行く末
「鳴臣市……それがこの町の名前か」
コンビニのご当地情報誌により現在地を把握したリリコは、その詳細地図に目を通した。
総人口約四十万人。名産品は酢ダコの辛味噌和え。かつて柿鐘として住んでいた――いや、勾留されていた東京には劣る町であったが、一応インフラ整備は整っているらしい。主要な施設は市バスの路線ルートとして登録されていた。
「ま、こうして真人間になれたんだから、もう病院送りなんてお断りだけどな。とりあえず一般人として飯が食える間は犯罪なんてやってられん」
女になったとはいえ、夢にまで見た自由の身である。いつもつきまとっていた看守の眼をもう気にしなくていいのだ。
最高。薬では味わえない解放感が、今の自分にはあった。
現在時刻午後一時半。日付は二月十日で年は越してない。リリコは情報誌を元の棚に戻し、なけなしの金でサンドイッチとお茶を購入した。
たしかコンビニに向かう道中公園があったはず。そこで彼女は遅めの昼食を取ることにした。
昼食時の時間帯からそれていたのが幸いしたか、静かな公園には誰もいない。
ペンキが剥げ落ちたベンチに座り、買ったサンドイッチを大口で頬張る。
「はー食った食った」
ものの五分でリリコはお茶も飲みほし完食した。柿鐘だった時は生まれつき大食感で食い意地が張っていたのだが、この体になってもその性格は変わらないらしい。
そして、ベンチにもたれかかり、リリコは考える。
これからどう過ごしていけばいいのかを。
「あのボロ屋に帰っても、寝ることぐらいしかできねえだろうし……かといってブラブラこの町をほっつき歩くってのも骨が折れるな。…………あ、てか俺ってこの姿でぶらついて大丈夫なのか」
と、今更ながら気づいたことにリリコは顔をしかめた。
今の姿は死刑囚の柿鐘法男ではなく、謎の少女袖振リリコだ。なので、警察共にすれ違っても問答無用で追い回されることはないと喜んでいたのだが。
この袖振リリコという少女を中心とした人物相関図は一切知らない。ノーマーク。つまり、もし町を彷徨している時にリリコを知る誰かに会いでもしたら……。
「うわ、どうなっちまうんだ……」
かなり面倒なことになるのは判っていたが、何分そんなレアケースを経験したことがないので、事前の対処法は思いつかなかった。
とは言え、いくら死刑を恐れず受け入れた自分でも、挙動不審ぐらいにはなるだろう。
「ちっ……せっかく自由気ままに動けると思ったのに。気づくんじゃなかったぜ」
十八歳の少女が一人暮らしをしていることもあって、知人に見つけられたらもつれ合いが起きそうだ。
鏡すらない倒壊寸前のアパートに住んでいたことも、変な事情がある気がしてならない。
ともかく、この鳴臣市からはとんずらした方がいい。そうリリコは思った。
「面倒くさいのはもうごめんだからな」
女の体はまだ馴染めないままだったが、一応の目標は決まった。
体の持ち主、本物の袖振リリコを知る町から離れること。そして真の意味での自由を満喫すること。
見事達成すれば、身体的にも精神的にも自由になれる。
しかし――そんな自分の思い描く空想通り、都合よく事が運ぶわけでもなく。
「この女――馬鹿みてえに金持ってないんだよなあ」
乱暴に取り出した財布を再確認しても、やはり有り金は四千円と数十円しかない。アパートに戻ったら通帳がないか探してみようとは思うが、望み薄だろう。引っ越せるくらいの金があれば、あんなボロアパートに十八歳の少女が住むわけがないし。どんなレトロ好きな稀有なやつでもまともな住まいに身を移すはずだ。
「先行きが思いやられるなあ……ったく」
まずは金。衣食住の衣はどうでもいいとして、食住に困らない分と貯金を獲得しなければならない。
そして集金手段。かつて柿鐘だった頃は高額な薬を買うためにアルバイターになったりしたのだが、東京の愚連隊に関わってからは窃盗や詐欺行為に身を投じていた。ハイになって殺人をしていなかったら、おそらくそれらの罪状で御用となっていただろう。……まあ今のリリコの立場として考えれば、そんなこのなどどうでもいい話であるが。
「ほんと、よくあんな乾坤一擲な馬鹿やって生きていけたもんだわ」
リリコはもう一度犯罪行為をしようとは思っていなかった。そもそも独りで悪銭を稼ぐとなると効率が悪すぎる。窃盗や詐欺でてっとり早く金を集めるには、頭のキレる犯罪グループに混じった方が確実で有益だったりするのだ。
なので今回は時間はかかるかもしれないが、リリコは自分なりに真面目に、しかし惰性で金を集めようと思った。
「求人雑誌……たしかさっきのコンビニの入口横に置いてあったな」
そうと決まれば話は早い。
リリコは立ち上がって大きく伸び。食べ終わった昼食の袋は当たり前のようにベンチに放置し、コンビニへと足を進めようとした。
「おい」
途端だった。
突然前方から声がかけられてリリコはその場で立ち尽くした。
「あん?」
怪訝に思った彼女は聞こえてきた方――すなわち正面を見る。するとその先には、どうして今まで気がつかなかったのだろうか――スーツ姿の男が砂場の上で立ち、こちらを見返していた。年齢は三十代。若手のイメージを卒業したような彫りの深い顔に、若白髪の混じった総髪という風貌。そして何故かスーツのサイズが少し大きめで、着ぶくれしているように見えた。
「君、ちょっといいかな」
そう言って男はこちらの許可を待たず早足で近づいてくる。
「なんだ……?」
しかめっ面のリリコは疑問を抱きつつ彼が来るの待つ他ない。
一体どうして見ず知らずの社会人の男が、十八歳の少女に声をかけてくるのか。
もしかして恐れていた袖振リリコの知人なのかと一瞬考えたりもしたが、だとしたらファミリーネームかファーストネームのどちらかで呼び止めるはずだろう。「君」なんて、明らかに他人行儀な言い方だ。なので、男は本物の袖振リリコでさえ知らない他人だとリリコの姿の柿鐘は思った。
「おっさん、なんか用?」
目の前まで来て止まった男にリリコは話しかけてみる。
「まあそんなところだ」
「俺のこと知ってんの?」
「いや、初対面だ」
「あ、そう」
対して男は毅然とした態度で見下してきた。顔が鉄面皮のごとく崩れないので、ただ女子に話しかけたいだけの変態でもないようだ。……ますます謎である。
「あ、もしかしてベンチに置きっぱのゴミを片付けろって叱りに来た?」
「いや」
「じゃあ何代わりに持ち帰ってでもくれんの?」
「それも違う」
「…………」
じゃあなんで話しかけてきたのだろうか。まさか本当に女子に話しかけたいだけの変態なのだろうか。実は今こういう新手のプレイが流行っていて、ピュアな下心を晒したい気持ちを必死で抑え、あえて冷静を装って会話しようとしているとか。
馬鹿馬鹿しい憶測だが、こんな道理に合わない否定をされ続けてては思考の質も落ちる。無頼漢(今は女だが)という持ち前のペースもいつもより鈍っているし。
……だからだろうか。
「……ちっ」
何故かこの男が目の前に来てから、心臓のあたりに謎の違和を感じていた。
ずっと立ち尽くしていて胸の重さが苦になったのではない。物理的な違和ではなく、なんというか形容しがたい感情的な違和が、しこりのように胸に残留している気がするのだ。
この謎の言動の男に対して何を抱いているのか……。
渋い顔のリリコには判らなかった。
しかし、その形容詞しがたい感情の違和は、
次の男の言葉で判ることとなる。
「何? おっさん、もしかしてこんな俺なんかに惚れたりしちゃったわけ?」
警戒心がすっかり失せ、馬鹿馬鹿しさが増したリリコは冷やかすつもりでそんな言葉を男に投げた。
それに、男は――――
「…………」
「なんだよ? 言いてえことがあんならはっきり言えよ」
「死ね」
「え――――」
ぶかぶかなスーツの裾で隠れていたから気づかなかった。
ベルトに差していた出刃包丁を右手で引き抜き目の前に晒してきた。
真上の太陽で刃先が不気味に光る。
そして息つく間もなく半身を後ろに引き、リリコに向かって刺突した。
判らなかった感情は敵対心であった。




