悪戯(1)
三回目のセッションで、凛は初めて「遊び」を仕掛けた。
導入はもうスムーズだった。「先生、深呼吸して」の一言で達也の意識は薄紙一枚分、日常から離れる。そこから「お庭に行こう」と誘えば、達也は自らの内側にある石畳の庭へと降りていく。
そのスピードに、凛は毎回ぞくりとする。
「先生、今日はちょっとした実験をしてもいい?」
「……うん」
深い弛緩の中の達也は、凛の提案をほとんど拒まない。拒めないのではなく、拒む理由を見つけられないのだ。凛の声は安全で、この場所は心地よくて、だから凛の言葉はすべて受け入れていい——そういう回路が、すでに達也の中に構築されつつあった。
「先生が目を覚ましたあとね、凛がペンを持ったら、先生はなぜかペンが気になって仕方なくなるの。目で追っちゃう。なんでかはわからないけど、凛のペンが気になる。でも変だなとは思わない。自然なことだから」
後催眠暗示。凛が最も心を惹かれた技術だった。深い状態で埋め込んだ指示が、目覚めた後に、本人の自覚なく作動する。本当にそんなことが可能なのか。半分以上は無理だろうと思っていた。でも、もし成功したら——想像するだけで頬が緩んだ。
「もう一つ。凛が『先生って優しいね』って言ったら、先生は嬉しくなって、ちょっとだけ照れちゃう。理由はわからないけど、凛にそう言われるとすごく嬉しい。いい?」
「……いいよ」
達也を覚醒させた後、凛はまず何食わぬ顔で授業を始めさせた。テキストの問題を解説する達也の声を聞きながら、凛はそっとペンを手に取った。
達也の視線がペンに吸い寄せられた。
文章を読み上げている最中なのに、目がペンの方に引っ張られている。凛が気づかれないようにペンを左に動かすと、達也の視線が追いかける。右に戻せば、右に。ぐるりと円を描くように動かすと、達也の首がわずかに回った。
(うっそ。まじで?)
凛は唇を噛んで笑いを堪えた。お腹の底から込み上げてくる可笑しさに、身体が震える。あの真面目な先生が、凛の手元のペンに釘付けになって、首までくるくる動かしている。
たまらなくなって、凛はペンを大きく振ってみた。達也の目が大きく動き、読み上げていた文章を完全に見失った。
「……あれ、どこまで読みましたっけ」
「先生、どうかした? さっきからキョロキョロして」
「え? あ、いえ、何でもないです。すみません……凛のペン、珍しい色ですね。つい目が行ってしまって」
達也は自分で理由をでっち上げた。何の変哲もない黒いボールペンだ。凛は「え、これ? 百均だけど」と返しながら、顔が崩れそうになるのを必死で堪えた。
本にはそう書いてあった。人は暗示に従った行動に対して、自分で合理的な理由を見つけようとする。作話——そんな現象名が書いてあった気がする。目の前でそれを見ると、もう駄目だった。
「先生って優しいね」
さりげなく、二つ目の暗示のトリガーを投げ込んだ。
達也の耳が赤くなった。じわじわと、耳の端から首筋に向かって朱が広がっていく。
「……ありがとうございます。急にどうしたんですか」
「べつに。思っただけ」
達也は照れ臭そうに視線を逸らし、テキストに目を落とした。しかしその唇の端がわずかに上がっているのを、凛は見逃さなかった。
(かわいい)
思ってしまった。先生のことを、かわいいと。年上の男性に対して、かわいいは失礼だとわかっている。でも他に言葉が見つからなかった。凛の一言で耳まで赤くなる先生は、控えめに言っても、かわいかった。
その日の授業は、凛にとって過去最高に楽しいものになった。何しろ、退屈な問題を解いている合間に、いくらでも遊べるのだ。ペンを動かせば先生の視線が泳ぎ、「先生って優しいね」と言えば先生が赤くなる。これはもはや、手の中に秘密のリモコンを握っているようなものだった。
その夜、自室のベッドに転がりながら、凛は天井を見つめた。
(もっとできる。もっと面白いこと、できるはず)
枕元の本を手に取り、ページをめくる。次のセッションで何を仕掛けるか——その計画を練る時間が、凛の一週間の中で最も充実した時間になりつつあった。




