悪戯(5)
七回目のセッション。
この日、凛はやりすぎた。
前の週から温めていた暗示があった。本を読み返すうちに見つけた、認識に関わる技術。人の記憶や認知を一時的に操作できると書いてあった。面白そうだと思った。先生にとびきりの悪戯を仕掛けてやろう——そのときの凛は、まだ無邪気にそう考えていた。
「先生。目を覚ましたあとね、先生は一つだけ思い出せないことがあるの。凛の名前。凛の顔を見ても、凛が誰かはわかる。いつもの生徒だって、わかる。でも名前が、どうしても出てこない。凛、という音が頭から消えちゃうの。凛が『もういいよ』って言ったら思い出せるから。それまでのちょっとした遊び」
覚醒後。達也は目を開き、いつものように少しぼんやりとした顔で凛を見た。
「……あ、おはようございます。えっと」
達也の表情が変わった。凛を見ている。見ているのに、何かが足りないという顔。
「……すみません、ちょっと頭がぼんやりして」
「先生、どうかした?」
「いえ、あの……」
達也の目が泳いだ。凛の顔を見て、テキストを見て、また凛の顔を見る。口を開きかけて、閉じる。
「先生?」
「……ごめんなさい、すごく失礼なことを聞くんですが」
達也が困り果てた顔で言った。
「お名前、なんでしたっけ」
凛は笑った。予想通りだ。可笑しい。先生が毎週来ている生徒の名前を忘れるなんて。この生真面目な人が、目の前の生徒の名前を聞き返す情けなさ。
しかし、そこで凛が予想していなかったことが起きた。
達也の顔が青ざめたのだ。
「おかしい……おかしいな、どうして……」
達也は自分のこめかみを押さえた。眉間に深い皺が刻まれ、口元が引き攣っている。
「覚えているはずなんです。毎週来ているのに。なのにどうしても……名前が、出てこない」
その声には、はっきりとした恐怖が混じっていた。
凛の笑みが凍った。
「先生、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけで——」
「いえ、これは……こんなことは初めてです。人の名前を忘れるなんて。しかも、毎週会っている——」
達也の手が震えていた。テキストを握る指が白くなっている。自分の記憶に穴が開いている恐怖。それは凛が想像していたよりずっと深く、ずっと鋭いものだった。
「病気でしょうか。何か脳に問題が……」
達也の声が掠れた。目の奥にあるのは、もう困惑ではなかった。純粋な不安だった。若い男性が、自分の脳の機能を疑い始めている。そのことの重さが、凛の胸を一気に冷やした。
(これ、しゃれになってない)
「先生、もういいよ」
凛は慌ててトリガーの言葉を口にした。
達也の目にすっと光が戻った。
「……凛?」
「うん、凛。覚えてる?」
「もちろん覚えて——あれ、今僕、何を……」
達也は額に手を当て、首を傾げた。忘却暗示が作用しているのか、先ほどの恐慌の記憶が急速にぼやけていくようだった。しかし、身体に刻まれた不安の残滓は簡単には消えない。達也の肩はまだ強張っていて、呼吸もやや浅い。
「なんだかちょっと気分が悪くなってしまって。すみません」
「先生、今日は授業早めに終わりにしよ。ね?」
「え、でもまだ——」
「いいから。先生、疲れてるんだよ。帰ってゆっくり休んで」
凛は笑った。普段通りの、わがままな笑顔を作った。でも手のひらが汗ばんでいて、声が微かに震えているのを自分で感じていた。
達也が帰ったあと、凛はしばらく動けなかった。
ソファに座ったまま、膝を抱えて、壁の一点を見つめていた。
先生の、あの青ざめた顔。震える手。「病気でしょうか」という掠れた声。
(凛がやった)
あれは凛がやったのだ。先生を怖がらせたのは凛だ。先生の頭の中に手を突っ込んで、名前を引っこ抜いたのは凛だ。面白い悪戯のつもりだった。先生がきょとんとして、「あれ、なんだっけ」と間の抜けた顔をする——そういう愉快な絵を描いていた。
でも先生は間の抜けた顔なんかしなかった。本気で怯えた。自分の脳を疑った。あんなに頭が良くて、真面目で、いつも冷静な人が、凛のせいで恐怖に震えた。
(最低だ)
凛は膝に顔を埋めた。
目頭が熱い。何かがこみ上げてくる。自己嫌悪と、もう一つ、名前のつけられない感情。先生を傷つけたくなかった。怖がらせたくなかった。からかいたかっただけだ。笑わせたかっただけだ。なのに加減がわからなくなっていた。先生がかかるのが楽しくて、先生が凛の思い通りに動くのが気持ちよくて、どんどんエスカレートして、気づいたら——
(先生、ごめん。ごめんね)
謝れない。謝ったら全部ばれる。凛が何をしていたかが。
その夜、凛は本を開かなかった。ベッドに潜り込んで、枕に顔を押し付けたまま、ずっと達也の怯えた顔を思い出していた。もうやめよう、と思った。これ以上は先生がかわいそうだ。こんな遊びは終わりにすべきだ。
でも——。
同時に、別のことも考えていた。
先生が凛の名前を思い出した瞬間の、あの安堵の表情。「凛?」と呼んだときの、柔らかい声。あれを聞いたとき、凛の胸がどれだけ温かくなったか。先生にとって凛の名前が——凛という存在が——失って怖いものであるという事実。それは暗示のせいかもしれないし、先生自身の感情かもしれない。どちらにしても。
(先生にとって、凛はもう「いないと怖い」人になってる)
その認識が、凛の自己嫌悪の中に、小さな、けれど灼けるような甘さを落とした。
罪悪感があった。確かにあった。
でも、やめられなかった。
翌朝、凛はまた本を開いた。ただし今度は、悪戯のページではなく、暗示の安全な解除方法や、不安を和らげる暗示の入れ方が書かれた章を読んだ。
(次は先生を怖がらせない。絶対に。もっと優しくやる)
そう誓った瞬間、凛は「やめる」ではなく「もっと上手くやる」を選んだ自分に気づいていた。気づいていて、目を逸らした。




