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悪戯(6)

 八回目のセッション。

 凛はまず、先週の傷を修復した。

「先生、お庭に行こう。今日のお庭はね、とても穏やかな日差しが差してるの。暖かくて、安全で。先週ちょっと疲れたでしょ? だから今日は、先生の心をすごくすごく楽にしてあげる」

 深い弛緩の中の達也に、凛は丁寧に暗示を重ねた。不安の残滓を溶かすように。「先生は健康で、記憶もしっかりしていて、何も心配はいらない」。先週自分がこじ開けた傷を、自分で塞いでいく。

 達也の表情が和らいでいくのを見て、凛はほっと息を吐いた。

(ごめんね、先生。もうあんなことしないから)

 それから凛は、新しい暗示を入れた。ただし今回は、先生を困らせるためのものではなかった。

「先生は凛に褒められると、すごく嬉しくなる。もっと褒められたいと思う。凛に認めてもらえることが、先生にとってすごく大事なことになっていく」

 これは悪戯ではない——と凛は自分に言い聞かせた。先生を楽しませるためのもの。先生が嬉しくなるためのもの。誰も傷つかない。

 覚醒後、凛は授業中に何度か達也を褒めた。「先生の説明わかりやすい」「先生って頭いいんだね」「この教え方、すごくいいと思う」。

 そのたびに達也の表情が明るくなった。背筋が伸び、声に張りが出て、説明がより丁寧になった。まるで日を浴びた植物のように、褒められるたびに生き生きとしていく。

 凛はその変化を見つめながら、じわりと胸が温かくなるのを感じた。

(先生を操ってるのとは違う。先生を……幸せにしてるんだ)

 そう自分に言い聞かせた。悪戯の道具から、先生を幸せにするための手段へ。凛の中で何かが切り替わった——ように思えた。

 でも本当のことを言えば、境界はとっくに曖昧だった。先生を幸せにすることと、先生を支配することの間に、凛が引いた線はもう存在しなかった。先生を笑顔にすること。先生に自分を求めさせること。先生の感情を自分の手の中に収めること。それらは凛にとって全部同じ一つの欲望の、異なる側面に過ぎなかった。

 九回目。「先生は凛と一緒にいる時間が、一週間で一番楽しい時間だと感じる」

 十回目。「先生は凛がいないとき、凛のことがふと頭に浮かぶ。凛の声が遠くで聞こえるような気がする」

 暗示の内容は回を追うごとに、先生の内側へ、より深く、より親密な場所へと手を伸ばしていった。もう悪戯とは呼べなかった。凛はそのことを知っていた。知っていて、止まらなかった。

 だって先生が凛の名前を呼ぶとき、ほんの僅かに声が柔らかくなるから。凛が褒めると目を細めて微笑むから。授業が終わるとき、名残惜しそうに帰り支度をするから。それらは暗示の結果かもしれないし、先生自身の自然な感情の発露かもしれない。もう区別はつかなかった。つかなくても凛は構わなかった。

 いつからだろう。「面白いから」ではなく「嬉しいから」やるようになったのは。

 そして十一回目のセッション——深い静寂の中で、凛は初めて自覚した。

「先生、お庭にいる?」

「……います」

「今日はね、お庭にちょっとした変化があるの。庭の奥に門があるの。見える?」

「……ある。小さな、木の門」

「その門の向こうには、もっと深い場所がある。先生がまだ行ったことのない場所。行ってみたい?」

「……行きたい」

「じゃあ門を開けて」

 達也の呼吸がさらに深まった。眉間の力が完全に抜け、表情が幼子のように無垢になる。凛はその顔を食い入るように見つめた。

「門の向こうに何がある?」

「……水。透明な水が満ちている、丸い泉。石で囲われていて……底が見えないくらい深い」

「その泉に手を入れてみて」

「……冷たい。でも心地いい。手が溶けていくみたい」

「先生。その泉の水は、凛の声なの。先生が深く沈めば沈むほど、凛の声に包まれる。泉の底まで沈んでも、苦しくない。むしろ、もっと気持ちよくなる。沈みたいだけ、沈んでいいの」

「沈みたい」

 達也の声は囁きのようだった。その声を聞いたとき、凛は自分の頬が濡れていることに気づいた。

 泣いている。なぜ泣いているのかわからない。嬉しいのか、怖いのか、それとも——。

 凛はようやく理解した。自分はもう、先生をからかいたいのではない。先生を操りたいのでもない。

 先生が、凛の声だけを頼りにして、こんなにも深い場所に来てくれること。凛を信じて、凛に身を委ねて、凛の言葉ひとつで安らいでくれること。

 それが、たまらなく愛おしいのだ。

 凛は涙を拭い、ゆっくりと息を整えた。そして、震える声を押さえて、新しい暗示を囁いた。

「先生。凛のそばにいるとき、先生は今のこの気持ちよさを、ほんの少しだけ感じていて。ずっとずっと薄く、泉の水が一滴だけ胸に落ちるみたいに。先生は凛のそばが一番安らげる場所だって……心の奥で知っていて」

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