第9話 闇の継承者(帝国視点)
重く沈んだ空気が、玉座の間を満たしていた。
黒曜石の床は磨かれすぎていて、そこに映る影すら、冷たい。
中央に立つのは皇帝。
その前に跪く第一皇子レオグリム。
そして、わずかに後ろに控える小柄な少年――第二皇子ディアグリム。
玉座の上方、鎖のかかった梁には、一羽の巨大な黒い烏が止まっている。皇帝の人工烏、ディキオ。感情の無い目だけが、紫に濁って光を宿していた。瞬きもせず、ただ、見ている。
重い沈黙を破ったのは、皇帝の声だった。
「――まだ、竜にはなれぬのか」
皇帝の声は低く、石壁に吸い込まれ、さらに冷えて戻ってくる。
レオは跪いたまま、拳を握りしめた。気を失いそうな程の圧力に、爪が掌に食い込む感覚が、かろうじて自分を保たせる。
「……方法を、探っています」
皇帝の背後で、鎖が微かに軋んだ。
ばさり。
羽音は小さいが、重い。
「探る?」
紫の瞳が、刃のように細くなる。
「竜の血を引くというのに、まだ進まないか。……前の、竜の調査はどうした?」
「アグラールの国境近くの村に赤い竜が出た。その村に、竜の気配を持つ少女がいた。――以上の情報は得ました。しかし、どのように竜化するかの情報はまだ得られておりません。今は、次の機会を伺っています」
「次、次と、いつまでかかっている。竜化できないままか、闇の力を磨くのか、はっきりと期限を切って、結果を見せろ」
レオは、返事をして頭を下げた。そのまま、顔を上げることができない。皇帝の闇の重圧が、身体に圧し掛かる。
皇帝はゆっくりと、もう一人に視線を移した。
「ディア」
鮮やかな紫色の髪の少年が、静かに一歩、前へ出る。
まだ九歳だが、その瞳には子供の明るさはない。底の見えない紫色をしていた。
「お前はどうだ」
ディアは答えず、目を閉じた。
――次の瞬間。
窓外から、無数の黒い影が吸い込まれるように舞い込む
カァ――ッ。
カァアアアア――ッ。
数十の黒烏の群れが、玉座の間の上空を渦巻く。
一回り大きな烏を核に、闇の粒子が天井付近で集まり、絡まり合い、融合し、――一瞬だけ、巨大な黒い獣の輪郭を形作った。
翼を持つ、牙を持つ、影の怪物。
クロウ・レギオン。
まだ未完成ではあるが、確かに“集合体”だった。
皇帝の口元が、わずかに上がる。
「……この年で、ここまで形にするか」
ディアは息を整え、静かに言った。
「もっと、大きくできます。もっと、強く」
「そうだ。お前はできる」
皇帝の声は満足を含む。そして、次の言葉は――ある意味残酷だった。
「竜に頼る必要はない。闇は、我らが力だ」
その言葉と同時に、上空の影がゆっくりと羽を広げた。ディキオが、ぎぎぎ……、と微かに音をさせながら、首を傾ける。
レオの指先が、わずかに震えた。
「兄上」
ディアがレオを見上げる。紫の瞳は感情を見せない。悪意もない。 ただ純粋な疑問――それが、最も刺さる。
「兄上は……まだ、竜になれないのですか」
レオは言葉を失った。
皇帝は背を向け、吐き捨てるように言った。
「去れ。竜の力を得られぬなら、価値を示せ」
玉座の間を出る足音は、二つ。
長い廊下。冷たい回廊。レオは歩みを止めない。止めれば、折れる。
別の足音が近づき、ふと視線を横にやる。遠くの回廊から歩み寄る、紫の髪の女がいた。レオの母――皇帝の妹。案じる目。それはいつも、余計に胸を締めつける。レオは、手で彼女を遮った。
ディアは、二人から、視線を逸らした。
見ない。
見たくない。
――母を気遣われる兄の姿など、見たくない。
歩く。
歩く。
そして誰もいない石の階段で、ディアは足を止めた。小さく息を吐く。
(……母などいなくても、強くなれる)
表情を変えず、また一人、自室へと向かう。
◇
玉座の間を出たあと、レオは自室へ戻り、影である男に命じた。
「アグラールで、祭りがあると言ったな。今回は僕とウィンが行く。準備をしろ」
「はっ」
竜の匂いのする人間がいるという、村。あの後、気付かれたのか、黒烏たちが気配を感じることができなくなった。
(……答えをよこせ。俺に、足りないものを)
レオは視線を上げた。傍らには、母と彼に仕えるウィンクルムがとまって、様子を見守っている。鎖という名の、黒烏。彼の力を使えば、レオもある程度の黒烏の集合体を作ることはできる。けれど、皇帝の闇の力には、まだほど遠い。
レオには竜の血と、闇の血が入っている。ディアは、闇の血が濃い。闇の力を追うのみでは恐らく、いずれディアにも、越えられるだろう。
(だからこそ、竜が必要だ。闇だけでは――俺は、皇帝にはなれない)
アグラールへ行って、答えが得られる確証もないままの出発。まだ見えない答えを探して、もがき続ける……。
◇
石の廊下を抜け、ディアグリムは自室の扉を閉めた。重たい音。
闇色の部屋。窓の外には帝都の黒い空。
少年は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと頬を触る。
濡れている。
気づかなかった。
袖で乱暴に拭う。
「……母は、僕を捨てた」
父からは、そう教えられている。
闇の国に合わず逃げた女。
自分を置いていった女。
弱い女。裏切り者。
――そう、何度も。
けれど。
ときどき胸の奥に浮かぶ、知らない旋律。
誰かが優しく髪を撫でる感触。あれは何だ。
窓辺に、先ほど皇帝の間で烏の核となっていた、ひときわ大きな影が舞い降りた。
羽音は重い。
年老いた烏。片目に傷がある。ディアが生まれて間もなくから、ついていてくれた個体。
名は――コル。
「来てくれたのか」
ディアはそっと指を伸ばす。
コルは肩にとまり、低く鳴いた。
カァ……。
コルの頭に、自分の頭をそっと触れる。すると、ディアには、分かる。
“今日は、皇帝に、褒められて、良かったな”
“でも今日も、泣いたな”
“まだ細い。もっと食べろ”
「……細い?」
ディアが眉をひそめる。
「でも、父様も、絵姿の母様も細い。僕の両親は両方とも」
コルは首を傾げ、もう一度鳴いた。
“そんなことはない”
ディアは、わずかに息を呑んだ。
母の姿は、ちゃんと見たことがない。
“絵姿”はある。帝国が持つ記録の中の女は――細く、冷えた目をしている。
父である皇帝もほっそりとしているが、芯の強い女性だったと話していたことがある。
でも――自分を捨てた母など、思い浮かべても何にもならない。
「……僕には、君たちがいる」
少年の声は、少しだけ震えていた。
「血も、母も、関係ない。僕は闇だ。闇があれば、強くなれる」
窓を開け、夜風が吹き込む。
次の瞬間、コルが羽ばたき、無数の烏を集める。
クロウ・レギオン。
まだ歪だが、形は作れる。
「もっと強くなる」
闇の魔力が渦を巻き、部屋の隅の灯りが一瞬、消えた。
ディアは再び練習を始める。
涙の痕を乾かすように、闇が渦を巻いた。
◇
帝国からは、遠く離れた森。出張所の裏を少し歩いた辺りで、アンドロメダはふと顔を上げた。
「……あら」
闇の気配――それは、懐かしくて、胸を刺すもの。
枝の上に、一羽の老いた烏が降りた。片目に傷。重い羽音。その存在感だけで、分かる。
「コル。……まだ、あの子のそばにいるのね」
コルは低く鳴き、アンドロメダの出した腕に乗った。すると、断片的な像が、アンドロメダの脳裏をよぎる。
――冷たい玉座の間。
――紫の瞳。震える指先。
――ひとり、泣いている少年。
そして、もうひとつ。
――“細い”という言葉。
「……細い、か」
アンドロメダは、自分の頬に指先を当てて笑った。笑い方は軽い。けれど、目は笑っていない。
「帝国にいた頃の私は、確かに細かったわね。あの人たちも……きっと、その姿のまま覚えてる」
コルが鳴く。
“まだ細いと思っている”
“皇帝も、皇子も”
「あら、困ったわ」
アンドロメダは肩をすくめる。
「こっちに来てから、食べ物が美味しくて。……戻ったら驚くかしら。痩せられるかしらね」
コルは、じっと彼女を見た。まるで、笑うべきか黙るべきか量っているように。
アンドロメダは焚き火を見つめ、声を落とした。
「捨てたのではないのだけれど」
小さく笑う。
「戻らないのは、事実ね」
焚き火の火が揺れる。
「……でも、夜は終わらないわけじゃない。明日へ向かうための夜にもなれる」
星の光が、闇の中で明るく輝く。
コルは低く鳴いた。
その音は、肯定にも、慰めにも聞こえた。
アンドロメダは、ゆっくり息を吸う。
「もう少し、待っていて。きっと、会いに行くわ。
――その時は、もう逃げない」
コルは静かに羽ばたき、夜へ消えた。
森に残るのは、歌姫の沈黙と、星を映す闇だけ。
そうして間もなく、また夜が明ける。




