第九話
やっと信長との共闘を描けました。
読んでいただき感謝申し上げます。
天文15年(1546年)
秋の収穫が終わり、蟹江の蔵に新米が積まれ始めた頃。
伊勢湾を渡る風に、どこか緊張を孕んだ空気が混じり始めた。
その空気を裂くように、山伏衆の弁増が駆け込んだ。
「若様……駿河今川家が、ついに東三河へ侵攻を開始いたしました!」
その報せに、広間の空気が一変する。
今川家は甲斐の武田と固く同盟を結び、北条とも一時的な休戦を成立させていた。
外へ向けて領土を広げる条件はそろっている。
三河国内でも親今川派が多く、松平広忠の家臣団さえ今川へ協力的だった。
今橋城主・戸田宣成はあっさり落城したという。
今川は順調に東三河を飲み込んでいる。
「……来るな」
父・秀政が低い声で呟いた。
そのとき、続けざまに、織田家からの使者が蟹江に到着する。
古渡へ上がっていた信秀が、西三河へ進軍を開始したというのだ。
その夜、私のもとへ届いた一通の書状。
差出人は、那古野の織田三郎信長。
内容は驚くほど簡潔で鋭かった。
《大浜へ出陣する。
敵は二千。
政秀と林通勝を副将に八百で当たる》
《気負いは無い。
だが……初陣ゆえ、父上の目に恥じぬようせねばならぬ》
紙の端に、わずかな震え。
緊張か、興奮か、本人にもわからぬほどの微細な揺れ。
(十三の年で、二千の軍を相手取るか……)
私は史実を知っている。
この戦いは、信長が初めて“勝利”を掴んだ戦。
だが、それは綱渡りの勝利だった。
前世の知識と、初陣からいくつか戦を重ねていた私は、書状からわずかな焦りを感じていた。
胸の奥がざわついた。
「……父上、叔父上。大浜に私も参りとう存じます」
広間にいた秀政と右馬助秀隆が同時に顔を上げた。
「信長殿の初陣か……」
秀政の瞳に、僅かな動揺がよぎる。
「敵は二千。信長殿は八百」
「……不利すぎるな」
秀隆は腕を組み、うなる。
私は地図を広げ、指で大浜の海岸線を示した。
「大浜の沿岸部は浅瀬が多く、船の出入りは難しいとされておりますが……
叔父上の船なら可能です。
敵が信長殿へ気を取られている隙に、奇襲上陸できます」
秀隆の眉がわずかに上がる。
「……敵の側面を突く、というわけか。お主らしい策だ」
「水軍衆を率いて、敵の側面か背後へ回り込みます。
信長殿が正面で押し返している間に、こちらで敵の隊列を崩す。
大浜は砂地ゆえ、混乱が広がりやすいはずです」
父秀政は、しばらく沈黙した後、低く問いかけた。
「……本気か、秀興」
「はい。信長殿の初陣を、勝ち戦へ変えねばなりません。
周辺国からの圧力が高まっている中、弾正忠家は安泰だと示さねば、
織田家と伊松家は、もはや一蓮托生です」
その言葉に、秀政と秀隆は大きく息を吐く。
そして父は、ゆっくりと鷹揚に頷いた。
「……よかろう。秀隆、船の準備を」
「任せておけ。秀興を無事に送り届け、必ず勝たせてやる」
叔父は豪快に笑い、立ち上がった。
大浜まであと四里。
街道に沿う松林の隙間から、潮の気配がわずかに混じり始めたころ。
八百の兵を率いて先頭を進む信長は、馬上で風を切り前を見据えていた。
そこへ、土埃を巻き上げて一騎の伝令が駆け込む。
「し、失礼仕ります! 那古野よりの急使!」
信長が手綱を引き、伝令が膝をつく。
「申せ」
「はっ……
伊松藤左衛門秀興様、 並びに伊松右馬助秀隆様、
三百の兵を率い、大浜沿岸より上陸攻撃を行うとの由にございます!」
その瞬間。
平手政秀も、林通勝も、息を呑んだ。
――三百で海から奇襲を?
――援軍ありがたいが、合わせられるか?
驚愕する副将らをよそに、信長の口元がゆっくりと歪んだ。
「……ふ、ふははっ!」
若い武将らしからぬ、不敵な笑み。
「秀興め、ようやるわ。わしが欲した時に、欲した場所へ現れる」
信長は即座に馬腹を蹴った。
「全軍、行軍を速めよ!」
政秀が慌てて進み出る。
「信長様、ご再考を!
秀興殿らと連携を取るため、一度軍勢を整えるべきに――」
「構わぬ」
信長は振り向かず答える。
「秀興ならば、わしの動きを読む。
ならば、わしも秀興を信じて進むだけよ」
政秀と通勝は言葉を失い、やがて静かに手綱を引いて従った。
大浜へ到着したのは、昼下がり。
風が強く、海は白い波頭を立てていた。
砂地の向こう側には、今川方の陣が帆のような陣幕を風に揺らしている。
信長は馬上から一瞥し、すぐに命じた。
「政秀、火矢の準備を。
通勝、騎馬は右から回り込め。
わしは中央から突く」
政秀は眉をひそめる。
「まことに……強襲なされますか」
「当たり前よ。風を見よ」
信長は空を仰ぎ、さらりと言い放った。
「この風は、わしの味方だ」
火矢の燃える匂いが漂う。信長が槍を掲げ、声を張り上げた。
「全軍――構えッ!」
松林を揺らす風の音とともに、炎をまとった矢が次々と放たれる。
ひゅるるるる――
ぱんっ! と乾いた音を立て、今川の陣幕に火が移った。
強風が火を押し広げ、砂煙と炎が混じり合う。
「火だ! 消せ――!」
「敵襲だ、ひけ、ひけぇ!」
今川軍は瞬く間に混乱した。
信長は槍を突き立て、声を張り上げる。
「突撃――!!」
八百の兵が怒涛の勢いで砂地を駆け抜けた。
今川軍が炎と突撃に翻弄され始めた、その刹那。
浜の向こう側、海霧の奥から――黒い影が湧き上がるように現れた。
「叔父上、ここで降ろせ!」
「おお、いけいけ! 波に飲まれる前に走れぇ!」
伊松家三百の兵、上陸。
甲冑の水滴を撒き散らしながら、秀隆の怒号とともに砂浜へ飛び出していく。
その先頭には、秀興の姿。
「槍備え――前へ!!」
「おおおおおッ!!」
背後からの奇襲に、今川軍は完全に崩れた。
「う、後ろ!? ば、馬鹿な、海からだと……!」
「やめろ! 振り向くな、前の織田が――うわあああ!」
前は織田軍、後ろは伊松軍。
左右は織田騎馬隊と伊松水軍の弓兵。
逃げ場は、どこにもなかった。
炎と砂、怒号の渦の中、今川の軍勢は完全に四散した。
戦場の気配が一気に静まり、風が炎の残り香を運んでいく。
信長は槍を掲げたまま、遠くで槍を巧みに振り回し敵を屠る秀興を見つけた。
「……やはり合わせて来たか。秀興、見事よ」
その目は、初陣の少年兵ではない。すでに“武将”の目になっていた。
大浜の戦が終わり、海風が炎の匂いと血の鉄臭さを風に乗せて運ぶ頃。
既に敵の遺骸は端へ寄せられ、浜には織田軍と伊松軍が肩を並べて簡素な陣を張っていた。
夕刻。
空は朱から群青へ変わりつつある。
焚き火がぱち、と弾け、その周囲に信長、政秀、林通勝、秀興、秀隆が座した。
信長は、まだ少年らしさを残す輪郭に、
勝利の火照りを宿していた。
「……ふふ、見たか秀興。
あの今川の狼狽ぶりよ!」
目がきらきらと輝いている。
秀興が笑みを返した。
「信長殿が風を読み、火矢の合図を下されましたからこそ。
こちらの奇襲も、あれ以上ないほど効果を上げられました」
「そう言うな。
そなたが背を突いてくれた時、
わしは“あ、勝ったな”と思ったぞ」
信長は豪快に笑い、焚き火に手をかざした。
政秀がため息をひとつ。
「若……いえ、信長様。
あれほどの強襲、少しは御身の危うさをお考えくだされば……」
信長が振り向き、悪戯な笑みを浮かべる。
「政秀よ、そなたは心配しすぎる。だから白髪が増えるのだ」
政秀は眉尻を下げて苦笑した。
「増えるどころではありません……。
今日の戦でまた十ほど白髪が増えましたぞ」
「ならば、二十ほど増やしてくれるわ!」
通勝が堪えきれず吹き出した。
「ははっ……それでは政秀殿の寿命が縮まりますな」
焚き火の反対側で、秀隆が酒皮袋を振りながら笑った。
「いやぁ、信長殿の火矢も見事であったが、
うちの秀興の突っ込みも大したものであったぞ!」
秀興が軽く睨む。
「叔父上、声が大きいです。味方も寝ております」
「構わん構わん! 祝いの席よ!」
秀隆は秀興の背をばん、と叩く。
「お主、敵の中に飛び込みすぎだ。
あれで死なぬあたり、やはりわしの血縁だな!」
「私は叔父上のように酒と海と喧嘩ばかりで育っておりませんが」
「そう言うがな! 戦いとは勢いだ! 勢い!」
通勝が声を潜めつつも笑った。
「……それが伊松家の強さでもあるのでしょうな」
秀隆が大声で笑い続ける一方、
政秀は酒を口に運びながら、火越しに秀興へ視線を向けた。
「秀興様」
「はい、平手殿」
政秀は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「……ご助力、感謝申し上げます。
殿との連携も、お見事にございました」
秀興は軽く頭を下げた。
「信長殿の御気性を知ればこそ、動きやすいのです。
信長殿も私を信じてくれたからこそ、うまくいったのでしょう」
政秀は息を吐く。
「ええ……そこが“怖い”のです」
信長がまた火に当たる背中越しに、政秀は静かに続けた。
「若様は、人を信じすぎる時があります。
そして、信じた者のためなら、自ら無茶をなさる」
秀興は政秀の言葉に深い理解を示すように頷いた。
「……だからこそ、守らねばならぬ御方なのですね」
政秀は驚いたように目を瞬き、そしてゆっくりと微笑んだ。
「その通りでございます、秀興様」
秀興もまた微笑み答えた。
「政秀殿の苦労を考えると頭が下がる思いです。
だが、支えがいのある御仁ですな」
やがて、酒を飲み疲れた兵たちが次々と寝息を立て、釜を洗う音も、遠くの馬の鼻息も、
夜の波に吸い込まれるように静まっていった。
大浜の浜風は、戦の匂いを薄めて遠くへ運んでいく。
空には雲がなく、星がいくつもいくつも瞬きを返してくる。
秀興は焚き火の前に座したまま、ふと遠くの海を見た。
黒く沈むその水平線の向こうに、この先の乱世の影が広がっている気がした。




