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 それから数ヶ月が経った。

 季節は巡り、応接間の窓から見える庭園の木々は色を変えた。週に一度の授業は変わらず続いている。変わったのは、その中身だった。

 達也自身、最近の自分がどこかおかしいことは薄々感じていた。

 凛のそばにいると、理由もなく満ち足りた気持ちになる。凛の声を聞いていると、世界の輪郭が柔らかくぼやけて、何もかもが大丈夫だという根拠のない安心感に包まれる。凛がいない日は、どこか落ち着かない。

 おかしい。こんなことは以前はなかった。

 しかし、それを不快だとは思わなかった。

 むしろ、心地よかった。自分の中に新しい場所ができたような感覚。凛という存在を中心にして、達也の内側の何かが組み替えられていく。その変化を達也は見つめていた。止めようとは思わなかった。止めたくなかった。

「先生、今日はたくさん勉強したから、ご褒美の時間ね」

 凛がそう言うと、達也の身体は自動的に弛緩し始める。まだ何も始まっていないのに。凛の声の、あの特別なトーンを聞くだけで。

「先生、深呼吸して」

 達也は深く息を吸い、吐いた。それだけで、世界が半歩遠のく。

「お庭に行こう」

 目を閉じる。石畳の庭が広がる。木々のざわめき。水の音。そしてその奥にある、底の見えない泉。

「先生、今日はお庭の泉のそばに座って。泉の水に手を浸して。凛の声が水になって、先生の手から、腕から、全身に染み込んでいくの。感じて」

「……感じます」

「今日は特別なことをするね」

 凛の声がいつもより低い。そこに混じる微かな熱を、達也の意識は感知していたが、もうそれに抵抗する機能は残っていなかった。

「先生。凛の声に集中して。凛の声だけが聞こえる。凛の声が全部。先生の身体の力を、全部、凛に預けて。重力も、時間の感覚も、全部手放して。先生にはもう何もいらない。凛の声だけあればいいの。先生の全部を……凛にちょうだい」

 達也の身体がソファに深く沈んだ。もはや座っているというより、身体の形をした水がソファの上に広がっているようだった。

 凛はその様子を見下ろしていた。

 心臓が激しく脈打っている。手のひらが汗ばんでいる。目の前の達也は完全に凛の手の中にいる。凛の声一つで笑わせることも、泣かせることも、何を感じさせることもできる。その全能感が、凛の指先から爪先までを痺れさせていた。

 でも凛が最も興奮するのは、全能感そのものではなかった。

「先生、泉の底にいる?」

「……います」

「凛の声は聞こえる?」

「聞こえます。声だけが……聞こえます」

「先生、今どんな気持ち?」

 達也の唇が動いた。

「……幸せです」

 その一言が、凛の胸の奥深くに落ちて、波紋を広げた。

 先生は幸せだと言った。凛の声しか聞こえない場所で、凛に全てを預けた状態で、幸せだと。

 凛は膝の上で拳を握り締めた。目頭が熱くなる。何回やっても慣れない。この瞬間だけは、凛の中のすべての虚勢と我儘が剥がれ落ちて、剥き出しの感情だけが残る。

 先生がこんなにも深く来てくれること。凛を信じてくれること。

 それが嬉しくて、嬉しくて、どうしようもないのだ。

「先生、今日はね、お願いがあるの」

 凛は達也のそばに膝をつき、耳元で囁いた。

「先生の右手をあげて」

 達也の右手がゆっくりと持ち上がった。

「その手を、凛の掌に重ねて」

 達也の手が凛の掌に触れた。力の抜けた、温かい手。凛は達也の指を自分の指で包んだ。

「先生。凛が先生の手を握ると、泉の水が先生の全身に行き渡るの。もっと深く、もっと気持ちよくなる。凛が先生に触れるたびに、先生の中の泉が満たされていく」

 達也の手が微かに震えた。

「先生、気持ちいい?」

「……はい」

「凛が触れると気持ちいい?」

「……はい」

「ね、先生。凛のお願い聞いてくれる?」

「聞きます」

「先生は普段、凛に触れないようにしてるでしょ。距離を保ってるよね。それはね、しなくていいの。凛が手を出したら、先生は自然に応えて。先生が凛に触れたいと思ったら、我慢しなくていいの。先生は先生のままでいい。ただ、凛に対してだけは、壁をなくして」

 凛の声は、もはや悪戯をする少女のものではなかった。自分が何をしているか、正確に理解している者の声だった。

「先生」

 凛は達也の手を自分の頬に当てた。

「この感覚を覚えてて。凛の肌の温度、凛の呼吸……先生が凛に触れたとき、先生はいつもこの泉の底の安らぎを、ほんの一瞬だけ感じるの。一瞬だけ。だから、もっと触れたくなる。自然にね」

 達也の指が凛の頬を微かに撫でた。無意識の動作。凛は目を閉じて、その感触に身を浸した。

(先生)

 この人を手に入れている。心の一番深い場所に、凛の場所がある。凛の声が水になって、先生の中に満ちている。

 もう、からかいたいだけの凛はいない。

 ここにいるのは、先生の全部が欲しい凛だ。

「先生、もうすぐ起こすね。起きたら、リラクゼーションの細かいことは覚えてなくていい。でも凛の手の温かさだけは、どこかに残っていて。ね?」

「……はい」

「いい子」

 凛は名残惜しそうに達也の手を離し、覚醒のカウントを始めた。


 目を開けた達也は、いつものように少しぼんやりとした顔で凛を見た。

「すみません、また気持ちよくなってしまって」

「先生は素直でいいね」

「凛にだけですよ、こんなにリラックスできるのは」

 達也はそう言って笑った。その笑みがとても自然で、暗示なのか本心なのかもう判別がつかない。凛はそれでいいと思った。

「先生、手」

 凛がひょいと手を差し出すと、達也は一瞬だけ躊躇して——それから、ごく自然に凛の手を取った。以前なら絶対にしなかったことだ。達也自身、なぜそうしたのか説明できないだろう。ただ自然に感じたのだ。

 繋いだ手の温もりを感じながら、凛は窓の外の庭園を見た。

「先生、来週も来てね」

「毎週来てますよ」

「ずっとだよ。ずっと来て」

「……ええ、もちろん」

 達也の声にはもう迷いがなかった。


 達也が帰ったあと、凛は応接間のソファに身を投げ出した。

 天井を見上げる。心臓がまだ鳴っている。手のひらに残る達也の体温が消えない。

(わたし、先生のこと——)

 その先の言葉を、凛はまだ自分に許さなかった。代わりに、唇の端が勝手に持ち上がる。にやにやとした、子供みたいな笑み。

 達也は気づいていない。自分の心の庭に凛がいることを。泉の底に凛の声が満ちていることを。毎日ふと凛のことを考えるのも、凛のそばで安らぐのも、凛に触れたくなるのも、すべてが凛の手によるものだということを。

 達也はただ、自分が穏やかに変わっていくのを感じているだけだ。凛という存在が、いつの間にか自分の世界の中心に座っていることに、薄々気づきながら、それを心地よいと感じている。自覚しながら、抗わない。

 それが凛にとって、何よりの悦びだった。

(来週はどんな暗示を入れよう)

 凛はごろりと寝返りを打ち、スマートフォンを手に取った。画面にはメモアプリが開いている。そこには次のセッションの計画がびっしりと書き込まれていた。

(先生は知らないだろうなあ。凛がこんなに先生のこと考えてるって)

 窓の外で風が吹いた。庭園の木々がざわめく。

 凛は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、深い弛緩の中で「幸せです」と呟いた達也の顔。

 その表情を作ったのは凛だ。凛の声が、凛の言葉が、凛の存在が——先生を幸せにしている。

 これからもずっと。もっと深く。もっと完全に。

(先生。凛はもう、先生を離さないよ)

 凛は目を開けた。その瞳は、応接間に初めて現れた日の退屈しきった色ではなく、透明な、深い光を湛えていた。

 メモアプリに新しい一行を書き加える。

 ——次回:先生が凛の名前を呼ぶとき、心臓が少しだけ早くなるようにする。

 スマートフォンを胸に抱えて、凛はもう一度笑った。

 誰にも見せない、甘くて秘密の微笑みだった。

初投稿作品をここまで読んでいただきありがとうございます。

なんとか完結しました!

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