2
これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ。
夢夢夢。
昇降口で念仏のように繰り返していた俺は、
「お待たせしました、西嶋君」
という可愛らしい声に頭を抱え込みたくなった。
告白から数分後。
俺は安在と一緒に帰宅することになってしまった。
「せっかく彼女になったんですから恋人同士っぽいことがしたいです」
意外な言葉にポカンとする俺をよそに、彼女は昇降口で待っていてくださいと教室にカバンを取りに行ってしまった。
俺は振られてすぐに帰宅するつもりだったから、荷物はばっちり持参していた。
状況が飲み込めないまま、安在に言われた昇降口に向かう俺の前に巽が姿を現す。
「祝、初彼女」
言いながら右手を胸の前にあげるのはタッチでもしろってか。
嬉しくもないのになんでそんなことしなきゃいけないんだ。
「おまえまで見てたのか。ってか泰治は?」
右手をわきわき握っていた巽は、無理やり俺の手にタッチしてから校舎のほうを指差した。
「悔しそうな顔で走ってったよ。まさかうまくいくとは思ってなかったんじゃない?男の嫉妬って醜いよね」
「俺だってOKされるなんて思ってなかったよ。いまさら冗談ですっつったら怒るかなー、やっぱり」
「いつもみたいに冷たく捨てるっていうのやればいいんじゃない? 」
「人が聞いたら誤解を生むようなこと言うなっ!んなことしたことないわっ。今日まで告白したこともされたこともないっつうの」
「航平って損してるよね、いろいろと」
溜め息混じりに巽に言われて眉を寄せる。
本当、こいつはたまによくわからないことを言う。
「泰治の前で俺も振られれば同類相憐れむっつうか――それで逆恨みしなくなってくれればって思ったんだよ。なのに……安在って何考えてんだ?あれだけ俺のこと睨んどいてつきあうってわけわかんねー」
「女心と秋の空っていうでしょ。じゃ俺はこれで。今日から航平は安在さんと帰るんだろうし、俺は一人寂しく帰る」
「え?ちょっと待て、巽」
ヒラリと手を振った巽を呼び止めても立ち止まってくれなかった。
かくして俺は昇降口で安在を待って……そして現在に至る。
隣のクラスの彼女の下駄箱は俺のクラスの下駄箱の向かいだ。
上履きから靴に履き替える彼女を落ち着かない気持ちになりながら見ていた俺は、靴を履きかけた彼女がいきなり息を飲んで慄いたのでぎょっとした。
「どうかした?」
「に、にし、西嶋君……むむ、む」
はい?
わけがわからず近づく俺は安在が指差す床を見た。
スノコと彼女のローファーがあるだけだ。
「靴がなに?」
「む、虫、靴で潰しちゃった」
「え?虫?」
「その緑色の長い芋虫……。虫苦手で靴を触れない~」
え、芋虫を靴で潰した?
靴に潰れなかった部分が蠢いてたらそれは俺もちょっと引く。
屈みこんで靴を覗き込んだ俺はつい笑ってしまった。
「もしかして目悪い?これ、虫じゃなくて毛糸」
俺が薄汚れた黄緑色の毛糸を摘み上げると、彼女は目を細めてそれを見つめ、やがてホッとしたように息を吐いた。
近くにあったゴミ箱に毛糸を捨てる俺は、安在が睨んできていた理由がわかって彼女を振り返った。
「眼鏡、持ってないの?」
「あります」
「じゃ、かければ?さっきまで俺、睨まれてるのかと思ってたし」
「え?睨……ご、ごめんなさい。コンタクト、片方なくしてしまって週末に新しい物を作りに行くつもりですから」
「うん。でも眼鏡かけないと危なくないか?目、かなり悪いんじゃないの?」
頷く安在はごそごそとカバンを探りケースから眼鏡を取り出すと、俺から顔を隠すようにそれをかける。
「なんで顔隠すわけ?」
「似合わないから」
「はぁ?もしかしてそれが眼鏡かけてない理由?」
「すみません」
そう言って俺を見た彼女の顔に淡いボルドー色の眼鏡がかかる。
「いつもと違って優等生っぽくなるけど別に変じゃないじゃん。やっぱ怪我したら危ないしコンタクト買うまでかけてるほうがいいって。日常生活に支障きたしてるだろ、安在の場合」
「……呼び捨て」
「へ?――あっ、ごめん、つい。安在さんでした」
「呼び捨てがいいです。でも、できれば名字じゃなくて名前……雛姫って――」
言いながら安在の顔が赤くなる。
なんでそこで赤くなる?
ってか、うわなんだこれ。
こっちまで照れるって。
「名前……?いや、いきなりハードル上げすぎ。そこは安在で。それから安在も俺への敬語やめて。同い年だし」
「うん、わかった」
はにかみながら頷かれ、俺は彼女を直視できなくなった。
「かわ――」
掌で口をおさえ無意識に言いかけた言葉を塞ぐ。
しかし彼女に聞こえてしまったようだ。
「カワ?」
見上げてくる目に問われて心臓が口から出るかと思った。
よかった、手でおさえていて。
本当に彼女は俺と同じホモサピエンスか?
いや違うだろう。
こんな可愛いのに絶対俺と同じじゃない。
とにかく落ち着け俺。
「や、なんでもない。それより俺、電車通なんだけど安在は?」
「わたしも」
「そ。んじゃ帰ろう」
並んで歩きながら俺は全力で後悔し始めていた。
安在は泰治が言うような男心を踏みにじるような嫌な女じゃないと思う。
裸眼じゃよく見えなくて目を凝らした彼女の眼差しを、あいつは見下されたと勘違いしたんだ。
きっと告白を断られたショックで彼女を悪者にしてるんだろう。
そんな泰治の逆恨みをやめさせるためとはいえ、軽い気持ちで安在に告白した俺って最低じゃないか?
しかも安在をよく知らなかったときは観賞用と興味すらなかったくせに、実際の彼女を知ったとたん可愛いとか思ってるなんて、俺はどれだけ現金な奴なんだ。
ここは正直に真実を話すほうがいいんだろうか。
ちらと安在を見下ろせば、肩下で揺れる軽やかな髪や長い睫、少し赤みがさす頬なんてのが、いちいち俺を魅了する。
観賞用フィルターがなくなったいま、俺の目は彼女のまぶしさに耐えられないみたいだ。
これじゃ安在を見て話ができない。
しばらくすれば彼女を見慣れるだろうし、その時にすべてを話そう。
大事な話をするときは相手の目を見てするのが礼儀だ、うん。
「西嶋君、なに、かな……?」
俺の視線に安在は気づいたらしい。
まあ二人して話もせず黙々と歩いていれば、ガン見に気づかれて当たり前か。
「えー……」
言葉を探したけど結局何も見つからず首を振る。
「なんでもない」
「……もしかして、つまらない?」
「へ?」
「わたし、話もしなかったもんね。き、緊張して何を話したらいいか――あっ、でも緊張って言っても困ってるとかじゃなくてね。男の子とこうやって並んで歩くとか初めてだから……って、ああぁ何言ってるんだろう、わたし」
お約束どおりそこで恥ずかしそうに頬を赤くするのか。
いやもう、どんだけピュアなんだって話だな。
安在を陰で遊んでそうって言ってニヤけてた野郎がいたが、あいつらに鉄拳食らわしたい。
「話って別になんでもいいと思うけど。昨日、何した。どんなテレビ見た。こういうのに興味ある。……そんな感じで。はい、どうぞ」
「え?わたしから話題を振るの?じゃあ一言ですまさないで話題を膨らませてね」
「努力します」
「なんで敬語なの……わたしが使うのヤダって言ったくせに」
あ、ちょっと拗ねた。
こんな顔もするのか。
「話してんじゃん、俺たち。無理しないでこんなんでいいんじゃないの?ずーっと話してなきゃいけないってわけでもないし、沈黙になったときは別にそれでもいいと思うけど」
「もしかして西嶋君、ここまで沈黙だったのも全然気にならなかったの?」
「え?安在気になんの?そりゃ嫌いな奴とだったら沈黙は気まずいけど。俺、一緒にいる奴と空間を共有してる空気とか好きなんだよな」
沈黙なんて巽といればほとんどそんな感じだ。
あいつが漫画ばっか読んでるって気もしないでもないが、そうじゃないときでもポツポツ会話してるだけで、ほぼ黙ってるってことがある。
俺と同じで巽も沈黙を楽しめる奴だ。
だから俺とあいつは馬が合うのかもしれない。
「そっか」
安在がふふと小さく笑う。
笑顔が嬉しそうに見えるのは俺の気のせいか?
なんで喜ぶんだ。
女ってやっぱわからん。
けどそんな彼女を見た俺の胸が小さく跳ねたのは、気のせいなんかじゃないはずだ。