表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞・戦国奮闘記  作者: 峰ジスト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/14

第八話 輿入れ

信長の家督相続まではまだまだかかりそうです。

登場人物の年齢などを考えると頭が混乱します。

日間ランキング【文芸:歴史】にランクインすることができました。

皆様に感謝申し上げます。

天文12年(1543年)

美濃敗戦の報が蟹江へ届いて三日後。

那古野から早駕籠とともに、一通の書状が届けられた。

封には、まだ幼い文字ながら力強く書かれた家印。

送り主は──吉法師。

私は静かに封を切った。

**「秀興へ

  父上の戦、敗れたり。五千を失い、那古野も沈んでおる。

  皆、父上を責める声ばかりだ。わしは……悔しい。悔しくて眠れぬ。

  されど、父上は言われた。“この悔しさを忘れるな。強くなれ”と。

  わしは強くなる。そなたも、強くあれ。

  いつの日か、わしらで尾張を変えるのじゃ。

  吉法師」**


手紙を握る指が熱を帯びる。

(……幼いながら、これほどの覚悟を持つのか)

勝った戦よりも、負けた戦の後にこそ“本性”は現れる。

吉法師は、まだ十歳にも満たぬ身で、

すでに武家の嫡男としての魂を持っていた。


吉法師の書状が届いたその翌日。那古野から一使者が訪れた。

弾正忠家の重臣・林新五郎であり、その表情はいつもより引き締まっている。


「伊松様。この度の美濃における大敗、まこと面目次第もござらぬ」


父・秀政が穏やかに応じる。


「戦に勝ち負けはつきもの。弾正忠殿の勢いが失われたとは、一言も申しておらぬ」


使者は深く頭を下げ、そして次の言葉を告げた。


「……我が殿より。秀興殿への御息女・志乃様のご輿入れ、

 時期を早め、“大々的に執り行いたい”との仰せでございます」


広間に静かな空気が走った。

母・琴子が息を呑む。祖父・秀教は目を細め、父は小さく頷く。


(……大々的に、か)


・敗戦の空気を断ち切る

・織田弾正忠家が健在であることを示す

・伊松家との結びつきを周辺国に示す


これは、政治だ。

使者は続ける。


「志乃様のご輿入れは、那古野・津島・熱田・蟹江まで数日をかけ、

 街道を飾り、諸家へ触れを回し、“尾張南部は安泰である”と示すと……」


(……織田弾正忠家は、伊松家との結びつきを“旗”にするつもりだ)


父は静かに言った。


「承知仕った。我らも、しかるべき準備を整えよう」


その瞬間。

伊松家と織田弾正忠家は、ただの友好関係ではなく──

一蓮托生の道を歩み始めた。


少し経った頃、吉日。

街道には幔幕、のぼり、花で飾られた道。

熱田の商人衆も動き、津島の商人からも祝礼が届いた。

そして──志乃姫の輿入れ行列が蟹江へと向かう。


白と朱の幕に囲まれた豪奢な輿。左右に立つは那古野の精鋭武士。

その後ろには織田家からの荷馬が二十頭。婚礼の献上品、衣、調度品が山のように積まれていた。


「見よ、あれが弾正忠家の姫か……!」

「伊松家へ入るのか……! 蟹江の時代が来るぞ!」

道の両側から、領民たちの声があがる。


蟹江の屋敷では、母・琴子が自ら衣紋を正し、祖父・秀教が直垂で正座して迎えの場に立った。


志乃姫は十歳。だがその姿は気品に満ち、幼さよりも凛とした表情が際立っていた。


「このたび……伊松家へ参ります。

 志乃にございます」

透き通る声。


母がにこやかに答える。

「ようこそ伊松家へ。今日よりは、我が娘も同じ。

 どうぞ、ゆるりとなさいませ」


私は志乃姫と正座して向き合い、深く礼をした。

「伊松藤左衛門秀興、これよりそなたを妻として迎える。

 どうか、末永く……」


志乃姫はほのかに頬を染めて答えた。

「私は……弟の吉法師よりお聞きしております。

 “秀興殿は、よく働き、よう学び、武の才にも恵まれた御方”と……」


思わず息を飲んだ。

(吉法師……)

志乃は微笑み、静かに言った。

「どうか、支え合いましょう。

 我ら……ともに織田の、そして伊松の未来のために」


その瞬間、蟹江の空気が変わった。


天文15年(1546年)

春の風がまだ冷たさを残す早朝。

庭の梅が白くほころび始める季節、私は数えで十五を迎えた。

志乃が我が家に輿入れしてから、三年が過ぎた。

十四になった志乃は、年齢よりも落ち着いており、笑うと目元がふっと柔らかくなる。

まだ身体への負担を考えて夫婦の営みは避けてはいたが、夫婦仲は良好で、日々の暮らしは穏やかだった。

特に母・琴子と志乃は驚くほどに気が合い、夕餉のあとには三人で灯火を囲み、

歌を詠んだり、京の話をしたりして過ごした。

そのひとときは、戦国の荒々しさとは無縁の、“家族そのものの温もり”があった。


しかし、この三年は喜びばかりではない。

まず、祖父・秀教が病に伏し、続いて祖母・阿久までもが、

季節を跨ぐように相次いで亡くなった。

二人の亡骸を前に、私はただ座り、香の煙を見つめるしかなかった。

志乃は私の袖をそっと握りしめ、母は静かに涙を拭い続けていた。


葬儀は盛大だった。山科家からは言継が直に参じ、大橋家からも使者が集まり、

織田弾正忠家からも弔いの品が送られた。

「良き御祖父であったな、秀興よ」

言継は深い声でそう言い、長らく伊松家と山科家を支えてきた二人を悼んだ。


沈んだ空気を変えるように、次に家へ訪れたのは朗報だった。

母・琴子が続けざまに懐妊した。二度の安産で、まず弟が、次いで妹が産声を上げた。

産室の前で父はいつになく落ち着きを失って歩き回り、志乃は汗を拭く母の手を取り続け、

私はただ祈るように座していた。

幼い兄弟を抱いたとき、胸の内の緊張がふっと緩んだ。

「……この子らが生きる世を、

 どうか少しでも明るいものにせねばならぬな」


自然と言葉が零れた。

志乃はうなずいて、赤子のほほを撫でた。

「秀興様がいるなら……きっと守れます」

その声は柔らかく、揺らぎがなかった。


そして、もう一つのめでたい報せがあった。


あれほど結婚を避け、「海のほうがよほど気が楽よ」と笑っていた

叔父・右馬助秀隆が──

ついに結婚したのだ。


しかも、水軍衆副将・井俣重蔵の娘が叔父に“ひと目惚れ”したらしい。

重蔵殿の娘は、勝ち気で朗らかで、どうやら叔父を見つけるたびに

「いつ私を嫁に迎えますの!」と攻め続けたという。

父や母まで重蔵の娘に協力し、包囲網を敷いていた。


「いやぁ……あれは無理だ、逃げ場がなかった……」


叔父は頭をかきながらも、どこか恥ずかしそうに顔を紅くしていた。

そして一年後には男児が誕生し、叔父はすっかり“父の顔”となった。

海風に焼けた腕で赤子を抱きながら、

「これは、わしに似て気骨のある子になるぞ」

と鼻高々で言う姿に、家中はしばし笑いに包まれた。


一方、弾正忠家にも大きな変化があった。

美濃との戦線をどうにか休戦に持ち込んだ信秀は、那古野城を吉法師に任せ、自らは古渡城へ移った。

古渡は、尾張南部と西三河を睨むには都合の良い地。

「今度は三河よ。今川が西へ伸びようとしておる。ならば、先に動かねばならん」

その言葉を耳にした者によれば、信秀の声色は以前の豪胆な響きに加えて、

獲物を定めた獅子のような鋭さを帯びていたという。

敗戦から立ち直った“尾張の虎”が、再び牙を研いでいた。


吉法師は、那古野城主として初めて政務を担い始めた。

後見は平手政秀。

政秀の穏やかな声が、城内の空気を締めている。

私は手紙のやり取りの中で、吉法師の変化を何度も感じていた。

――前世の知識で知っている“うつけの片鱗”はまるで見当たらない。

むしろ、資料で読んだ「抜群の観察力と決断の早さ」に通じるものを感じていた。

ある手紙には、こんな愚痴があった。

《政務はよい。だが……平手の爺が堅物すぎて、

 わしがほんの少し外へ出ただけで叱るのじゃ!》

その裏には、「蟹江に行きたい」という想いも透けて見える。


実際、吉法師はしばしば少人数で蟹江を訪れた。

突発的であり、先触れもない様子から政秀に咎められてはいたが、

そのたびに苦笑い混じりの手紙が届いた。

《そなたの家に行くと、爺はすぐ顔を曇らせる。まったく、堅いわ》と。


私は政秀とも数度、書状を交わした。

平手政秀は深い教養をもち、京との縁も強い。

山科家との関係から、こちらにも敬意を払ってくれていた。

ただその筆致には常に「吉法師様の将来を思えばこそ」という強烈な使命感が滲んでいた。

(……このままでは、史実の“あの結末”を迎えかねない)

そう思った私は、政秀があまり苦労を感じないよう、吉法師に対して“気配り”を促す文を送り、

同時に政秀には吉法師の“行動の速さと好奇心”を尊重するよう助言を重ねた。


二人の間に小さな風穴が開き、完全ではないが、重苦しい行き違いは少しずつ和らいでいった。

そんな変化は、那古野のほかの家臣との間にも広がっていた。


そんな折、吉法師の元服が古渡城で行われるとの知らせが届いた。

私は義兄として正式に招かれ、志乃が選んだ祝いの品を携え古渡へ向かった。


城下は普段より数段厳かめしく整えられていた。

家臣、国侍、商人たちが静粛に列を成し、広間には香が焚かれ、白砂が敷かれ、

空気は張り詰めたように整然としていた。


中央に座す吉法師は、幼さの抜け凛々しく、

いつもの不敵な笑みを抑え、厳然と正面を見据えていた。

私が近づくと、ほんのわずかに表情が和らぐ。

「来たか、秀興」

私を見ると、ほんのわずかに笑みを浮かべる。

「もちろん。吉法師殿の御立派なお姿、平手殿も感無量でしょう」

その言葉に、吉法師は小さくうなずいた。


儀が始まると、場にいたすべての者の呼吸が揃ったように静まり返った。

信秀が進み出て、吉法師の前へ立つ。

その姿は敗戦の影を全く感じさせず、むしろ以前よりも風格を増していた。

厳粛な沈黙の中、信秀は声を発した。


「これよりは、織田三郎信長と名乗れ」


その声は低く、揺るぎなかった。

広間の空気を震わせるような重みを帯びていた。


(……信長)


その名が、歴史の道筋へ向けて確かに刻まれた瞬間だった。


儀式が収まり、客人たちが徐々に散り始めた頃。

広間の隅で、信長となった吉法師は私を呼び止めた。

「……秀興。わしは、父上を超え、強くなるつもりだ」

その声は低く、揺らぎがない。

「尾張も美濃も……いや、その先も。見据えて動かねばならぬ」


「では、私も供に駆け抜けるとしよう、信長」

そう答えると、信長の口元がわずかに弧を描いた。


「頼もしいな、秀興」


その言葉は、“信頼で結ばれた約束”に他ならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ