深度
次の週、凛は入念に準備をしていた。
あの本を何度も読み返し、付箋を貼り、ノートにまとめた。大学の講義では一度もやったことのない真剣な予習だった。自分でもおかしいと思う。勉強は一秒たりともやる気が出ないのに、これに関してだけは驚くほど集中できた。
達也が来るなり、凛は授業を始める前に切り出した。
「先生、先週のリラクゼーション、すごくよかったって言ってたじゃん。今日もやろうよ」
「授業が先では——」
「十分だけ。ね、先週も気持ちよかったでしょ?」
達也は少し迷ったあと、苦笑しながら頷いた。凛は内心でガッツポーズをした。
今回は準備が違う。照明を少し落とし、カーテンを半分引いた。「雰囲気出した方がリラックスできるかなと思って」と言えば、達也は素直に信じた。
「先生、座って。そう。……先生、深呼吸して」
先週埋め込んだ言葉を、さりげなく使った。
達也の肩がわずかに落ちた。本人は気づいていないだろう。意識の表面には上がらない、微かな弛緩。しかし凛の目はそれを見逃さなかった。
(効いてる)
背筋に甘い痺れが走った。
「目を閉じて。先週の、あの気持ちいい感覚、覚えてるよね。身体が覚えてるの。だから今回は、もっと早く、もっと深く、あの場所に行ける」
先週は十数えて導いた深さに、今回は半分の時間で到達した。達也の身体は凛の声に驚くほど素直に反応する。声のトーンを下げれば呼吸が深まり、間を長く取れば筋肉が弛緩する。まるで楽器を弾くような感覚だった。
凛は本で読んだ新しい技法を試した。
「先生、今いる場所を想像して。すごく安全で、心地いい場所。先生にとって一番落ち着ける場所……どんな場所が見える?」
「……庭」
「庭?」
「石畳の……庭です。塀に囲まれていて……木があって……水の音がする」
達也の声は夢見るように穏やかだった。凛は息を詰めてその言葉を聞いた。先生の心の一番深い場所にある景色。それを自分だけが見ている。
「きれいな庭だね。その庭の真ん中に、椅子があるの。先生はそこに座って。座ったら、もっともっと深く安らげる」
「……座りました」
「いい子」
口をついて出た言葉に、凛自身が驚いた。
先生に向かって「いい子」。普段なら絶対に言わない——いや、言えない言葉だ。年上の、しかも自分の先生に対して。なのに、深いリラックスの中にいる達也は、その言葉に微かに頬を緩めた。
凛の中で、何かの境界線がぼやけた。
(先生は今、凛の声しか聞こえていない。凛の言葉だけが、先生の世界のすべて)
その認識が、臍の下あたりにじわりと熱を生んだ。
「先生、その庭はね、凛と先生だけの場所。誰も入ってこれない。先生がこの庭にいるとき、先生は完全に安全で、完全に自由で……完全に、凛のものなの」
最後の言葉は、本には書いていなかった。凛自身の内側から溢れ出したものだった。
「先生。これからは、凛が『お庭に行こう』って言ったら、先生はすぐにこの場所に来れる。目を閉じて、深呼吸して、凛の声を聞くだけで。来れるよね?」
「……はい」
「うん、よくできました」
凛は自分の声が震えているのに気づいた。嬉しいのだ。先生が凛の言葉を受け入れてくれることが、こんなにも嬉しい。これは悪戯の愉快さとは違う。もっと深い、もっと甘い感情だった。
「先生、今日からひとつ約束して。凛のことを、もっと名前で呼んで。普段の授業のときも。凛って、呼び捨てでいいから。その方が先生もリラックスできるよ」
「……凛」
深い弛緩の中で紡がれた凛の名前。その響きを、凛は両手で掬い上げるように大事に聞いた。
「そう。そのまま覚えていて。でもね、このリラクゼーションの時間のことは、あんまりはっきり覚えてなくていいの。気持ちよかった、っていうふわっとした感覚だけ残ってればいい。細かいことは忘れて。夢みたいに、溶けて消えちゃっていいの」
忘却の暗示。本にはこの技術について特に詳しく書かれていた。記憶を曖昧にすることで、暗示がより自然に定着すると。
「じゃあ、戻ってきて。五、四、三、二、一」
達也が目を開けた。少し間の抜けた表情で凛を見る。
「……気持ちよかったです。なんだか、すごく深いところまで行った気がする」
「でしょ? 凛、才能あるかも」
「ありますね、確かに」達也は微笑んだ。「凛の声を聞いていると、不思議と安心するんです」
凛の心臓が大きく鳴った。
「先生、凛の声が好き?」
「……ええ、落ち着きます」
先生は気づいていない。自分が凛のことを「凛さん」ではなく「凛」と呼んでいることに。暗示が自然に作用している。
(すごい。本当に、すごい)
凛はその日、授業の間中ずっと上機嫌だった。達也は不思議そうにしていたが、凛のやる気がある日は素直に歓迎するらしく、それ以上は追及しなかった。
しかし凛の頭の中は、次のセッションのことでいっぱいだった。




