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悪戯(2)

 四回目のセッションは、凛にとって「実験」の本番だった。

 今回は達也をいつもより深い場所に導いた。庭の奥、泉の手前。達也の呼吸が羽毛のように軽く静かになり、眉間の皺がすべて消えたのを確認してから、凛はゆっくりと新しい暗示を編み始めた。

「先生、一つ遊びをするよ。目を覚ましたあとね、先生は『だから』っていう言葉が言えなくなるの。言おうとすると、なぜか別の言葉に変わっちゃう。『だから』って言いたいのに、口から出るのは全然違う言葉。でもね、先生は変だなって思わない。ちょっと言い間違えただけだって、自然に流しちゃうの」

 覚醒させた後、凛は待った。

 授業中、達也が説明を続ける。数学の証明問題。理路整然と、いつもの丁寧な口調で解説が進む。そして——

「この公式を変形すると、こうなりますね。……ぷりんせす、この解法が最も効率的なんです」

 達也が一瞬きょとんとした。自分の口から出た言葉に違和感を覚えたように見えたが、すぐに何事もなかったかのように続きを話し始めた。

 凛は机の下で自分の太ももをつねっていた。声を出して笑ったら暗示が台無しになる。「だから」が「ぷりんせす」に。何だそれは。凛が暗示で指定したのは「言えなくなる」だけで、代わりに何が出るかまでは決めていなかった。先生の無意識が「ぷりんせす」を選んだのだ。一体どういう脳の回路をしているのか。

「この定理が成り立つのは、……ぷりん、ぷり……」

 達也の口が止まった。何かが引っかかったように、同じ音を繰り返している。唇が「だ・か・ら」を形作ろうとして、しかし音にならない。しばらく格闘した末に、達也は眉を寄せ、別の言い回しに切り替えた。

「つまり、この定理の前提として——」

(回避した)

 凛は感心半分、興奮半分で観察した。先生は「だから」を言えない自分に気づきかけている。でも「変だ」とは思わない。暗示通り、自然に迂回して話を続けている。

 凛は意地悪く問いかけた。

「先生、つまりそれって、どうしてそうなるの?」

「それはですね、この条件が成立していて……ぷりんせ——いえ、つまり、その結果として……」

 達也の額にうっすら汗が浮かんだ。言いたい接続詞が出てこないストレスが身体に出ている。それでも達也は「だから」を避けながら、手持ちの語彙を総動員して説明を組み立て直した。

 凛は頬杖をつきながら、うっとりとその様子を眺めていた。

(先生がこんなに必死になってるの、凛のせいなんだよなあ)

 可笑しい。圧倒的に可笑しい。でもそれだけではない。自分が先生の言葉を——先生の口を支配している。先生の一番の武器である「教える力」を、凛がほんの少し歪めている。その実感が、胸の奥をじんわりと温めた。

 授業の終わり際、凛はこっそり暗示を解除するための声掛けをした。本に書いてあった通り、一時的な暗示には有効期限を設けておくのが安全だと。

「先生、今日はお疲れ様。深呼吸して、肩の力抜いて」

 トリガーを含めた言葉を自然に紛れ込ませる。達也が深呼吸をした瞬間、その目にいつもの冷静な光が戻った。

「あ、すみません。今日はなんだか言葉が出にくくて……疲れているのかもしれません」

「先生、働きすぎだよ。もっと休まなきゃ」

「凛に言われると、説得力がありますね」

「どういう意味!」

 二人で笑った。こういう何気ないやり取りの中に、凛は密かな甘さを味わっていた。先生は何も知らない。凛がどれほど先生を振り回したかも、その振り回す行為に凛がどれほど夢中になっているかも。

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