7 雛姫視点
わたしの目が悪くなり始めたのは中学に入った頃からだ。
3年間ずっと眼鏡をかけていた。
亡くなった曾祖母が西洋人で、ひ孫のはずのわたしはなぜかその血を色濃く受け継いでしまった。
瞳や髪の色が薄く顔立ちだって日本人とは言い難い。
小学生のときそのことをからかわれ、自分は一つ間違えば人から省かれる外見をしているんだと知った。
それからわたしは極力目立たないようにと思うようになって、いつも顔を隠すようになってしまった。
きっと目にかかるほど前髪を伸ばしていたことが視力を落とした原因だろう。
そんなわたしにとって眼鏡はいいアイテムだった。
分厚いレンズとそれを支える縁の太いフレームは、顔を隠すのに役立ってくれたから。
もともとわたしは活発ではなかったし、自分からなにか率先してやるタイプではなかったので、きっと仲の良かった子以外、中学の時の同級生の記憶には薄い存在となっているんだろう。
それでいいし、そうやって生きていくんだと思っていた。
* * *
「雛姫!もう合格発表張り出されてる時間だよ。急がなきゃ」
「ひな、置いてくよ~」
「ま、待って。わたし足早くないし走ったら眼鏡がズレるから……」
中3の冬。
受験した高校の門をくぐって、息も絶え絶えに訴えるわたしを彼女らは無情にも見捨てた。
「も~、あんたは後でゆっくり来な」
「先行くからねっ!」
あ、ひどい。
本当に置いてった。
二人は元陸上部と元バレー部だもん。
そりゃ体力に自信あるんだろうけどわたしは元料理部。
つまり文化系ではっきりいって運動音痴だ。
もう歩いちゃおうかなぁ。
でも早く合格発表を見て家と学校に連絡しなきゃだし。
一瞬の葛藤の末、走り続けることを選んだわたしは足元を見つめる。
頑張れ、わたしの足。
一歩一歩確実に。
マラソン大会でも同じことを思って走りきった記憶を辿り自分に喝を入れた。
マラソン大会より全然距離は短いもん、大丈夫。
唇から息を吐くたび白く煙り消えていく。
肩から落ちてきたマフラーを巻きなおしたところで、
「うわ、ちょ……前見て、前」
知らない声に顔をあげたときには遅かった。
人がいる!
相手の人はうまくわたしを避けてくれたけれど、よれよれ走っていたわたしは電灯の柱にぶつかっていた。
いったぁい!
急ブレーキをかけるように足を踏ん張ったのに~。
額を押さえつつ目を瞬くわたしは、眼鏡がかろうじて顔に引っかかってることに気づいた。
「大丈夫……、か?」
控えめにかけられた声にわたしは我に返って、斜めを向いている眼鏡を慌ててかけなおした。
もうなにこれ、コント!?
恥ずかしさに急激に顔が熱くなってくる。
声をかけてくれた相手に目を向けたわたしは、ファスナーが開いたコートからのぞく学ランに気づいて硬直した。
男の子だ!
異性というだけで緊張してしまうわたしは、そのまま凍りついたように顔をあげられなくなった。
かといってこのまま相手を見ないのも変じゃないかな。
あ、そうだ!
とっさにいい考えが思いついてわたしは頭をさげた。
これなら顔をあげなくてすむ。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい」
勢いよくお辞儀をしたせいか眼鏡がズレてくる。
「や、俺は平気だけど……怪我は?」
「ないです」
「でもゴンって音してたし」
いやぁぁぁっ。
そんないい音響かせてたの、わたし!?
恥ずかしすぎる。
「いえ、ほんとに平気ですからっ!」
「そっか」としばらくあって相手の靴が動くのが見えた。
このまま立ち去ってください。
そんなことを思いながらわたしはまたしてもズレる眼鏡を直す。
少しフレームが大きめだったからよくズレる眼鏡だったけれど、いつもより鼻を滑るのはどうしてかな。
……あれ?
左の蝶番のところグラグラしてない?
「嘘、壊れた!?」
眼鏡を外して確認するとフレームが歪んで、今にも蝶番のところで折れてしまいそうだ。
これ、眼鏡屋さんで直せるのかな。
新調しなおすことになったらお母さんに叱られるー。
ていうかこの眼鏡かけてても大丈夫?
そうっとわたしが眼鏡を顔にかけ直したところで声がした。
「なんか、壊れたって聞こえたけど?」
「え?」
振り返ってわたしは飛びのきそうになった。
知らない男の子がいるっ!
「眼鏡、平気?」
この声、さっきの人だ。
わたしが壊れたって言ったから戻ってきてくれたの?
「だ、だだ大丈夫です――ほら、この通り……あっ」
わたしが眼鏡を外した瞬間、金具がパキと小さな音を立てて折れてしまった。
わたし、いま自分で止めをさしちゃった?
「お、折れちゃった」
「眼鏡なかったら合格発表の番号見えないんじゃないか?それとももう見たあと?」
「まだ見てないです。でも片方の柄の部分は生きてるからこうやって手で持ってれば――」
右側のテンプルを耳に引っ掛け彼に向き直ったわたしは、まともに目が合って慌てて目をそらした。
あ、嫌な態度とっちゃったかな?
誤解しないで。
初対面の、しかも男の子相手だから緊張してるだけなの。
胸中でいくら言い訳したって彼に伝わるはずもない。
「でもグラついてるじゃん?なんなら俺、一緒に行くけど?」
「え、一緒に?」
「ん、だってそれかけて歩きにくいだろ?」
「そんな。悪いしいいです。友達がいますから」
「友達?どこにいんの?」
「合否が知りたくで先に走って行っちゃって――わたしさっき、それを追っかけてたんです。えと……眼鏡は外してゆっくり歩いていきますから大丈夫です。それにこの眼鏡、少し大きめだからグラついてるだけで……あの、いつもよくズレてきてたし」
緊張のため余計なことまでぺらぺらとしゃべってしまう。
変な子だって思われたらどうしよう。
そう思うと余計に焦って緊張も高まり、頬がどんどん熱くなる。
たぶんわたし、顔が真っ赤だ。
走ったせいだって思ってくれないかな?
「それさ」
「え?」
「眼鏡似合ってないんじゃん?外しとけば?」
に、似合ってないから外せ?
確かに顔を隠せるようにってレンズ部分が大きな眼鏡にしたけど。
弟に「ダッセぇ」と言われ続けてる眼鏡だけどっ。
友達は控えめに他の眼鏡もいいかもよって言うのよ?
他人なら気を遣ってそう言うと思うのに。
……初対面なのにはっきり言う人だなぁ。
わたしと正反対の人みたい。
「でも目が悪いわたしには必要で――」
「コンタクトないの?」
そんな顔が隠せなくなるものをわたしが持ってるはずもない。
「持ってないです」
「あー、まぁそっか。眼鏡かけてんだもんな」
もしかして眼鏡が嫌いなのかな?
遠近感が掴みにくくてやだって人いるもんね。
てことはこの人も目が悪いのかな。
コンタクト?
でも眼鏡かけても似合うと思うんだけどな。
かっこいい人だもん。
いいなぁ、わたしの憧れの日本人らしい黒い髪に黒い目してる。
声もいいよね。
凛としてるっていうか、よく通りそう。
メタリックな細いフレームをかけたらどうかな?
ちょっと優等生ちっくになってそれはそれでまたかっこいいかも!!
……ん?かっこいい?
そこで、はたと我に返ったわたしは悲鳴をあげそうになった。
なんで地味なわたしがこんなモテそうな男の子とお話してるのぉ!?
ううん、それよりも!
学校じゃ男の子に見向きもされないわたしに、どうしてこの人は普通に話しかけてくるの!?
もしかしてわたしが眼鏡を壊して困ってたから?
うん、きっとそうだ。
この人すごく優しい人なのね。
「モテそう」じゃなくて、絶対学校で「モテる」んだろうなぁ。
あ、だから女の子と話すのも慣れてるのかな。
「俺がつきそうにしてもちょっと待ってもらっていいかな。友達が親に合格した連絡するって携帯持ったままどこかに……またどっかで漫画読んでんじゃないだろな」
合格発表もう見たんだ。
「合格……」
「へ?」
「あの……合格したんですか?」
って、思わずなに聞いちゃってるの、わたし!?
「あ、俺?――うん。春からここの1年」
そう言った彼が堪えきれない様子で嬉しそうに笑う。
笑……った?
その顔を見た瞬間、わたしの胸がドキンと跳ねる。
嘘、なんかイメージ変わる。
ちょ……この人、笑顔が可愛い。
男の子に可愛いって嫌がられるかもだけど――やだ、胸がドキドキするぅ。
「ひーなー!もぅ遅いぃ~」
いきなり遠くから大声で名前を呼ばれてわたしは驚いてそちらを向いた。
「合格発表あんたの分も見てきてやったよー」
「皆合格!続き番号誰もぬけてないっ。嬉しい~。また3年一緒だねぇ」
冷たくわたしを見捨てたはずの友達が、満面の笑顔で手を振って駆けてくるのがわかった。
「友達?」
彼が二人からわたしに目を向け尋ねてきたため頷いた。
「そっか。やったじゃん。合格、おめでと」
「あ、合格……え!?わたし、合格!?」
「じゃないの?友達がそう言ってんだし」
遅れて合格の言葉に反応するわたしに彼はクスリと小さく笑った。
わ、また笑ってる。
「俺がつきそわなくても大丈夫そうだな――あ、あいつあんなところに……んじゃ俺はこれで」
立ち去る彼の背中を見つめるわたしは、後ろから友達に飛びつかれるまでぼうっとしてた。
「ちょっとひな、いまの誰?知り合い?ちょっとよくない?」
「知らない……」
「知らない?雛姫、いっつも学校の男と話すのも緊張してるのによく――って何!?あんた、その眼鏡壊れてない?」
「あ、ホントだ。まさかあいつに壊されたの?」
「え?違うっ。あの人はわたしが眼鏡を壊して困ってたから助けてくれようとして……あ!わたしお礼も何も言ってない。合格おめでとうって言ってくれたのにぃ~~~」
わーん、わたしの馬鹿。
せめて「ありがとう」って言えばよかった。
後悔したけれど後の祭りで既に彼は人に紛れてわからなくなっていた。
4月、あの人に会えるんだよね。
そしたら名前だってわかるよね。
もしかしたら同じクラスになれるかもしれない。
春に会ったときあの人はわたしのこと覚えててくれるかな。