悪戯(3)
五回目のセッションでは、さらに踏み込んだ。
「先生、今日は凛の声をもっと深く感じて。お庭の泉に足を浸すように。声が足から身体を通って、頭の先まで広がっていく」
達也の全身から力が抜けていくのを確認してから、凛は新しい暗示を注いだ。
「先生が目を覚ましたあとね、凛が机を指でトントンって叩いたら、先生は今しゃべろうとしてたことが、ふっと頭から消えちゃうの。何を言おうとしてたか思い出せない。でもすぐに忘れたことも忘れちゃうから、別に困らない。ちょっとぼんやりするだけ」
そしてもう一つ。
「凛が髪を耳にかける仕草をしたら、先生は凛のことが——ほんの一瞬だけ——すごくきれいだなって思うの。一瞬だけだから、先生は自覚しない。でも身体のどこかが、ほんのちょっとだけ熱くなる」
覚醒後。授業が始まった。
達也が微分方程式の解法について説明を始める。凛は適度に相槌を打ちながら、タイミングを窺った。
「ここでの変数分離は、つまり——」
凛が人差し指で机をトントンと叩いた。
達也の口が止まった。宙を見つめ、瞬きを二、三回。
「……すみません、何を言おうとしたか忘れました。えっと……」
「先生、大丈夫?」
「ええ、ちょっとぼんやりして……あ、そうだ。変数分離ですね」
話が戻る。再び流暢な説明が始まる。凛はしばらく待ってから、また机を叩いた。
「この場合はxとyを——」
ぴたり。達也がまた止まった。
「……あれ」
「先生?」
「おかしいな、また……」
達也は自分の額に手を当てた。困惑している。しかし暗示通り、困惑はすぐにぼんやりした靄に変わり、達也はまた何事もなかったかのように話を再開した。
三回目。四回目。凛はそのたびに先生の言葉を「消した」。達也は次第に説明のペースを落とし、言葉を選ぶようになっていった。まるで足元に見えない穴が開いていることに本能的に気づき始めたかのように。
(先生の思考を、凛が消したり戻したりしてる)
その事実を噛みしめるたびに、指先が痺れた。
そして仕上げ。凛はゆっくりと髪を耳にかけた。
達也の目がほんの一瞬、凛の横顔に留まった。まばたきより短い間。しかしその一瞬に、達也の喉仏が微かに動いた。唾を呑んだのだ。
達也自身はその反応に気づいていない。視線はすぐにテキストに戻り、何事もなかったかのように説明を続けた。しかし凛の目は見逃さなかった。先生の身体が、凛の仕草一つに反応した。意識は気づかなくとも、身体が凛を追っている。
(これ、すごい。すごい、すごい、すごい)
凛はノートに「先生がんばって」と書いて見せ、にっこり笑った。達也は苦笑して「頑張ります」と答えた。その苦笑の下に、自分でも理解できない微かな高揚が混じっていることに、達也は気づかなかっただろう。
でも凛には見えていた。




