第一章 「雷(いかづち)の娘」 五話
既に何年も前に完成しており、自サイトなどに掲載している長編を、少しずつ分割しながら連載投稿しています。
前作「月傾く淡海」よりは、ややライトなテイスト(ラノベより)で、恋愛要素もあります。
全五章で、一章が約十話弱です。
一話の長さにはばらつきがあります。
(……なんか、妙なことになっちゃったなあ)
長い領布に埋もれた小人を肩に乗せたまま、斐比伎は考えた。
このまま、この小人を御館に連れていって、どうすればいいのだろう。
とりあえず、休ませてあげた後は……。
(前に拾った兎みたいに、私が飼い主になって面倒を見ることになるのかなあ……)
でも、それもいい、兎よりは余程面白そうだ、と斐比伎は思った。
(父様も、きっと反対しないわ)
斐比伎は漠然と期待した。厳しい王として知られる建加夜彦だが、その内面には以外と寛容な部分もある。何しろ、この自分を拾って育てたくらいだ。この小人のことも、多分許してくれるだろう。
(父様さえ味方にすれば、御館の者達なんて、どうにでもなるしね)
「……そうだ、神様」
考えをめぐらしていた斐比伎は、不意に思い出したように言った。
「なんじゃ、雷の娘」
「私の名前は斐比伎よ。神様にも、名前はあるの?」
「--わしは、少彦名神と、いう」
小人は重々しく言った。
「ふーん。少彦名かあ。そういえば、そういう神様の名前も、聞いたことあったような気がするかも……」
斐比伎は、額に指を当てて遠い記憶の糸をたぐった。
確か、小さい頃から、語部達によって幾度か聞かされたことがあったはずだ。
遙か古、遠い神代の物語。この豊葦原の島国が、まだ生まれたばかりの頃のお話……。
天地のはじめの時、高天の原に成りませる神の御名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまいき。
次に国若く、浮かべる脂の如くして、くらげのように漂えるときに、葦の芽の如く萌えあがる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志葦牙彦遅神。次に天常立神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまいき。
上の件、五柱の神は別天つ神……
「……それで、この別天つ神の次に、国之常立神から伊邪那岐・伊邪那美神までの、神世七代の神々がお生まれになったのよね」
そして、天つ神々に命じられた伊邪那岐・伊邪那美神は、豊葦原を「国生み」し、地上の営みを司る多くの神々を「神生み」し、その果てに天照大御神・月読命・須佐之男命の三貴子を得た。
高天原の司となった天照大御神は、後にその御子を高千穂の峰に降臨させ、更に後、その御子の末裔・伊波礼彦命が東征を行ない、大和入りして、初代の大王になったという。
「……ほう。今の人の世には、そのように伝わっておるか」
少彦名は感慨深げに呟いた。
「たしか、そんなふうに聞いてたわよ。もっとも、ずいぶん昔のことだから、本当かどうかなんて、わからないけど……」
何にせよ、あまりにも遠い時代の話だ。
初代といわれる伊波礼彦の大王にしたって、今の泊瀬の大王より二十代も前の存在だ。年月にすれば、ゆうに二百年以上は遡る。
神威に満ちた神代は、最早はるか遠い、想像するだけの世界でしかない。
「--その神産巣日神が、わしの親神じゃ」
少彦名は、誇らしげな面持ちで告げた。
「えっ!?」
斐比伎は驚き、己の左肩に座った少彦名をまじまじと見やった。
「……でも、五柱の別天つ神の中でも、最初にお生まれになった三柱の造化三神は、天地と万物の生成を司る、特別な存在だって聞いてたわよ。みな、独身神であられて、性を持たぬゆえ、夫婦神となられることはないって」
「神族の子生みとは、子宮に命を宿すことばかりではない。あの天照とて、誓約にて多くの子を生んでおる」
「うーん、まあ、そうなんだろうけど……」
斐比伎は言葉を濁した。確かに自分は『雷の娘』なのだろうが、これまでごく普通に人の世で生きてきたのだ。神代の事情などは、よくわからない。
「じゃ、少彦名は高天原からやってきたの?」
「--はじめに生まれたのは、確かに高天の原じゃった」
斐比伎に問われた少彦名は、何故だか妙にもって回った言い方をした。
「高天原生まれねえ。しかも、最高神の一柱、神産巣日神の御子かあ。神世七代の最終神・伊邪那岐神の御子であられる天照大御神よりも上位神じゃないのお?」
斐比伎は、少彦名を茶化して言った。
無論、本気ではない。
天地をあまねく光り照らす天照大御神よりも、この自分の肩に乗った、ずぶ濡れ小人のほうが偉いだなんて。到底真面目に思えるはずがなかった。
「……じゃが、ある時、親神の掌の股よりこぼれ落ちてしまった。それ以来、高天原には帰っておらぬ」
少彦名は淡々と語った。
すでに、陽はかなり落ちかけている。前方に現れた加夜の里は、夕暮れにすっぽりと包まれようとしていた。
斐比伎は横目で、肩に乗った少彦名を見やる。夕陽を受けて、彼は少し眩しそうに眼を細めた。
「……帰りたくはない? 親神のもとへ」
歩きながら、斐比伎は聞いた。
「いや。今となっては、そうは思わぬ」
「……そうなんだ」
抑揚のない声で、斐比伎は呟いた。
高天原からこぼれ落ちた神と、人の世からあぶれた娘。
どちらも「異端」の存在。
(ある意味、似たもの同士よね。でも……)
少彦名は、己の生まれをしっかりと解かっている。
斐比伎は--自分の出自を知らない。自分が何なのか、正確には何もわからない。
「水の属」--「水津波の巫」とも呼ばれる者たちが、この豊葦原のどこかの国にいるらしい。闇於加美神などの水を司る神々の神裔である彼らは、水の護りを受け、全ての「流れゆくもの」を支配する能力を持つという。
そして、それらの内の一つが、『雷の娘』という巫女……。
(ああ、やだやだっ!)
自分が何者かを突き詰めていく時、斐比伎の考えはいつもここで止まる。--いや、停止させるのだ。
考えたくない。考えてはいけない。これ以上は。だって……。
「……ねえ、『神様』」
近づいた里を見据えながら、斐比伎は自身の思いを振り払うように、少彦名に言った。
「高天原からこぼれ落ちた、少彦名神。あなたは、一体どこからこの吉備の国にやってきたの?」
「……『常世』の国じゃ」
「常世?」
斐比伎は聞き返す。
「--うむ。わしは、つねに……」
そこで一度言葉を切り、少彦名はきっぱりと言った。
「海の彼方の『常世』より来たる」