第二章 「大和の皇子」 五話
大和の都に、陽が沈む。
「日継」の皇子を祝う宴の刻限が近づいていた。宴が催される大王の宮殿の広間には、各地から集まった王や王子、姫達が群れ集い、華やぎを増している。
だが、客席の筆頭に座るべき吉備加夜族の王--建加夜彦は、未だ自分たちに与えられた棟の一室にいた。
「……どういうことだ。何故、斐比伎がまだ戻ってこない」
怒りを押し殺した声で、建加夜彦は眼前に平伏する乳母を詰問した。
「申し訳ございませぬ。我ら、途中で姫さまを見失いまして、必死に皆で探したのですが……」
斐比伎の乳母・小弓はひたすら畏まりながら、建加夜彦に詫を述べた。
王族に仕えて長い小弓は知っている。普段は温厚な建加夜彦だが、本気で起これば悪鬼よりも恐ろしい。しかも、彼は優秀な「王」であるがゆえに、部下の手落ちには厳然とした処罰を下すのだ。
「お許し下さいませ、建加夜彦さま。どうか……」
必死に懇願する乳母を一瞥し、建加夜彦は厳しい声で言った。
「……もうよい。とりあえずは下がれ」
「は、はいっ……」
悲鳴のような声で返答し、小弓は転がるように室から退出した。
一人きりとなった室の中で、立ち尽くしたまま建加夜彦は腕を組む。
(……まったく、あの婆などは何も分かっていない)
建加夜彦は苛々と舌打ちした。
彼は、「斐比伎が約束の時間までに戻ってこなかったから」怒っているわけではない。
わがままではあるが、斐比伎は賢い娘だ。
特に、父と交わした約束は、絶対に破ることはない。--それなのに、言いつけた刻限までに戻ってこなかった。
それは即ち、彼女が「自分の意志で戻れない状態にある」事を意味する。
「何があったというのだ、斐比伎……」
王として--そして父として、建加夜彦は斐比伎の身を案じた。
その時である。
『王……』
薄暗い室の中に、風のように微かな声が響いた。
「……刺方、か」
建加夜彦は低い声で言った。
『はい、王。ただいま戻りました』
響くのは、ただ声のみである。主の姿は、どこにもない。だが、建加夜彦は慣れた様子で声に向かって問いかけた。
「わかったか?」
『はい、王。どうやら、斐比伎姫は何者かに連れ去られたようでございます』
「なんだと!?」
聞いた途端、建加夜彦の双眸に剣呑な光が走った。
『姫の警護についていた忍族が、二人とも倒されておりました。回復した彼らの話によれば、兵士らしき男が姫を連れ去ったとの事で』
「……なんということだっ!」
怒りも露に、建加夜彦は叫んだ。
小弓を叱責してはいたものの、建加夜彦は始めから乳母や従者など、当てにしてはいなかった。
吉備王は、昔より「忍族」と呼ばれる闇の兵を持っている。彼らは決して人前に姿を現すことなく、王に対し忠実に服従し、その使命を全うする。
忍族の任務は、他国への斥候、要人の暗殺、王族の警備など、表に出てはならぬものばかりである。陰の戦闘集団である彼らは、独自の掟に従って行動しており、その全貌をつかんでいるのは王のみであった。
斐比伎自身は露知らぬ事であったが、建加夜彦は常に、彼女に数人の忍族をつけていた。斐比伎は一人で出かけたと思っていても、その実、いつも忍族によって護られていたのである。
「忍族を倒すほどの手練れとなれば、ただの身代の品目当てのごろつきではあるまい。斐比伎を吉備の姫と知ってのことか……」
建加夜彦は厳しい顔つきで呟いた。
大和領内で、吉備の姫をさらう。
(どこの国の者だ。何の目的で……)
可能性は無数にあった。吉備を狙っている敵国は豊葦原中に存在したし、「姫」である斐比伎の存在は、どのようにも利用できる。
しかも、斐比伎は巫女姫である。もしも何者かがそれを嗅ぎつけたのだとすれば、その点においても、彼女は充分に価値があった。
(出雲か? ……それとも、大和……)
目を閉じて必死に考えを巡らしていた建加夜彦は、「今一つの可能性」に気づき、はっと双眸を見開いた。
(まさか……『あの事』を知っている者か?)
そんな者が、この自分以外にもいるというのか。もし誰かが、『その目的』で斐比伎を連れ去ったのだとすれば……吉備は、とんでもないことになる。
『王? いかがなさいました?』
黙したままの建加夜彦を訝しみ、刺方が声をかけた。
「……刺方」
建加夜彦は、忍族の長の名を読んだ。その声には、尋常ではない響きが滲む。
「何としても斐比伎を探し出せ。そして取り戻せ。--あれを失うことは、吉備の行く末を失うに等しい」