プロローグ 柿鐘法男
一生に一度の感覚を味わって一瞬で死んだ。
痛覚、快楽、法悦、その辺り。
柿鐘法男(29)は今から五年前、殺人の罪で警視庁に逮捕された。慣れない薬でハイになった勢いで民家に侵入し、子供二人を含めた一家四人を惨殺。正気を失った状態での愚行だったので、間抜けなことに逮捕状なしの現行犯で御用となった。
当時の柿鐘の主張は「薬の力でやった。殺すつもりじゃなかった」の一点張りだったが、しかし、その非道極まりない犯行から世間の視線は冷たかった。
裁判所は「非常に残忍。冷酷極まりない」と一審、二審とも死刑判決を下した。これに対し弁護側は「薬物使用により正常な判断ができなかった故、死刑は不当」と最高裁に上告したのだが、最高裁はこれを棄却。そのまま拘置所送りとなり、事件発生から五年後の三月に、死刑が執行された。
死刑の方法は日本で最もポピュラーな絞首刑。
「どうだ柿鐘、死ぬのは怖いか?」
「はっ、しゃらくせえ。素直に死ねって言えばいいだろうが」
毎夜巡回にくる看守に、柿鐘はこう言ってみせた。
たぶん看守達は彼のことを、「死が怖いくせにいきがっている弱者」と決めつけて揶揄していたことだろう。
しかし、柿鐘は連中が妄想するそんな形のない恐怖に臆することなど、一度もなかった。
死に対する恐怖は毛ほどもなく、むしろ清々しい。柿鐘は反抗も抵抗もせず執行当日死刑場へと向かい、極めてスムーズに首を吊られた。
『やっとこのクソったれな人生を終われる』
柿鐘が死に際に思ったことはたしかそんなペシミストじみたものだった。
根っからの世捨て人だった柿鐘にはこの世に対する未練はなく、実に潔く――悪く言えば実にあっけなく死んでいった。
……はずだったのだが。
「んだよ……ここ、とても地獄には見えねえんだが。かと言って天国にも見えねえ」
二度と目覚めることはない死の眠りは解かれ、柿鐘は謎の場所で佇んでいた。
ファーストインプレッションは真っ白な空間。
今立っているところが地上なのか天上なのかがはっきりせず、見下げても見上げても白、白、白。取りあえず重力は働いているので、二本の脚で立つことはできるのだが。
「立てるからつって……どうすりゃいいんだよ、こりゃ」
薬をも凌駕する絶頂を首一杯に味わった結果がこの純白の世界である。
……否、ともするとこれが死後の世界というやつであるのだろうか。
アウトローの道を突き進み無様に死んでいった柿鐘は当然のごとくどこの宗派にも属していない。しかし仏教信者がここに来たとしたら、今自分がいる白い空間は、豪華絢爛な極楽浄土にでも見えるのだろうか。周囲には人が胡坐をかけるぐらい巨大な蓮があり、煌々と清水が流れ、仏様がお待ちしている――そんな世界にでも見えるのだろうか。
「……知るかよ。んなこと」
馬鹿みたいに長考する自分がくだらなく思えてきた。
……それで、である。
それで、これからこの謎の空間で自分、柿鐘法男は何をすればいいのか。
考えたくないが、少し考えてみる。
「あーくそっ、手持無沙汰を嘆いて餓死するくらいしか思いつかねえな。てかこんなところだとそれがベストな過ごし方になっちまう。同じ景色のフルマラソンを死ぬまでやるより利口だろうよ。あーあーあーあーーーーったく」
生来怒りの沸点が低い柿鐘は、自分の思い通りにならなくなると手当たり次第その感情を周りにぶつけてきた。物に当たり、人に当たり、薬に当たり……。
しかし、そんなストレスを発散させる媒体はこの空間にはない。
なので、
「っざけんなよクソがあぁぁぁああああああああああああ!!!!!!!」
自分が前言で利口じゃないと言ったランニングをするしかなかった。
彼が着ているのは動きづらいぶかぶかな囚人服だが、しゃらくせえと言わんばかりにそのスピードは徐々に加速していく。靴なんかは履いてない始末だ。
「らぁぁあああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
疾風迅雷のごとく疾走するも、奇妙なことにこの空間では風を感じない。まるで浮力と抵抗がない水槽の中を走っているような感覚を柿鐘は覚えた。
そして、白の中を全力で走ること十分。
「ぶっ――――はあ――――はあ――はあ――――」
体力のリミットとなり、柿鐘は大の字で倒れこんだ。
胸を大きく上下させて息をするも、心臓の鼓動が収まらない。よもや風がないどころか酸素すら存在しないのか、ここは。
「……はっ、だったらこのまま窒息して死んじまえるぜ。馬鹿みたいに走ったことは無駄じゃなかったってことか」
ざまあみろ、と。
柿鐘は目を閉じ犬歯をむき出しに笑ってみせた。
『……もう一度生きたくはないか?』
その時だった。
「は?」
『再び生を享受したくはないか?』
「…………」
柿鐘は黙し笑みを引く。緩慢な動きで立ち上がり、自分が聞こえたと思った方向――背後へと振り返った。
「……なんだてめえ」
しかめ面な彼の双眸は、一人の男を捉えていた。
およそ二メートルはあるだろう体躯に、見たこともない歪な甲冑を身にまとい、素顔をこれまた歪なヘルムで隠している。しかしその姿は、いわゆる古代の西洋の騎士とは程遠い。むしろ未来の宇宙服を連想させるものだった。
特に気味が悪かったのは眼の辺りにあるはずの覗き穴がないフルフェイスのヘルムだ。まるで死罪の柿鐘など見るに値しないことを言外に表しているような出で立ちで、のっぺらぼうみたいに見えた。
『再度問う。今一度生を享受したくはないか』
どこから現れたのかも判らない鎧の男は野太い声で彼に訊ねる。
「ちっ」
悪態をつきつつ柿鐘は言葉を返した。
「はっ、なんだそれ? 生き返らせてやるってことか? 俺がそれにイエスって言ったところで本当に生き返る保障がどこにあんだよ。証拠見せろよ、おい」
『お前には資格がある』
「生き返らせたけど獄舎に繋がれてましたってオチだけは勘弁だぜ」
『己が私欲、己が矜持のため、悪鬼羅刹をほふる存在となれ』
「……聞く耳を持たねえってか」
クソが、と柿鐘は眉間のしわを寄せて毒づいた。
毒づくことと男の質問に答えることしかできないというわけだ。
死んだ拍子で訳の判らない空間と訳の判らない鎧男に出くわした死刑囚、柿鐘法男。
判ることと言ったら、男の質問にノーを返せば、質問がなかったことになるぐらいだろう。……いや想像論で考えを広げれば、最悪一生この不毛な白の空間から抜け出せなくなるのかもしれない。
「…………」
鎧の男を睨んだまま柿鐘は思案する。
再び生きたくないかの問いにノーと言えば、そりゃあ破断だ。そこからどんな結末が柿鐘を待っているのかは……そこまでは理解の範囲に及ばない。想像に任せるしかない。訊いても、底冷えするくらいの無視で流されるだけ。
……だったら、答は初めから決まっている。
「……はっ、上等だぜ」
柿鐘は犬歯を覗かせ笑って見せた。それは生前、「死ぬのは怖いか」としつこく訊いてきた看守に見せてやった顔つきとよく似ていた。
「上等だ! ああ上等、至極上等!! てめえのその間抜けな様に敬意でも表してイエスと言ってやる! イエス、イエスイエスイエス!!! 生き返らせるんならやってみやがれってんだ!」
『その意気や……良し』
「――っ?」
この鎧の短い返答に対し、柿鐘は一瞬怯んだ。冷徹な声音とは裏腹に、ヘルムの裏にある顔が笑みで歪んだ気がしたからだ。
連想したのは耳まで届く裂けた口元。喧嘩上等の柿鐘が何故このように感じたのかは、それは本人すら判らない。
「おい鎧野郎、それでイエスって言った俺は――」
――どうなるってんだ?
そして、動揺を隠すために言おうと思った言葉は中途半端なところで途切れてししまう。
否、言葉だけじゃない。
足元の白い地面もまた、あたかも断裁機で切られたように途切れていった。
「ぐ、うおぉあっ!?」
股下の地面にすぅっと赤いラインが書き加えられたのかと思ったが、それは白い地面の内部。まるで不細工な地球の断面図でも作るのかと言わんばかりに、地面が揺れ、あまつさえ天上すらも揺れ、赤いラインは太く、長く、拡大増殖していき――――
「ぅわああぁぁぁあああああああああああ…………」
巨大な赤のラインに飲みこまれた柿鐘は、そのまま意識を失った。