、にわかには信じがたいが……あの炎は彼女が撃ったもののようだった。
「よっ、無事かい可憐な女の子ちゃん?」
「あ……ああなんとか」
「キャハ、それは重畳」
と、しゃがんで屈託なく笑う女性は純真無垢な印象を晒す。元三十近い男に向かってその呼び方は如何なものかと不満に思ったが、しかし今はそれよりも彼女に吹っ飛ばされた男の方が優先である。
「お、おい……あの野郎ってなんなんだ? 俺のこと殺さなきゃならんとか、生きるためとか言ってたが……あんたまさかどういうことか判るのか? あんたはあんたでさっき『間に合った』つったし」
「ああ、それ気になっちゃう? マジで知っちゃう?」
「なんもないとこで火を出したこともな」
「うわー知りたがり屋だねー、キャハハハ、まるで迷子の子猫ちゃんだよー」
「……悪かったな」
カチンとくるが、助けられた身である上、彼女は人間離れした攻撃を持っている。情けなくても、リリコは小さく不満をこぼすことぐらいしかできなかった。
「まあ君がそうやって混乱することも判るよ」
「は?」
「立てる?」
「……ああ」
意味深な言葉を言って、女性はリリコに手を貸し立たせてくれる。
そして、
「でもいろいろ教えてあげる前に、まずはあの野郎の始末をしちゃわないとねー、キャハハ」
再び笑って路地裏の奥を見据え、右手を突き出した。まるで突貫してくる者に、ストップとジェスチャーしているような構え。しかし左手の方は寒いのかコートのポケットに突っ込んでいて、いかにも気怠そうな印象だ。
「や……あいつはさっきあんたが派手に吹っ飛ばしたじゃねえか」
「まー確かにボッカーンしたけど、あれじゃ駄目だね」
「駄目……?」
「しぶといってこと」
そう言って女性がキャハハと独特な笑い方をするや否や、倒れていた男がふらつきながらも立ちあがってきた。
「……なんで生きてんだよ」
「頑丈だからねー」
「だからなんで頑丈なんだよ」
「そりゃ私達の敵だから」
駄目だ。訊けば訊くほど疑問が出てくる。
リリコは怪訝そうに女性を見つめたが、それ以上何も口に出さなかった。ともかくこの窮状から逃れないといけない。そしてその脱出を謎の女性はできるようだ。しかも軽率気味に。
「お……おま、え……」
まだ体から硝煙が立ち上っている男はギロリと女性を睨みつける。
「お前もこの女と同じ……地獄連行人か」
「キャハハ。訊かなくてもその半端に燃えた自分の体を見れば判るでしょ、バカじゃないの? バーカカーバ」
「いつから俺に……気づいていた?」
「この子猫ちゃんが大通りに逃げてきてからだね。人避けの護術でごまかしたつもりだろうけど、地獄連行人には通用しないって知らないの? で、ちょこっと遠巻きに傍観してたんだけど、なんだ結構しょぼい能力みたいだね」
「なんだと……?」
「体が頑丈なのはあんたらみたいな雑魚軍団のハンデとして、スナミナ切れないのは能力みたいだね。汗かいてないし、そんじょそこらの包丁使ってるあたり、小物臭と加齢臭がプンプン臭っちゃってるよ」
「ふん、威勢しか張れん死に損ないが。もう一度地獄に送り返してやろうか」
「キャハハハ、燃えカス寸前野郎が何寒いこと言っちゃってんの?」
「くたばれ!!」
と、男が会話を打ち切り戦闘態勢へと切り替わる。出刃包丁を振り上げ雄叫びを上げ、肉薄してくる。
「そのひねりのない攻め方が小物足らしめちゃってるのよねー」
対する女性の方は余裕綽々だった。左手はポケットに入れたままで、男が立ち上がった時から一歩も動いていない。
「死ねぇぇいああぁぁああああああああ!!」
女性の一歩手前で勢いよく包丁を振り下ろす男。おそらく、彼としては先程の威力の火勢では大した痛手にならないと確信しているのだろう。吹き飛んだのはきっと油断していたから。決然とした覚悟と勢いがあれば、か弱い女性の攻撃などなきに等しいとタカをくくっているのだろう。
「……キャハハ」
それが、命取り。
女性にとってあの火勢は一度に出せる威力の三割程度に過ぎなかったのだから。
勢いよく振り下ろされた出刃包丁が彼女の体に触れる前に――――
「ぎぃぁぁぁああああっ――――!!!!!」
男の体は炎の球体に包まれた。そして、
「七割ミディアムで焦がしてあげる」
「ああああぁぁぁああああああああああ――――」
女性が右手を振り上げると同時に爆発。
虫の息になった声と共に、男は再び後ろに吹き飛んだ。
「す、すげえ……」
完全に蚊帳の外となったリリコは、その無慈悲な実力差に息をのむことしかできなかった。爆発の衝撃が男の方にしか来ず、こちらには消えかけの火の粉と清涼な風が来ただけだったことも驚嘆の一つである。
威勢を張り、無様に完全敗北に終わっただけの男。女性は火だるまと化したそんな彼に近づいていき、それから何を思ったのか、
「よいしょ」
右腕の袖をまくり前腕を矯めつ眇めつ確認した。
「おい……何してんだよ」
「んー? ポイント確認かなー」
「は、はあ?」
やはり質問すると別の謎が浮かんでくる。しかし、後ろから覗き見してみると、確かに焼け焦げた男の前腕には奇妙なことにある数字が刻まれている。
『1』、と。
「ちぇっ、なんだやっぱり小物の中の小物だったかーざーんねん」
「…………」
その数字はどんな意味が込められて込められているのかとリリコは訊こうと思ったが、どうせまた疑問が出てくるだけだと思ってやめておいた。
代わりに、女性の行動を半信半疑で見ておく。
と、
「え――」
おもむろにコートの袖をまくった女性の右腕にも男と同じように数字の入れ墨みたいなものが刻まれていた。
彼女の方は、『13』と彫られている。
「おい、どうしてあんたの腕にも数字があるんだよ」
さすがにこれは、訊かずにはいられなかった。
「んー?」
すると彼女が笑みを含めて歩み寄ってくる。上背は少しリリコの方が高いのだが、その掴みどころのない性格から圧倒されている感が否めない。
そして密着するように真横にくると、女性は突然リリコの右腕の袖を拭ってきた。
何すんだ、と手を振りほどこうとしたが、それよりも、そんな不満よりも、リリコは自分の右腕に刻まれていた数字に言葉を失った。
本当、どうして今まで気づかなかったのだろうか。
「…………」
「うっわ『1』かあー、結構マジにヤバいねー君」
「……なんで?」
つと本気トーンになる声に、一抹の不安をリリコは抱く。
「もしかしてこの数字ってのは、なんかの強さみたいなもんなのか? 俺があの男と同じ数字だから、同じように雑魚ってことなのか?」
「やー違う違う」
「じゃあなんだよ。あんたの13にはなんの意味があるってんだよ」
「…………聞きたい?」
「……ああ」
聞かなければ、自分が今どんな渦中にいるのか判らない。どんな意味があるにせよ、気丈な態度で応じてみせる。
そして、女性は言った。
「君、このままだと長くても一ヶ月しか生きられないよ」
「…………マジ?」
「うん。キャハハって笑えないくらいマジ」
「…………」
気丈な態度とはなんだったのだろうか。
リリコの体から冷や汗が湧き出てきた。




