第10話 足りないものを探せ――学長マンジェの基礎講義
菓子学校の朝は早い。
まだ霧の残る牧草地を遠くに見ながら、セレフィナは軽い朝食を食べると、寮からすぐ近くの校舎へ向かった。校舎といっても、領主が昔別荘の一つとして使っていた大屋根の家を改装したものだ。授業が始まれば、窓から甘い湯気が立ちのぼり、通りかかるだけでお腹が鳴る。
「早いね、セレフィナ」
フルールが、まだ新しい制服の襟を指で整えながら笑った。同い年のはずなのに、彼女はどこか大人びて見える。
「遅れたくないの。みんなと違って、あまり自分で料理をしてこなかったし。今日こそ、上手く焼くわ!」
セレフィナは小さく拳を握った。まだ初心者。混ぜすぎれば固くなり、焼きが足りないと生になる。けれど、吸収が早い。お菓子を好きな気持ちや、美味しい物を食べた経験なら負けない。
教室に入ると、すでに何人かが準備をしていた。フルールの隣で、同級生の少女が目を輝かせて言った。
「わたし、将来は町で自分の店を出したいの。グリューネマルクトでね。人が行き交う町だから、夢があるでしょう?」
「今度、そのグリューネマルクトで、お祭りがあるよね」
帝国との境に近い、少し大きな交易の町。祭りの日には、領内外から人が集まると聞いている。
教室の扉が開いて、学長――マンジェが入ってきた。一期生の私たちのほとんどの授業は、学長自ら教えてくれている。
王都の料理人として、特にデザートで名を上げた人だと聞いた。領主が呼び寄せて村の子供たちに振舞った際に、ぜひ教えて欲しい、という話になったらしい。
一見落ち着いた静かそうな人だが、授業が始まってみると、思ったよりも熱い。
教卓の上に立ち、袖をまくる。
「おはよう。――今日も基礎だ。」
何度も繰り返し、聞いた言葉。
「限られた期間で、全部は教えられない。だから“応用できる基礎”を渡す。技術と、考え方。そして、今日は考え方」
黒板にチョークで円が描かれる。中心に一言。
『食べる人の笑顔』
「人は、体に足りないものほど"美味しい"と感じる。
疲れている人に、欲しいのは何だ。
冷えている人に、必要なのは何だ。
――食べてほしい相手の"足りないもの"を想像しろ。その人の笑顔が、答えだ」
セレフィナの指が、無意識に胸元のリラハープを押さえた。
彼女の魔法は、お菓子のイメージでしか形にならない。甘さで足を速め、香りで心を高め、熱で力を強める。だからこそ――。
(相手に足りないもの。元気。温かさ。安心……)
その言葉は、魔法の話に通じる。セレフィナはそう感じながら、ノートをとった。
◇
放課後。
セレフィナは、フルールとエルント村へ行き、途中で分かれてジーナの家へ向かった。リリも待っている。セレフィナはここで、ジーナも得意な土魔法を教えてもらい、水魔法はジーナの蔵書で学んで補う。
ジーナの家の裏庭は、乾いた土と薬草の匂いがした。いくつかの束が干してあり、窓辺には小瓶が並んでいる。ジーナは縁台に腰を下ろし、腕まくりをして待っていた。
「来たかいね。今日教えるのは土魔法と、薬草だ」
「薬草……?」
セレフィナが目を丸くすると、ジーナは乾いた葉を指先で砕いた。
「菓子にだって使えるさ。香りや味もあるが、味を整えるだけじゃない。体の“足りないもの”を補える。気分を軽くする、眠りを深くする、胃を温める」
セレフィナの瞳が、きら、と光る。
「……足りないもの。マンジェ先生も、同じことを言っていました」
ジーナが一つ一つ、束を手に取りながら説明する。リンデンバウムの葉。乾燥ショウガ。カモミールとその仲間たち。
セレフィナは、効果を聞きながら、触って香りを嗅ぐ。甘い香り。土の香り。鋭い香り。
「土魔法は"支える"魔法だ。栄養も、香りも、土が土台を作る。通常は、植物を育てるのに使うが、菓子に使うなら、こう、練り込むようにかけて、植物の効果を増す。隠し味さね」
セレフィナは、ジーナの魔法を見て、真似してみる。
一通り説明が終わると、ジーナがリリの方を向いた。ジーナはリリにも、風魔法を教えている。
「リリ。祭りが近い」
「うん」
「人が増えると、匂いが混ざる。竜の気配を消す練習、忘れんじゃないよ」
「やってる。……"散らせ"」
リリが小さく呟くと、風が静かに流れ、"魔力の香り"がほどけるように薄まる。セレフィナはそれを見て、息を呑む。
(すごい。気配が薄まった)
「よし。そっちは問題ない」
ジーナは頷いてから、少し声を低くした。
「もう一つ。……リリは、黒髪と赤い目でも違うと分かる。見た目も、散らせるか?」
リリが、少し間を置いた。
「……見た目を、散らす?」
「匂いを散らすのと、同じ原理じゃ。空気を薄く纏って、揺らし、流す。顔の輪郭を、空気に溶かすイメージじゃな。言葉は短い方がいい。"風よ、我を透せ"」
リリは目を閉じた。
風を、自分の周りに引き寄せる。薄く。均等に。
そして、細かく震わせ、周囲に流す。
「風よ、我を透せ」
その瞬間、リリの姿がわずかにぼけた。
そこにいるのは分かる。でも、顔の細部が掴めない。
セレフィナが目を細めた。
「……いる、のは分かる。でも、なぜか"見えない"感じがする」
「そういうことじゃ」
ジーナが満足そうに頷く。
「完全には消えない。でも、人混みの中じゃ十分じゃろ。視線が滑れば、追いにくくなる」
リリは風を解いた。
指先が、少しだけ震えている。まだ慣れていない魔法の感触だ。
「祭りに行くなら、使えるようにしておきな」
「……うん。練習する」
リリは頷いて、胸の奥に刻む。
(散らせ――匂い。透せ――見た目。
逃げるための、二つの魔法)
祭りは、もうすぐだ。




