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遊び

 正直なところ、凛自身も半信半疑だった。

 書斎で偶然見つけたその本は、父が若い頃にどこかで手に入れたものらしい。ページをめくっていくうちに、人を深いリラックス状態に導く技術の章に目が止まった。声の使い方、呼吸への意識の向け方、段階的に深い弛緩に導く手順——読めば読むほど、これは面白いことに使えそうだという直感が湧いた。

 真っ先に浮かんだのが、達也の顔だった。

 あの生真面目な家庭教師。何を言ってもいちいち丁寧に返してくる、優しくて、ちょっとお人好しの先生。あの人がぼんやりした顔で凛の言いなりになったら——想像するだけで可笑しかった。

 先生を困らせたい。あの真面目な顔を崩してみたい。その程度の、軽い悪戯心だった。

「じゃあ先生、まず楽な姿勢をとって。うん、そのままでいいよ」

 本に書いてあった手順を思い出しながら、凛は声のトーンを少しだけ落とした。普段のはきはきした話し方ではなく、ゆっくりと、柔らかく。本にはそう書いてあった。相手の呼吸に合わせて話すこと。まず相手の状態をそのまま言葉にすること。

「先生、今ソファに座ってるよね。背中がソファに触れてる感じ、わかる? 足が床についてる感覚もあるよね。そう、今そうやって座ってて……少し肩が張ってるかな」

 達也は怪訝そうな顔をしながらも、大人しく座っていた。凛の機嫌を損ねないようにという配慮が透けて見える。凛は構わず続けた。

「目はね、あの棚の上のガラスの置物を見ててくれる? うん、そこ。ずっと見てて。……見てると、だんだん目が疲れてくるかもしれないけど、それでいいの。疲れてきたら、瞬きしたくなるよね。瞬きしたくなったら、していいからね」

 本に書いてあった通りだ。一点を凝視させて、目が自然に疲れてくるのを利用する。凛は達也の表情を注意深く観察した。

 最初は何も起きないだろうと思っていた。からかって、先生が「何も起きませんが」と苦笑して、それで終わり。そういう筋書きを想定していた。

 だから、達也の瞬きが目に見えて遅くなり始めたとき、凛は息を呑んだ。

「……そう、まばたきが増えてきたね。目が重くなってきてるんだよね。それは自然なことだから。目を閉じたくなったら……閉じていいよ」

 達也の瞼がゆっくりと落ちた。

 凛の心臓が跳ねた。

(え、うそ。本当に?)

 閉じた目。わずかに弛緩し始めた肩。普段ぴんと張り詰めている達也の輪郭が、少しだけ柔らかくなっている。それを目の当たりにした瞬間、凛の中に名前のつかない感情が芽生えた。面白い。面白いけど、それだけじゃない。何か、もっと——。

 凛は気持ちを振り払うように、本のページをめくった。次の手順。相手がリラックスし始めたら、一度目を開けさせて、もう一度閉じさせる。それを繰り返すことで、より深い状態に入るのだと書いてあった。

「先生。目を開けて」

 達也の目がゆっくりと開いた。少し焦点が合わないような、ぼんやりした瞳。

「はい、もう一度閉じて。さっきよりもっと深く、力を抜いて。全部、手放していいの」

 二度目に目を閉じたとき、達也の身体から明らかに力が抜けた。肩が落ち、握られていた手が開き、呼吸が深くゆったりしたものに変わった。

 凛は唇を噛んだ。

(すごい。本当にかかってる)

 手が震えている。興奮なのか緊張なのか、自分でもわからなかった。ただ、目の前の光景から目が離せない。いつも自分に対して穏やかだけれど毅然とした態度を崩さない先生が、凛の声ひとつで、こんなにも無防備になっている。

 本の手順に従い、凛は達也の状態を深めていった。

「先生の身体がどんどん重くなっていくよ。椅子に身体が沈んでいくような感じ。右手から力が抜けて……左手も。肩から力が抜けて、首も楽になって。全身が、ゆっくり、ゆっくり……溶けていくみたいにリラックスしてる」

 声を出しながら、凛は自分の声がいつもと違うことに気づいていた。普段は人を急かすような、せっかちな話し方をする自分が、驚くほど穏やかに、丁寧に言葉を紡いでいる。先生を深い場所に導くために、自然とそうなっていた。

「今から数字を数えるね。十から一まで。数字が小さくなるたびに、先生はもっと深くリラックスしていく。十……九……八……どんどん深く……七……六……」

 数を数えるごとに、達也の呼吸がさらに静かになっていく。五を過ぎた頃には、ほとんど眠っているように見えた。でも眠りとは違う。問いかければ答える。凛の声だけが達也の世界に届いている。

 三……二……一。

「先生、今どんな気持ち?」

「……気持ちいい」

 達也の声は掠れていて、とろりとした響きがあった。その声を聞いた瞬間、凛の中で何かが弾けた。

(何これ。何、この感じ)

 胸の奥が熱い。手の震えが止まらない。達也がこの声を出しているのは、凛の言葉がそうさせているからだ。凛が導いて、凛の声が触れて、凛が許したから、先生はこんなにも安らいでいる。

 その事実が、凛の全身を痺れさせた。

「先生」

 凛は自分でも驚くほど甘い声で囁いた。

「凛の声、心地いい?」

「……うん」

 いつもは敬語の先生が、無意識に砕けた返事をする。凛は唇の端が持ち上がるのを抑えられなかった。

「じゃあ覚えておいて。凛が『先生、深呼吸して』って言ったら、今のこのリラックスした感じがふわっと戻ってくるの。それだけ覚えてて」

 本に書いてあった条件づけ。特定の言葉と状態を結びつける技術。成功するかどうかはわからなかったが、試さずにはいられなかった。

「それじゃ、ゆっくり戻ってきて。五つ数えたら、目が覚めるよ。一、二、三……身体に力が戻ってきて……四……五」

 達也の目がゆっくりと開いた。数回瞬きをして、少しぼうっとした表情で周囲を見回す。

「あれ……僕、少し寝てました?」

「ううん、全然。リラックスしてただけだよ」

「そうですか……なんだかすごく気持ちよかった気がします。不思議ですね」

 凛はにっこりと笑った。その笑みの奥で、心臓がまだ激しく鳴っている。

(もっとやりたい)

 その欲求は、最初の「先生をからかいたい」とは、明らかに質が違っていた。

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