第一章 「雷(いかづち)の娘」 六話
冬の陽は、落ちるのが早い。
夜闇を迎えた加夜の里には、ひとつひとつ灯が点り始めた。族人の住まう小屋の窓からは、明かりと共に、夕餉の匂いが漏れる。
吉備--加夜は、豊かな里だ。族人は無論、奴人であっても、飢えに苦しんでいる者はあまりない。一日の仕事を終えた夕餉時には、皆の顔に幸福な笑みが浮かび、里は穏やかで満ち足りた空気に包まれる。
広い里の一番奥には、王の御館がある。
焚かれた篝火に照らし出され、御館は、その荘厳な姿を闇の中に浮かび上がらせていた。
高床式に造られた大きな御館は、各所に階段がしつらえられてある。広い前庭では幾つも松明が焚かれ、まるで昼間のように明るかった。
王の御館は、常に兵士によって固く警護されていた。その勇猛さは、大和にまで鳴り響いた、吉備の兵達である。例え族の者であっても、怪しげな者は、一切王の御館に近づくことはかなわない。
厳しい顔で裏口を警護していた兵の一人は、ふと、こちらに向かって駆け込んでくる人影に気づき、大声を上げた。
「誰だっ。止まれ!」
走っていた人影は、兵の前で素直に止まった。兵士は、持っていた松明を掲げ、うさんくさげに人影を照らし出す。
怪しい人影は、女--小娘だった。
明るいところで見ると、小娘はなおさら怪しかった。顔が判らぬほど乱れ落ちた長い髪、濡れそぼった衣--まるで幽鬼のようだと、兵士は一瞬怖気を感じた。
「おい、おまえ--」
勇気を出して、兵士が問いかけた、その時。 小娘は、額の髪をかきあげ、顔を上げると、兵士を見据えて気強く言った。
「--思ったより遅くなったわ。開けなさい」
「こ、これは姫さま……っ」
兵士は慌てて畏まった。幽鬼の如く現れた娘は、この御館の主・建加夜彦王の一人娘、斐比伎姫だったのである。
「気づきませなんだ。とんだご無礼を……」
身を竦めて詫びる兵士を無視し、斐比伎は足早に御館へ向かった。裏口へ続く階段を上り、御館の周囲をぐるりと取り囲んだ回廊を歩む。
普通、王族の姫や妻は、女たちだけの女館に住まうものだ。だが斐比伎は、幼い頃から、父と同じこの王の御館で育てられていた。
(よーし。うまい具合に、あんまり見つからずに入ることが出来たわ)
斐比伎はほくそ笑んだ。
王の御館では、王族以外にも、供部・端女など、大勢の使用人たちが行き来している。仮にも「姫」である自分が、こんな罪人のような姿をしているところは、あまり他人に見られたくなかった。
斐比伎はそのまま、自分の室に滑り込もうとした。--しかしその時。
「姫様!? まあ、なんというお姿ですか!」
背後で叫び声が上がった。
(まずい……)
斐比伎は、恐る恐る振り替える。
回廊には、数人の端女をしたがえた小弓があきれ顔で立ち尽くしていた。
「昼間からお姿が見えぬので、心配してお捜ししておりましたが、その格好……まさか、この真冬に川で遊んでおられたのでは……!」
言い回しは丁寧だったが、言葉の端々に怒りが込められていた。
「うん、まあ、いや、そんなものかな……」
斐比伎は困って言葉を濁す。小弓はわなわなと肩を震わせていた。
「よいですか、姫さま。普通であれば、真冬に川になど入れば、風邪をひき、悪くすればそのまま命を落とすのですよ! いえ、だいたい、王族の「姫」というものは、みだりに館の外などへは出ないもので、幼い頃からあれほど何度も言っているというのに、まったくあなた様は……!」
『斐比伎。誰じゃ、このうるさいばばあは』
斐比伎の襟の中に隠れた少彦名が、こっそりと聞いた。
『小弓。私の乳母の一人で、一番やっかいな婆さんよ……』
斐比伎は小声で言い返した。思わずため息が漏れる。折角うまく入れたと思ったのに、よりによって一番面倒な相手に見つかってしまった。
斐比伎のことを心配してくれているのはわかるのだが、なにしろ彼女は口やかましい。
しかも、乳母とはいえ、小弓は斐比伎が水の属であることを知らない。それ故、「ただ人」にするような説教を延々と続けるのだ。
(……別に、水になんかつかったって、全然平気なのに……)
しかしそれを、面と向かって説明するわけにもいかない。
(面倒だなあ、もう……)
斐比伎はだんだんいらいらしてきた。元来、彼女は短気な質なのだ。
「姫さま? 聞いていらっしゃるのですかっ」
「はい、聞いてます。わかってますっ。このままでは風邪を引くから、私は着替えます。
じゃあねっ」
一方的に会話を打ち切り、斐比伎は自分の室に入っていった。
「姫さま? お召し替えならば、小弓がお手伝い致します!」
「自分で出来るわよっ。入ってこないで!」
斐比伎は乱暴に扉を閉ざした。壁越しに、戸惑う小弓の気配を感じる。こんなことにまで聡いのは、やはり自分が水の巫女だからか。
(だからって、いい事なんか何もないわよ!)
苛立ちながら、斐比伎は心の中で叫んだ。
小弓はしばらく迷っていたようだったが、やがて端女らを連れてその場を去った。
彼女の気配が消えると、斐比伎はほっとして、息をつく。
膝を折って座り、襟の中から少彦名を取り出すと、板床の上に置いた。
「……ふう。実にせまぜましかったわい」
少彦名は大仰に深呼吸した。そんな彼を、斐比伎は軽く睨み付ける。
「文句言わない! 今、御館の者達にあなたが見つかったら、大騒ぎになるんだから」
斐比伎は少彦名の上に領布を被せた。
「こりゃっ。何をする!」
「私着替えるから。しばらくそうしてて。絶対こっち見ないでよ」
「さっきお前はわしを裸にしたではないか!」
「男は見られたっていいのよ」
言いながら、斐比伎は濡れた衣を手早く脱ぎ捨て、新しい装束に着替えた。薄紅の上衣に、茜色の裳。鮮やかな黄色の帯を締めると、鏡に向かって座り、髪をとかす。
横髪を結い上げ、簪と櫛をさす。化粧箱から美しい倭文の細帯を取り出すと、何本か髪に巻き付けた。
支度を終えると、斐比伎は鏡の中をのぞき込み、満足げににっこりと笑った。吉備王族の姫にふさわしい、若々しくも華やかないでたちだ。
自分一人でこういった身仕度が出来てしまうという点においても、斐比伎は他の姫達とは違っていた。
「普通」の姫ならば、端女の手を借りねば、着替えなどとてもおぼつかない。しかし斐比伎は、身の回りのことは、ひととおり己の手で出来るよう、しつけられていた。
無論、王族である以上、普段は端女の手も借りる。そこには、王族の権威といった問題も関わってくるからだ。
--だが、「いざ」という時……なんでも、自分の力で出来るように。そういうふうに育て上げることが、建加夜彦の方針だった。
(……父様は、やっぱり私が『雷の娘』だったから、手元に置いてくれたのかな)
鏡に映る自分を見つめながら、斐比伎はふと考えた。それは、時折彼女の頭に浮かぶ、消して消えない疑問だった。
いつか、来るかも知れない戦のために。
その時に、吉備のために戦う強力な巫女姫として。
「……私はねえ、赤ん坊の時、葦で編んだ船に入って、旭川を流れてきたんだって」
領布に埋もれた少彦名に向かって、斐比伎は語りかけた。
「なんだか、あなたに似てるでしょ」
「もう見てもよいのか?」
「うん、いいよ」
斐比伎の言葉を受けて、少彦名は領布の中からずるずると這い出してきた。
「……わしというよりも、蛭子に似ておるの」
「『蛭子』? --何それ?」
「伊邪那岐・伊邪那美の二神が共に生んだ最初の子供じゃ。手足を持たぬ不完全体じゃったので、葦船に入れて流された」
「自分たちの子を、捨てたの? ……酷いことするね」
「酷いかどうかは解からぬ。やつらには、やつらの考えがあったのじゃ」
「納得できないよ、そんなのは……」
斐比伎は思わず俯いた。
神々の考えは、人である自分には理解できない。けれど、例え種族が違っても、子を捨てる親に対し、「酷い」以外の何が言えるだろう。いくら、不完全な体だったからって。
(--じゃあ、もしかしたら、私の生みの親も、私が何か足りなかったから捨てたの!?)
斐比伎は裳を握り締めて唇を噛んだ。
だとしたら、許せない。
絶対に……。
「斐比伎、それで、流れてきた幼いお前はどうなったのじゃ?」
急に顔色を変えた斐比伎を気遣うように、少彦名が聞いた。
「……ああ。うん。……でね、それをね、たまたま狩りに来ていた父様が見つけて、自分の娘にしてくれたの」
「ほう、優しいではないか」
「そうよ。父様は、とっても優しいの」
--そう。
きっと、最初に自分を拾ってくれたのは、捨てられた赤子に対する憐憫からだったのだろう。
けれど、その後時を経て、斐比伎を「吉備の姫」としてはっきり認めてくれたのは。
恐らく、斐比伎が雷の力を持った巫女だったからだ。
父にそのことを問い質してみたことはない。
だが、それ以外に何があるだろう。何の利用価値もない捨子を、王が周囲の反対を押し切ってまで「姫」として据えるだろうか?
--答えは「否」だ。
(でも、別にそれでもいい。戦うためだけに育てられた娘だったとしても。吉備のために戦えるなら……)
斐比伎は立ち上がり、室の隅にあった長持の蓋を開けた。ごそごそと底を探し、一個の人形を取り出す。
「ほらこれ。あなたの衣に、丁度いいでしょ」
斐比伎は、少彦名の前に人形を突きつけた。神と人形は、丁度同じ位の大きさだった。
「……うむ」
少彦名は頷く。斐比伎は人形から上衣と袴をはぎとり、少彦名に着せてやった。
「男物でよかったね」
「そうじゃな」
手足を動かしながら、少彦名は答えた。どうやら着心地は悪くなさそうだった。
白い麻布で作られた簡素な上下は、まるで神事で着る浄めの衣のようだ。それを纏った少彦名は妙に厳かで、確かにこの世の者ならぬ--神族の一員であるかのように見えた。
「髪、結ってあげるね」
人間用の櫛と糸を使いながら、斐比伎はなんとか少彦名の髪を結おうとした。誇り高き神族であるという以上、やはりきちんと角髪を結っていなくてはならない。
「……のう、斐比伎」
髪を斐比伎に任せたまま、少彦名は呟いた。
「なに?」
「己の親を知りたいか?」
「……さあ。どうだろう」
斐比伎は曖昧にごまかした。
「どうだろう、とはなんじゃ。そのような境遇であったら、誰しも生みの親を知りたいと
思うものではないのか?」
「別に、そうとばかりは限らないわよ」
「……? 何故じゃ?」
「ああ、だって、それは」
角髪を結んだ糸を切り、斐比伎は言った。
「私、父様のことが大好きだもの」
あたりまえのように斐比伎は呟いた。
「……ほお」
髪と衣を整え、なかなかにりりしい少年神の姿になった少彦名が、感心したように言う。
「そうなの。だからよ」
斐比伎はにっこりと笑った。
探そうと思えば、手がかりはいくつかあった。自分は「雷の娘」であり、「水の属」である。闇於加美神の祝の血筋を探っていけば、やがて己の出自を知る者に辿り着けるかも知れない、だが……。
それを求めるのは、吉備国から--いや、父・建加夜彦から自ら離れる道を選ぶことになる。
顔も知らぬ両親と、十六年間自分を守ってくれた父。どちらが大切かなど、考えてみるまでもない。
そう、一番恐いのは、建加夜彦の側にいられなくなることだ。本当の正体なんて、関係ない。自分はただ、「吉備の姫」でいたいのだ。その為に、己の「力」が存在理由になるのなら、大いに吉備のために役立てよう。
自分が何者かなんて、考えなくていいから……。