家庭教師
桐島凛という学生について、藤原達也が事前に得ていた情報は三つだった。
都内有数の名家の一人娘であること。今春、某私立大学に内部進学で入学したこと。そして、一年前期の必修科目のうち二つで既に出席日数が危ういこと。
家庭教師の派遣元からは「少し気難しいお嬢様です」とだけ聞いていた。達也は大学院を出たばかりの二十五歳で、本業は予備校の非常勤講師だったが、週に一度だけこの家庭教師の仕事を引き受けていた。名家の令嬢ともなれば、それなりの礼儀作法や知性は備えているだろう——そう高を括っていた自分の甘さを、達也は玄関をくぐって三十秒で思い知ることになる。
桐島家の応接間は、一般家庭のリビング二つ分はある広さだった。磨き抜かれた床、天井まで届く本棚、窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園。その空間の中央に置かれた大きなソファに、凛は猫のように丸まっていた。
「あー、来たんだ」
スマートフォンから目を上げもせず、凛はそう言った。
「初めまして、本日から担当させていただく藤原です」
「ふうん。先生、若いね」
ようやく顔を上げた凛は、達也の予想とはまるで違っていた。お嬢様という言葉から連想される淑やかさや上品さは微塵もない。代わりにあったのは、退屈しきった子供のような瞳と、人を試すような薄い笑みだった。
髪は長く、手入れこそ行き届いているものの無造作にまとめられている。服装は高価なものだとわかるが、着崩し方が大胆で、全体の印象としては「気まぐれ」という言葉がぴったりだった。顔立ちは整っている——というより、どこか小悪魔じみた愛嬌があった。
「よろしくお願いします、桐島さん」
「凛でいいよ。桐島さんってお父さんみたいだし」
年上の、しかも初対面の人間に対してこの態度である。達也は内心でため息をつきながらも、笑顔を崩さなかった。
「では凛さん」
「さん、もいらない」
「……凛、さんで」
「えー、つまんないの」
凛はぷくりと頬を膨らませた。その仕草だけは年相応で、達也は少しだけ肩の力が抜けた。
最初の授業は惨憺たるものだった。凛は頭が悪いわけではなかった——むしろ、理解力は驚くほど高い。問題を出せば正解する。要点を説明すれば即座に把握する。ただ、致命的にやる気がなかった。
「これ、わかってるなら授業に出ればいいだけでは」
「だって朝起きるのだるいし。あと教授の話がつまんない」
「つまらなくても単位は——」
「先生が教えてくれるからいいじゃん」
にっこりと笑う凛に、達也は言葉を失った。
それから三回ほど授業を重ねるうちに、達也はこの仕事の本質を理解し始めた。凛に勉強を教えること自体は難しくない。難しいのは、凛を机に向かわせ続けることだった。彼女は五分と集中が持たない。突然まったく関係のない話を始めたり、達也の私生活を根掘り葉掘り聞こうとしたり、おやつを要求したりする。
しかし不思議なことに、達也は凛のことを嫌いにはなれなかった。わがままで、生意気で、人をナメている。それなのに、どこか放っておけない魅力があった。悪戯をするときの目の輝き、こちらの反応を楽しそうに観察する様子、そして時折ふいに見せる素直な表情——そういったものが、達也の中のどこか柔らかい部分に触れた。
四回目の授業の日のことだった。
いつものように応接間に通されると、凛はソファではなく、部屋の隅の本棚の前に立っていた。何かに夢中になっている様子で、達也が声をかけても振り返らない。
「凛さん?」
「……あ、先生。ねえ、これ見て」
振り返った凛の瞳が、いつもと違う光を帯びていた。悪戯を思いついたときの、あの危険な輝きだ。手には古びた革装丁の本が握られている。
「お父さんの書斎から持ってきたんだけど、面白いことが書いてあるの」
「何の本ですか」
「人の心を落ち着かせる方法とか、集中力を高める方法とか。精神修養? みたいなやつ」
達也が覗き込むと、確かにリラクゼーション技法や瞑想法について書かれた書物のようだった。古い本で、催眠術に関する記述も含まれていたが、表紙や章題にはそうした言葉は直接使われておらず、「精神誘導法」「深層弛緩術」といった表現が並んでいた。
「ねえ先生、これ試してみない?」
「……何をですか」
「リラックスする方法。先生っていつも肩に力入ってるでしょ。ほら、座って座って」
凛はぱたぱたとソファの前まで達也を引っ張ってきた。
「授業があるんですが」
「十分だけ。ね?」
上目遣いでねだる凛に、達也は抗えなかった。普段は生意気な態度ばかりの凛が、こうして何かに夢中になっている姿は珍しい。少し付き合ってやれば満足して授業に集中するだろう——そんな甘い計算もあった。
ソファに腰を下ろした達也の前に、凛は本を片手に、少しだけ緊張した面持ちで立った。




