第一章 「雷(いかづち)の娘」 七話
--その時、扉の向こうから足音が響いてきた。
幾人かの男達が、回廊を渡り、こちらに近づいてくる気配がする。
(この気配は……)
斐比伎の瞳に、喜びの色が浮かんだ。
「少彦名、早く隠れて!」
「な、なんじゃ!?」
慌てる少彦名を掴み、斐比伎は素早く己の襟首に放りこんだ。
「父様がいらしたのよ!」
軽く居住まいを整え、扉の方を向いてきちんと座る。手を膝に乗せ、顔を上げた時、扉の向こうから声がかかった。
「斐比伎? 俺だが、よいかな」
「はい、お父様」
斐比伎はお行儀よく返事する。それを受けて、眼前の扉がするりと開けられた。
数人の供部を従えて、加夜族の首長・建加夜彦王が現れる。
「……そなたらは下がれ」
供部に命ずると、建加夜彦は室の中へ入り、斐比伎の前に座った。供部達は扉を閉め、命じられたままに室から離れる。
父と娘は、座したまま対峙した。
建加夜彦が何か言うまで、斐比伎は黙って父の顔を見つめる。
ここ数日、建加夜彦は用事があって加夜の里を離れていた。こうしてゆっくり対面するのも、ほぼ三日ぶりと言うことになる。
(……こうして改めてみると、やっぱり父様は素敵だわ)
ほんの数日離れていただけなのに、斐比伎には随分久しぶりに逢ったように感じられた。
少し前に里に戻ったらしい建加夜彦は、既に襲を脱いで楽な衣に着替え、堅苦しい角髪もとき下ろし、長い黒髪を緩く一つに束ねていた。
建加夜彦は窮屈な格好が苦手らしく、里内にいる時は大抵そのような姿をしている。だが、そんな気楽な格好をしていてさえ、彼の物腰には、常に泰然とした威厳があった。
吉備加夜族を背負う、建加夜彦王。彼はいつも冷静で、思慮深く、落ち着いた様子で物事をとりおこなう男であったが、同時にかなりの切れ者であり、その鋭い眼差しの奥には、底知れぬ何かが感じられた。
一族の者は、王に全幅の信頼を置いている。無論、斐比伎にしてもそうだ。頼もしい王であり、包容力深い父。しかも……。
(しかも、父様は、吉備で一番美しい方だわ)
斐比伎は、惚れ惚れと父の姿を眺めた。
建加夜彦は、実際には既に三十路を越えているのだが、こうして見ると、とてもそうは思えない。若々しいその姿は、二十歳を過ぎたくらいの若者のように感じられる。
目鼻立ちの整った美しい面。その中でも、切れ長の鋭い黒瞳はとりわけ魅力的だった。
明るい陽の下で見ても輝いている人だが、こうして火影に照らされた姿は、また一段と趣がある。大人の男独特の、憂愁の美だ。
「--社の婆どもと、もめたそうだな」
不意に、建加夜彦が言った。
「えっ……」
斐比伎は驚いて絶句する。そんな娘の様子を面白がるように、建加夜彦は更に言った。
「それでどうなった。やり込めてやったのだろうな。お前のことだから」
言葉に批難の響きはない。建加夜彦は、楽しそうに娘の返答を待った。
「……驚いた」
斐比伎は目を丸くし、胸を押さえて呟く。
「父様って、本当になんでもご存じなのね」
火の巫女達は、建加夜彦が里を留守にした隙をついて、斐比伎だけを社へ呼び出したのである。しかもその伝達には、巫女直属の下僕を使ってきたのだ。
斐比伎が父に言いつけぬ限り、この件が彼の耳に入るはずはなかった。
「俺に知らぬことはないよ。お前のことも。この吉備のことも。全て」
「……ええ。そうね、そうね父様」
知られていたということで、逆に斐比伎は安心した。堰を切ったように、父に向けて不満の塊をぶつける。
「そうなの! あの婆達ときたら、私に神事に参加するなっていうのよっ。私が、父様の本当の娘じゃないから。連なれば、大吉備津彦のお怒りをかうって言うのよ。こんな理不尽なことってある!?」
「……それで、婆どもと喧嘩して、社を飛び出した挙げ句、川で暴れていたというわけか」
「やだ、そこまでご存じなの?」
斐比伎はややきまり悪そうに言った。建加夜彦は膝を崩し、軽快な笑みを浮かべる。
「さっき、小弓が血相変えて告げにきた。わが娘殿の、濡れ鼠姿が拝めるものかと早々にやってきたが--残念だな、一歩遅かったようだ」
「やだもう、父様ってば、お人が悪いわ!」
笑う建加夜彦の前で、斐比伎は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「……まあ、いい。あの婆どもにも、たまにはいい薬になったろう。なにしろ、火の巫女様に堂々と意見できる者など、この俺のほかには、お前くらいのものだ」
斐比伎は、一通り父の笑いがおさまるのを待った。室の内に響き渡った笑声が止むと、斐比伎は甘えるように建加夜彦に懇願する。
「ねえ、父様。父様は、こんなことお許しにならないわよね。私は父様の娘で、吉備の姫よ。あの巫女さま達を、叱って下さるわよね」
「--いや。その必要はない」
建加夜彦はきっぱりと言い切った。
「え……っ」
一瞬、斐比伎の顔が強ばる。
呆然と、斐比伎は建加夜彦を見つめた。父の真意を、測りかねるかのように。
「そんな顔をするな。お前らしくもない」
建加夜彦は、指先で斐比伎の額を弾いた。
普段やたらに気強い分、こんなふうに不安げな表情になったときの斐比伎は、痛々しいほど儚く見える。
どこか幼く、脆いところを残したままの娘に、もっと真底から強くなってほしいと、建加夜彦は願っていた。--もっとも、父以外の人間の前では、絶対にこんな顔を見せることはないのだろうが。
「安心しろ。俺も神事には行かない」
斐比伎を落ち着かせるように、笑顔を作って建加夜彦は言った。
「えっ!? 父様も行かないの?」
斐比伎は驚愕の声を上げた。
「でも、鳴釜の神事は吉備で一番大切な祀りで、それに加夜王が行かないなんて事は……」
斐比伎はうろたえながら呟く。父の言葉は、娘をますます混乱させてしまったようだった。
「ああ。本来ならば、考えられぬことだよ。だが、今回は特別だ。俺とお前は、吉備の中山へではなく、大和へ行くのだ」
「大和へ!?」
斐比伎は、かすれた声で思わず叫んだ。今度こそ、本当にしんから驚いた。
「そう。大和へ行く。……いいか、斐比伎。落ち着いて聞きなさい」
建加夜彦の声音が、真面目なものに変わった。それを素早く感じ取り、驚いてばかりいた斐比伎も、心を静めて、真剣に父の話に聞き入る。
「急な話だが、磐城の皇子が日継に立たれることが決まった」
「磐城の皇子っていうと……確か、吉備稚媛がお産みになった皇子で……」
「そう。兄君の方だ」
建加夜彦の話を受けて、斐比伎は記憶の糸をたぐった。昔から、吉備は大王の妃を多く輩出している。稚媛も、その名の通り吉備氏出身の姫で、大王の妃の一人となっている女人だった。二十年以上前に妃入りした稚媛は、二人の皇子を産んでいる。長子である磐城の皇子と、次男の星川の皇子だ。
「日継っていうと、確か、次の大王になられる方のことよね」
「ああ。大王家は、日神・天照大御神の末裔であると伝えられている。故に、大王を継ぐものを『日継』と呼ぶのだ。……わが吉備では、王の後継者を『火継』と呼んでいるがな」
「……吉備は、火の神の国だものね」
斐比伎はぼそっと呟いた。
「--でも、じゃあ、吉備系の皇子が、新しい大王になるってことなのね」
「ああ、そうだ。とても重要なことだよ」
建加夜彦は、重々しく頷いた。